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【神保町の生活史 #3】人とも会うんなら、じゃあもう会おうよすぐにみたいな。なんかね、そういうふうに思うようにしてる。

 私も昔なのでね、神保町にいたのは。

__10年ぐらい勤めてらっしゃったとか。

 そうです。広告代理店に勤めてて。専修大の交差点あたり。

__どのあたりなんですか?よく知らずすみません。

 靖国通りをずっと行くとあるんですよ、九段下寄り、その所に会社があって。

__そうなんですね。それじゃあ、今日までのお話をぜひ聞かせてください。

 忘れちゃったことも多いけどね。

__よろしくお願いします。まず出身はどちらですか?

 私は東京の板橋です。板橋の大山っていう駅で池袋から三つ目、東武東上線。そこで生まれて、母親が全部女系で、6人女兄弟で、その家族が祖父、祖母とみんなで住んでたんですよ、一軒家に。多いときは16人くらいで住んでいたんです。

__ちょっと想像つかないです、普通の2階建てとかの。

 そう、2階建てで、なんていうんだろ、お惣菜みたいなのを祖父と祖母が作って売ってたりしてたんですよ、家族ごとに1部屋って感じで(笑)。なんかほんと古い、うん、そういう大家族で育ってるから。

__大家族。当時でもそこまでは、珍しいほう?

 ただ私たちのとき、ほんとに兄弟3人、4人とかざらにいたし、商店街のなかだったから、何代目とかそんな感じで。小学校とかもみんなあだ名が、八百屋さんとか果物屋さんとか食堂屋さんとか、名前じゃなくて、駄菓子屋さんとかそういう感じで呼んでて。会社員はあんまりいないぐらいで、そうなんですよ。そこで生まれ育って、で、どうしても母親が、私、弟2人なんですけど、「5人家族で、やっぱり住みたいね」って言って、それで板橋の加賀に引越して。

__もとの家からは近い?

 そうですね、歩いて2,30分ぐらい離れたと思うんですけど。

__お引越しになるのはいつぐらい? 

 多分、高校か、大学か、そうですね大きくなってから。高校までは今の大山にいたかな。で大学とか、就職してあっちにって感じかな、家族5人で初めてマンションに。
 父親は普通のサラリーマンなんですけど、最初は女性ばっかりのなかで暮らしてて。なんか、長女がお婿さんをとってそのうちを継いで、母親は4番目かな、結婚してない伯母とかもいた。私は弟が2人いるけど、その長女の叔母に子どもが2人いたから、お兄ちゃんお姉ちゃんとかいる感じで。上がまだいたので、従兄弟ももう兄弟っていうか、お風呂とかも入れてくれたし、勉強とか教えてもらったし。

__商店街らしい家族の感じもあるけど、お父さんはサラリーマンで。

 そうですね、まあ帰ってくるだけだったから。うちの父は新聞記者だったので、ほんとにもう、なにかあれば飛んでって、ほとんど家にはいなかった。小さい頃、あんまり父の記憶はなくて。

__お父さんはどんなお仕事をされていたんですか?

 原子力っていう分野をやってたので、だからほんとに今の、原発とかの最初の頃の記事とかをやってたから。それに関連した記事とか担当していろんな分野の知り合いや、政治家などもいて。

__お父さんの仕事ぶりはそのときはあんまり知らなかったですか?

 そうですね。ただ、うちにいるときは原稿書いたり赤ペンで校正したり。とにかく新聞をたくさん読んでたり、本読んでたり、そういうイメージしかないんですね。私とかが小さいとき、読書感想文だとか作文とか書くと、すごい添削して朝置いてあって、真っ赤になって、「これ清書しなきゃいけないじゃん!」とか(笑)。句読点とか、ここはだめみたいな感じで赤字で書いてあって。父親が全部添削して、それが嫌だった。朝起きると、ああ、もう1回全部書かなきゃ、直さないでくれみたいな。

__厳しい(笑)。じゃあ、小学生ぐらいのときは、お父さんみたいに読み物が好きだったり?

 そうですね、うん、どっちかっていうと本が好きだったかな。やっぱりなんかいろんな本がうちにもあったし、父親が読んでた本とかが。

__今たしか「おさんぽ神保町」で校正をされてると伺ったんですが、なんだか近い感じがしますね。

途中でそういう仕事に携わりたいって思って、それで広告代理店に入ったんで。やっぱりすごい尊敬してたから、父親を。父親のことを知りたいと思って。

__興味を持ちだしたのはいつ頃だったんですか?

 私の時代は女子は短大で、4年制は行かないで、で就職もすぐ決まっちゃって、〇〇にいたんですよ、お菓子の。新入社員で入ってそこで10年ぐらいいたのかな。で、ちょうどその頃「男女雇用機会均等法」っていうのがあって、女性も男性のように、異動したり総合職の試験を受けたりしなきゃいけないっていうふうになって。大手だからやっぱそういう世間の波に、乗らなきゃいけないから。人事制度とかも変わっていって、女性も同じ部署にずっといちゃいけないっていうか、異動しましょうって。でちょうど私がその対象に、入社してから7年目ぐらいなってたのかな。海外事業の管理部門に異動になって。私英語とか外国人とか苦手だから、もう1番嫌っていうか、自分に合わない、いや転勤の希望は出してたんです、営業とかやりたいと思ってたから、でもそういう異動になったから、それを機に外に出ようかと思って、転職しようかなって。
 なんかああいう大きな会社って、会社が社会なんですよ、700人ぐらいいるから、支店とか工場とか、もうその会社だけで世間ができてる、ルールとか。社長が総理みたいな感じで、人事部に配属されて、研修、社員を教育する部署に入ったんですよ。だからほとんどの社員の人を知ってるっていうか、必ず研修って受けなきゃいけないので。で、その部門にいたから、なんかもうほんとに会社の人しか知らないっていうか。7年間それで過ごしてきたから、もう、辞めるしかここから出られないだろうなと思って。女性なんかもお局様じゃないけどすごい長い人もいて、そういうドラマに出てくるような、主みたいな女性もたくさんいて、この人には頭下げないといけないとかね、けっこうそういう社会だったから。うん、ずっとここにいたら結婚もできないし先輩のようになると思って、で、異動をきっかけに辞めようかなと思って、親にずいぶん怒られたけど(笑)。

__せっかく、いいところなのにって。

 うん、すごい景気もよかったから、会社も時代もよかったからね。ボーナスとかもすごいよかったし。

__転職って珍しいんですかねそのときは?

 その頃はね、うん。結婚して辞めるならいいけどそうじゃなくて辞めるのは。だいぶ、会社からは怒られ、怒鳴られたけど、でもね。おかげで今があるから、ずっといなくてよかったなと思ってる。

__やめてすぐ次の。

 次はちょっとね、講演会の仕事を、なんか研修の経験を生かそうと思って、先生についていろいろ回る、そういうのをしてたんだけどまああんまりうまくいかなくなってしまって、それで広告代理店に。

__初めての仕事。

 まったく初めての仕事、医療、なんていうのかな、基礎医学の関係。博報堂とか電通とか、広告代理店だとああいうとこが有名だけど、そんな大きい会社じゃなくて、ほんとに10人ちょっとでやってるような、基礎医学の媒体だけに特化した広告代理店。専門に扱ってる学会誌だとか書籍だとか。あとそれに伴う、学会があるじゃないですか、ああいうののサポートもする。

__すごい難しそうです。

 もう最初はちんぷんかんぷんだったけど、でもそういうのは専門の人がいるから私は締め切りと、出版社とクライアントの間で広告をやりませんかって言ったりする、パイプの役割なので。

__基礎医学にも広告があるんですか?

 先生たちが使う顕微鏡だとかピペットとかありますよね、いろいろ、消耗品だとか、なんていうのかな、検査薬だとか。分野は広いですね。あとおっきなジャーみたいな培養装置や、冷蔵庫みたいなものだとか。先生方にこう、使ってもらおうっていうか、そのためにカタログ作ったり。

__少しイメージできました。広告のほうに行こうと思ったきっかけをもう少し聞きたいです。

 広告っていうか、本とか雑誌とか作ってみたい、父親がやってたようなことに少し携わってみたいって。で、知識がなくても、つなぎっていうか、パイプ役ですみたいな、そういううたい文句だったような気がするんだよね、それだったらできるかなとか思って、あと営業とかもやってみたかったから。

__人事の仕事から営業に。

 研修やってるときにビジネスマナーだとか社会人としての心得とかを担当してたから、電話応対とかそういうのも苦じゃないし。営業管理研修とかもあったから営業マンもたくさん見ていろいろ話を聞いたりしてたから。こうやるといいよとか聞いたりしてて、全然あんまり、苦にならない。

__転職して生活リズムは変わりました?

 前の会社にいたときも残業は多くて。ほんとはここまでってなってんだけど、タイムカードとかはなくて自分で申請だったから遅くまでやったりとか。広告代理店は、今度は出張とかがけっこうあって。学会とかって毎年いろんな所でやるんですよ、会長の持ち回りで、長崎大の先生だったら長崎でやるとか。なのでそれに伴ってほんと全国どこでも。事務的なことをやるのに付き添って行ってたから出張とかが多くて。学会の時期って春と秋が多いから、そういう時期にね。仕事はやっぱりけっこう大変だったな。でもあんまり苦にはならなかったな。でもこう、働くもんだって、私たちの年代って、なんていうのかな、うーん、会社に勤めたら働くもんだ、できるまでやるもんだっていう感覚だったから5時になったら終わるとかそういう感覚はなかったんだと思う。たぶん私たちの年代ってそうだったんですよね、仕事が終わるまでやるっていうか。規則とかそういうことより自分がやらなきゃいけないことをやる。

__お仕事ばっかり、とか、自由な時間が欲しいみたいなのはなかったですか?

 でも仕事しながらいろんな人と知り合えたり、私お酒飲むのが好きだから本当によく誘ってもらった。仕事終わってから残ってる人で飲みに行こうとかね、それで発散して、愚痴言ったり。私、はしごするのが好きだったから1軒じゃ終わらなくて。飲み始めると酔っぱらうまで飲まないと飲んだ気になんなくて、1、2杯でおしまいっていうのはだめなんで、ほんとにもうベロベロになるまで何軒もはしごして。お店変えるとまた一から飲み始めたりして、ビールからとかね。

__分かります。

 あるよね(笑)。そういうのが好きでけっこうはしごして、でまわりにも飲める人多かったから。最初の会社のときなんかもうすごい、いろんな部署から飲もうっていって毎日のようにお誘いがあって、同期がたくさんあっちこっちの部署にいるからそのつながりで、ここで飲み会あるから来ない?って。いろんな部署に1人、みんな点々と、同じ部署に2人はいないから、ほんといろんなところから。そういうので本当に毎日誰かと飲んでた。

__どこらへんで?

 銀座、新橋、神田、有楽町、特にガード下とかはしょっちゅう行ってましたね。行くと他の部署がいて一緒になったり。ちょうどその頃はバブルで、女の人はお金払わなくてもいいみたいな、そういう時代だったから、上司が全部奢ってくれたり。へたしたら遅くなったらタクシーチケットくれて帰んなさいって言ってくれたり。そういう時代だったから、お金には苦労せず、好きにおいしいものを飲んで食べてた。古い会社だったから歓送迎会とかも必ずきちんとやって、あと部署ごとに社員旅行、じゃないけどそういうのもあったから。温泉行ってお座敷でみんなでみたいなね。そういうのは頻繁にやってたかな、親睦を図ると言いつつ。

__いい時代ですね。最初にお酒好きだなって思ったのはいつです?

 お酒好きだと思ったのは、そうね、大学とかの頃からけっこう飲んでたから、その頃かな。1番初めはコークハイ飲んでたね。ウイスキーをコーラで割ったのを飲んだりして、ちょっと背伸びしてね。でもほとんど隣に座った男の人とかが奢ってくれた。必ずどっかから「飲んでいいよ」みたいな感じで、奢ってくれてた。いい時代だったよね、怖さも知らないけどでも変なことする人もいなかったし、単純に若い子と話したいって、そういう感じで。で大学んときは、今はどうなのかな、コンパがすごくて。で、全部の大学、東京にある大学を制覇しようとか馬鹿なこと考えて。教室行くと毎日「今日ここでコンパあるんだけどどう」とか、ほんとにどこからでもなんかお誘いがあって。

__どうやってお誘いがくるんですか?

 なんか知り合いの知り合いとか、あとバイトしてる仲間とか、そういうのから、人数何人集めるからこっち何人集めてみたいな感じ。教室行くと「今日空いてる?1人足りないんだけど」って、捕まったら最後みたいな。そこで知り合うとまた次のコンパをセッティングしてじゃあ今度はこういうメンバーでやろうとか。ほんとになんか10人10人でやったりとかっていうのも、しょっちゅうだったね、まあ5人5人くらいが多かったかな。あと新歓コンパ、サークルとか入ると必ずあるから、私たち早稲田とか入ってたり法政とか入ってたり、近いから。なんか名前だけのサークルで、遊びに行ったり旅行行ったりテニスやったり。大学の掲示とかに、ここに連絡とか何時にここ集合とが書いてあって、それだけでけっこう人が来るんだよ。それで知り合って、好きな人は続けたり、来ない人はもう来ないし、気が合えばそれで。夏はテニス冬はスキーっていうか、そういう定番の。

__ずっとたくさんの人と関わってる気がします。ベースの数が今と全然違う。

 でもなんかみんなそんな感じだったね、私だけじゃなくて。だから本当こんな世の中になるなんて思わなかった、その頃から見たら。ほんとに昔のドラマであったのがほんとそのままで、ナンパとかもしょっちゅうあったしね。竹下通りだとか歌舞伎町だとか。高校行くときに、私女子校で何人かで朝池袋に集まってから行くんだけど、1人すごく可愛い子がいて毎日声かけられてた、他の学生に。行きと帰りに必ず声かけられて、「だめだよこの子は彼氏いるから」って私たちが。でも気にいるとちょっとお茶くらいしようかって日もあったり。

__1週間人と喋ってない、みたいなことがありえないような感じですね。

 ありえないね。誰かしらは。スマホとかもないじゃない、ほんとどうやってたんだろうなって、今から思うと。あ、でもね、最初の会社のときは4時半とか5時頃になるとね電話がかかってくるの。あの、内線電話って女子が取るじゃないですか、それで取ると必ず「今日空いてる?」って。電話魔がいて片っ端から電話して、空いてる人に声かけるの。何時にどこどこでってそれで行くと、こいつも暇だったから誘って来たよみたいな。そんなふうにして会ってたかな。

__何時にどこどこでって、場所に集まるみたいな感じだったんですかね?

 そうですね、場所とか、約束したら必ずそこ行くとかね、じゃあ来週はここねみたいに、そう言ってたかもしれないね。それで回ってたんだから、不思議だよね今から思うと。

__板橋区で育って、お勤めで神保町のほうへ来て、ここらへんは長いんですか?

 広告代理店にいたのが10年弱ぐらいだったかな。その頃に人生の1番変わり目じゃないけど、主人にも出会って出産もして子どもを育てて。で主人が心筋梗塞で倒れちゃって、それで辞めたんですよね、仕事も大変だったから。私、結婚したときに主人とね、今ではもう普通だけど、全部半分半分にしたの。家事も半分育児も半分で、マンションも買ったんだけどそれも半分。全部折半なの、共同生活者じゃないけど。
 主人は社長のお客さんだったの。最初はなんか、社長がゲラを持って行かないとなんだけど用事があるから代わりに行ってって言われて。それで持って行ったら名刺を渡されて、よろしくお願いしますみたいな感じで会ったのが最初。でその後に向こうもなんか気になったのか分かんないけど今度飲みに行きましょうって電話かかってきて。社長も一緒だと思って行ったら2人で、私を誘ったんだって驚いて。でも主人ってすごい老けてるから、お子さんもいて結婚もしてると思ってたから、私のほうは全然そういう感覚じゃなくて、普通に飲み友達みたいに思ってたんだけど、だいぶ酔っぱらってから、うちの母親がどうこうとか言うから、お母さん?とかって聞いたら、一緒に住んでるんですって言われて、同居してんのかなとか思ったら独身だったのが分かって。飲み始めてだいぶ経ってから気づいたの。そいでもうそのまま酩酊するまで2人で飲んで、そのときを境に一気に。

__お仕事で出会って、飲み友達になって、それからだったんですね。

 主人も学会の出張とかも行く人だったから、大阪とか京都とかでも会ったりとかしてた、毎年いろんな地方で飲んで。それで1年、2年くらいかな、付き合って、結婚して、翌年くらいに子どもができて。当時まだ育休とか産休とかそういうのもまったくなくて、うちの会社もそういう女子がいたことなかったからなにもかも初めてで。私もあんまり興味がないというか、まあ産んだときは休めばいいかなくらいしか思ってなくて。でもなんか、社長も初めてなんだけど、こっちが何日まで休むって言うといいよってはんこ押してくれて。でもギリギリまで働いた。当時、保育園に子どもを生まれて2ヶ月目に入れたの私。今では多分考えられないけど、預かってくれる所があって。6月に産んで8月にはもう、ならし保育してたから。連休前に産休を取ってで8月には復帰してるから、3ヶ月だけ休んで。お腹おっきいのもみんな分かんなくて、産休で休みますって言ったらええっとか驚かれたりした。お医者さんにあんまり太っちゃいけないって言われてたから体重もそんなに増えなくて、お腹もそんなに大きくならなくてぎりぎりまでみんな分かんなかったみたい。
 休んですぐ復帰して、その後の子育てもね、出張にも連れてっていいですかって言ったら、費用とかも出してくれて。1週間ぐらい学会ってあるから保育園とかに1週間だけ預ける。子ども連れての出張もオッケー出してくれて、旦那がクライアントで知り合いっていうのもあるからいいよみたいな感じで。ホテルの中に保育施設みたいのがあってそういう所に預けたり。熊本のときは一時保育をしてくれる保育園に面接に行って手続きをして。朝送ってから熊本大学に行ってまた戻るみたいなことしてた。子どもはなんか慣れちゃってここにずっといたいとか言って、みんな優しくしてくれるからって。大丈夫かな?と思ったけどでも子どもだからすぐに慣れて。遠くまで電車乗ることも大丈夫だしあんまりうるさくない大人しい子だったから、どこ行ってもあんまり手がかからない。いや、頑張りましたねそんときはね、若かったから。

__キャパオーバーになったりしなかったですか?

 あったかなぁ、でも主人ともお互いの仕事をよく知ってるから、大変なときとかも分かってるから。だからそういう意味では全然ストレスとかは溜まらず。ほんとに半々で全部やろうってして、私が朝送ってったら帰りは主人がお迎えに行ってくれる、私は残業してみたいな。
 でもあるときね、神保町で、ちょっと早く仕事終わるから2人で飲もうって言って、いつも行って飲んでるとこがあって、そこで5時半かな6時頃からかな、飲んで、すごいなんかおいしく飲んじゃって(笑)。子どもを迎えに行かなきゃいけないのに忘れてて、え、もう7時だよって言って。久しぶりに2人で飲んだから話に花が咲いて、そしたら、やばいよって言って。あわててタクシーに乗って保育園に行かなきゃなのに、そんときもう酔っ払ってたから自宅に帰っちゃったの。で、なんか忘れてない?って言ったらお迎え忘れてるよ!って。

__2回忘れてるじゃないですか(笑)。

 保育園の先生と息子が門の外でずっと待ってたの、あの光景は忘れられない。保育園は真っ暗になってて外で2人で待ってて。あたしたちはこんなんでいいんだろうかみたいな、迎えに行くの忘れちゃったよとかいって、最初で最後だったけどね。それがね、家康本陣っていう焼き鳥屋さんで、私たち2人でよく行ってた、もう今はないんだけど、すごいなんていうのかなその親父が、親父ってみんな言ってんだけど、「嫌な人は中に入れない、帰れ」ってそういう頑固親父で、飲みすぎると「飲みすぎるなよ」って言ってもう次はあげないみたいな。その親父が全部しきってて「次これを食べろ」とかっていうお店があって、付き合ってるときから飲みに行ってて、そこが1番神保町の思い出かな。来るとどんどんって太鼓をならして、で帰るときもどんどんって。ありがとうじゃないけどやってくれる。カウンターしかないくらいのお店、なんか息子さんが継ぐとかいって修行に出てたんだけどやっぱりなんかそういう頑固親父みたいなのの2代目はなれないよね。同じようにはできないもんね。でもすごい焼き鳥もおいしくて、焼き鳥しかないの、あとビールと日本酒しかない、いいお店でよく行ってたね。

__いつ頃まであったんですか?

 いつ頃まであったのかな、私たちが来なくなって少し経ってからかな、体悪くしてっていって。そんなお店がありました。神保町で付き合ってたときの思い出がそこがある。
 結婚式も神保町で挙げたんですよ。なんか結婚式は、みんなで飲み会じゃないけどそういうのにしたかったから、アサヒのビアホールがあったんですよ、今も場所は同じとこに別なお店であるけど、そこを貸し切って。結婚披露宴とかもできるっていうのでちょっと相談して、やりたいんですけどって言ったらやりましょうみたいな感じで。席の位置とか出るものとか本当によくしてくれて。アサヒの樽が二つぐらいあったのかな。そう、そこのビールがほんとおいしかったから、せっかくならビール好きだし何杯でも好きなだけ飲めるようなそういう会にしたいって。来てくれた人たちもみんなよく飲んでた。でうちの父親がやっぱり手を回したっていうかアサヒの社長がよくしてくれって言ってくれたのか、すごい安い値段で、従業員も全国から集めてやってくれた。

__お父さんもお勤めだった街でもあるんですもんね。

 そうだからすごい喜んでくれて。私必ず結婚式には、鏡開きをやりたかったの。主人は醸造会社とかがお客さんだから、白鶴とかの樽を提供してくれて、はっぴとかも貸してくれてやらせてもらいました、念願がかないました。

__なんか、やりたいことがけっこうはっきりしているんですね。

 こういうのをやってみたいとかって思うと絶対にやりたくなる(笑)。何がなんでもどんな手を使ってでもって。それができたのが嬉しかった。「おさんぽ神保町」のメンバーに結婚式もここでやったんだよって言ったら本当に好きなんですね〜!ってびっくりされました。ほんとに、人生のイベントをここで過ごしたっていうか。
 父親が、さぼうるの亡くなっちゃったマスターとけっこう仲よくて、コーヒーとか仕事の合間に飲み行ってよく話をしたってだいぶ経ってから聞いて、もっと早く教えてくれればね。ここらへんもけっこう食べに行ってたんじゃないかなとか思う。そういうので、ここらへんに勤めてるっていうと、みんなが見てくれてるから安心してくれてたのかな。陰ながらいろいろ応援してくれてたんだろうな。仕事でもたまに「娘さんなんですね」って言われることもあった。私旧姓がすごい変わった苗字だから忘れられないっていうのもある。だからだいぶ経ってまで旧姓で仕事してましたね、そのほうがみんな覚えてくれるし。名前とかでもけっこう最初は嫌だったけど、なんか変わった苗字って嫌だなって田中とか佐藤にしたかったなって思ったけど、でも今から思うとそういうインパクトがあったから最初の会社にいたときもみんな必ず覚えてくれた。

__結婚なさってからお子さんが生まれて。

 うん。で結婚して何年目かな、7年、経ってないな、主人が若年性心筋梗塞で倒れちゃったの。救急車で運ばれて、血管の太いのの2本が詰まっちゃっててカテーテルで手術して、1時間ぐらい遅れてたらもうだめだったっていうぐらい。

__お仕事の日にですか?

 休みの日にうちにいて、私と息子が買い物に外に行ってた間に急に。主人もすごい仕事がハードで夜遅かったり飲んでたりとかして不規則な生活だったから。

__いきなりだったんですね。

 予兆もなく。まだ今みたいに医療がそんなに発達してなかったから、ちょうど42のとき倒れて、1ヶ月ぐらい入院してうちで1ヶ月ぐらいリハビリしてっていうか。今はもうほんと1週間ぐらいで退院できるのよ、この前2度目倒れたんだけどそんときは1週間で退院してきて翌日には仕事に行って。

__旦那さんもすごいバイタリティ。

 うん、めげないでよく生きてるなって思う(笑)。次倒れたらもうだめだって最初言われたんだけど、まあ今の医療が発達したおかげで、なんか古いのがまた詰まったんじゃなくてまた別のが詰まって、救急車で行って1週間で退院して、で次の日から仕事行ってたから、20年前とはだいぶ違うね。だから私ほんと医療の発達をね、目の当たりにした(笑)。そんときは大先生とかが何人かでカテーテルの手術してくれたのに、今若い先生が1人でやってもう終わりましたよ、みたいな。腕がいいのかもしれないけど、それもなんか驚き。
 当時はそんなんで、私たちほら2人で子育てのすべてのことをやってたのが、主人は仕事やるだけで精一杯っていう、そういう体になったから、だから私が子育て、家事のすべてをやらなきゃいけない。で、普通に社員で働いてるのは難しいねってなって、子どももまだ小さかったから熱が出たとか保育園から迎えに来てくださいとかもあったから、そういうときは私が行かないといけない。主人がいつ倒れるかもとか、具合悪くなることもあるから、常勤じゃない仕事にしなきゃなって思って、出張とか行けないしね、だから辞めて。

__仕事を辞めるときはどんな気持ちだったんですか。

 でもこれも運命かなと思って。いい潮時かなとも思ったから。神保町と離れるのは寂しかったけどね。でもなんかまわりもみんな落ち着いてきたり、新しいことやるのも最後ぐらいかなと思って。転職して新しい仕事とかをするのも、その頃まだ40代の初めだったから、まだできるかなって。

__辞めるけどすぐ次の仕事を考えようっていう気持ちだったんですね。

 うん、私は仕事が好きだから。家でずっとしてようとかそういうのは思わないっていうか。働かないと落ちつかないっていうか、なんだろうね、仕事が、そうね、仕事好きなのかもね。うん。そうしたら、家の近くでなんかあってもすぐ帰ってこれて、ある程度のお給料をもらえて、それで自分のプラスになる、そういう仕事はないかなと思ったら、ほんとうちの近く、歩いて5分ぐらいの所に、分かるかな、明治図書っていって小学校とか中学校の教科書のテストとか参考書とか、ああいうのを作る会社があって。私国語の教員免許持ってて、国語科にちょうど空きがあるからっていって、国語科に配属してもらって。うちも近いし子どものためにもなるなと思って、ちょうど小学校上がるぐらいで、そこで2、3年ぐらい働く。で、そんときに校正業務が主な仕事だったから、校正の資格を取る講習会みたいのに行っていいよって言われて。子どもも連れて、夜だったから仕事終わってから行って、で子どもを遊ばせながら講義を受けに通って。みんな子どもをすごい可愛がってくれて、最後の打ち上げみたいなパーティーのときに、子どもにお菓子くれたりしてくれて。そこで校正を学んだのが今に生きてるよね。そこがなかったら校正をできたかどうか分からない。

__また一つお父さんの仕事に近いことができるようになったんですね。

 そうね。そこもいろんな仕事させてもらった。プリントとか冊子作るとか、勉強になりました。問題解いたりとかもあったし、テストとか問題文がちゃんとあっていて答えられるかとか、出典とか。当時、ポケモンキャラクターのドリルがあって、そのキャラクターもこれを使っていい悪いとか、規定がいろいろうるさかったの、そういうのをチェックしたりとか。向きがちょっと違うとこれはだめとかたくさんあったの。キャラクターの本があって、これのここだけは使っていいとか。

__どういうふうにそれをやるんですか、パソコン?

 パソコンではなかったね、切り貼りみたいなだったかな、パソコンでやってたかなぁ、あんまり覚えてないけど。でもそんなにパソコンですべてやるみたいな、そんなのじゃなかったような気がする。国語科、数学科、社会科ってワンフロアにいろんな科があって、すごい面白かった。ちょうど教科書改訂があって、全部変えなきゃいけない時期でほんとに忙しかった。小学校の改訂が終わると、次中学が変わるっていう感じで。みんなその頃はもう必死になってどこの部署もやってたりしてた。

__そういう経験が今につながってる。

 でも私、今のこと言ってなかったね(笑)。今は地元で子どもに勉強を教えてます。定年がない仕事。で、お茶の水に週2回だけ、発達障害とかそういうのを持った子たちのクリニックがあって、そこの事務みたいなことをちょっとやっていてこっちに来てるので、また神保町につながりがあるの。お茶の水だから降りてくればね。「おさんぽ神保町」でも地図校正とかもすることになったし。発行の近くになったら来て、街をちょっと歩いたりする。前回から一部をやらせてもらうことになって。

__そうなんですね。

 地図の担当が1人空いちゃったから誰かやってっていうのでじゃあ私やってもいいわと思って、やり方とか教えてもらって、今まで話したことのなかったメンバーと知り合えて、ほんとにやってよかったなと思ってる。もっと早く会っとけばよかった。おさんぽ神保町も、私なんか古いけど、今学生の人とかいろんな人が入ってきてるから、ライターで書いたり、地図を作ったりとか、いろんな仕事をしたらいいと思うから、あんまりしゃしゃり出るよりはって、でもどうしても人がいないっていうから、いないんだったらやってあげてもいいよって、他の人が入ってくるまでねっていう感じでやったんだけど。

__校正してた頃から今の仕事まではどんなふうにつながっているんですか?

 そろそろ旦那の体調もよくなってきたし、子どもも大きくなったから、普通に働いてもいいかな、また復帰しようかなとも思ったんだけど。でも、今更社員はなってのもあって。家からそんなに遠くない場所で、いろんな企業の研修を請け負ってる会社の月刊誌制作を手伝ってくれる人を募集してるっていうのがあって、これならできるかなと思って。で、そこで2年間働いたのかな。自分で企画を出して、こういう人にこういうこと書いてもらいたいとか、実際に自分が取材したりとかしたんだけど、なんせ、上司と合わなくて。もうことごとく合わなくて2年で辞めたんだけどね。ただそこって研修会社だから、インストラクターの人がすごくて。なんかね、インストラクターでいう何本の指とか入る人とかがいて、喋りがすごく上手なの。

__企業研修のインストラクター。

 新入社員研修、企業の管理者研修だとかそういうのを請け負う、合宿で2泊3日だとか、そういうのをやる会社だったんだけど、インストラクター1人ひとりの個性がすごくて、なんか、詐欺じゃないかって思うぐらい流暢に話す(笑)。笑いをとったり落語家じゃないかって思うような人とか、この話術はどっから来てるんだろうって。女性とかもすごい喋りが上手な人とかいて、自分の仕事はね、さておいて、そういう人たちの話聞いてるだけですごい楽しかった。声が綺麗だしプロのアクセントで強弱もすごいあってね、みんなをこう、人を引きつける。毎日朝礼があって、百人くらいかな、そこで必ず誰か1人話をするの、それもすっごい毎日楽しくて、今日はあの人だ、とか思って。

__そんな楽しみが。しかしそこまで気が合わない人がいたんですね。これまでいろんな人と関わってきてらっしゃるからうまくやれそうなイメージです。

 私もそんな人を嫌いになるってことめったにないんだけど、今までね。でもその人だけは合わなかった。その人が間違ったこと言っても専務だったし創業者の1人だったから、みんな言いたくてもあんまり言えないっていうか。でも私はそれは絶対間違ってるからといつも反論してて、本当に嫌われて、で、2年間で首を切られたというか、もう更新はしませんと。自分がやってきたことを否定されたりとかするのが嫌な人だったから、間違ってるっていうのを指摘されるのが嫌だったっていうかね。普通人間ってさ、間違ってたら、やっぱ間違ってたのかなって思うときもあるのに。絶対に曲げない人だったから。まわりの人もそれ分かってて、よく言うねって賞賛されてた。あれだけは許せなかった。これまでやっぱり私も引いたりとか、納得して思い直すことも、嫌いな人でも一緒にやっていかなきゃとかって寄り添うこともあったけど、あの人だけは合わなかった。でもうちの主人が「あのときが1番張り切ってたよ」とか言ってた(笑)。家出てくときにね、なんか戦う人って感じだったよって。

__そうなんですね。普段は対立とかはないタイプだけど、はっきりと言うときは言う。

 うん、意に沿わないことはやっぱり、間違ってることはね。あと女性って噂話とか、陰で言ったりとか多いじゃないですか。そういうのは自分はしたくないっていうか、言ったらその分自分も言われるから、その人がいないところで言ったりするのはなんか許せないんだよね。言うなら本人にちゃんと言ったり、みんなのいる前でちゃんと話をしたりとかするべきであって。うちの父親がそうだったからね。人と対立することを嫌ってたから。意見はちゃんと言うけど。影口とか、そういうのとかも一切言ったことがないぐらい。

__お父さんと同じ。

 そうね、それはもう父に見習うところであって、私もそうしていたいなとか。

__先ほど女子校だったと聞きましたが、そこではどんなふうにされていたんですか?いざこざとかなかったですか。

 私、女子高校の友達とか高校時代の思い出とかあんまり思い出すことがなくて。でも何年前かな、高校で同窓会をやろうって言って、みんな落ち着きだしたっていうか、子育ても終わったり、自分たちもこう一段落したってのもあるかもしれないけど。私たちの高3のときのクラスって、ちょっと異質っていうか、当時の不良っていうのかな、そういう人が集まっていて、で担任が体育の先生だったから、ひっぱたくはしないけどそういう子たちをきちっとまとめられる先生が担任だったの。そういう人たちが私たちのクラスに集まって、いろんな人がいたの。妊娠しちゃった人とか、不良だった人とか、家出しちゃった子とか。今でこそ普通になってるけど私たちの時代ってなんかそういう子たちってあんまりいなくて。悪い、悪い子って言っちゃ変だけど。そういう異質なクラスだったから担任の先生もすごく私たちのことを覚えててくれて。そこで同窓会をやることになったら、ほんとにたくさん、ほとんど来て。私もどうしようか悩んだんだけど、行ったらけっこうみんな覚えててくれて、あだ名で「〇〇じゃん」とかって。いろいろよく覚えてる子がいてね、こういうことしたよねっていって話してくれると、そうだったなって思い出してきて、けっこう楽しくやってたんだなと思って。それで今はほんとに仲よく、同窓会も数年後ごとにちゃんとやってるし、仲のよかったグループは年に1回は必ず会ってる。LINEとかもすぐにくるし、話始まると止まらない。なんか、楽しくやってたんだなって、今から思うと。

__長い間学生時代のことはすっかり忘れてたんですね。

 うん、すっかり高校時代は飛んでた。ほんとに自分のなかで、高校時代何してたとか全然あんまり思い出しもしない。高校の友達は仲がいい子が2人いて、その子はいつも会ってたり結婚式にお互い呼んだりとかとかしてるけど、それ以外の子についてどういうグループにいたとか、一緒に遊んだとかの思い出があまり。

__なかったけど、久々に会って。

 いろんなことを聞いて、そんなことあったんだ、よく覚えてんなみんな、ほんと細かいことって。いや私、名前に濁点が多いの、三つもあって。それで、マークシートで名前を書くときに、私、名前が入らないの、カタカナで。今って「ボ」だったら、「ホ」の中に点々一緒に入れるけど、昔入れられなかったの、1一マスに点々になるの。それで、マスが足りなくて、「そろそろ〇〇言うよ、手をあげて言うよ」とかって言って、「先生、名前が入りません」って必ずあたしが言ってたんだって。「みんないつ言うかな、いつ言うかなって待ってたんだよ」とかって言うから、そんなことまで覚えてんだとか、もう全然私もすっ飛んでた。

__おもしろい、それは自分では覚えてない思い出ですね。

 おもしろいよね。必ず途中で終わっちゃうのよいつも。だからみんながね、いつも会うとそれをいうの。それで楽しくやってたんだなって、今から思うと。で、私たちの高校って、今、合唱コンクール、Nコンとかでいつもトップなんですよ、小学校、中学校の部で。私たちの当時の音楽の先生が、校長先生になって。で、私たちが学校の第1回合唱コンクールを各クラス対抗でやったんだけど、それが合唱部の始まりだったのね。だからほんとに合唱に対して思い出がみんなあって。私たちのときには、各クラスで競い合って課題曲と自由曲をやってっていうんで、で初代優勝したのが、私たちの変なやつがたくさんいる、3年6組が優勝したんですよ。

__ご自身のクラスが優勝したんですか。そこから今につながってる。

 そうそう、それが始まりだったの。私たちのクラスが優勝して一つになってっていうか、そんな、変な人たちがたくさんいるクラスが。だから、また絆が強いっていうか。

__まとめるのが大変そうなクラスですよね。

 でもそうね、クラス委員の人とかが、すごいしっかりしてたと思うんだけど、でもそういう子って、なんかやり始めると芯が強いし、決して私たちに、なんていうのかな、危害を加えるとかそういう人じゃなくて。自分が化粧したい綺麗にしたいからとか、好きな子がいるからとかそういう。迷惑をかけるわけじゃなくて、だから勉強すごくできたり、英語ペラペラだったりとか、みんな個性が豊かで。自分らしく生きるっていうか、なんか、そういう人が多くて、個性が強かったのね。で、この前の何回目かの同窓会で、最近校舎も綺麗になったし学校を見学しようって言って学校で同窓会をやって、それで音楽室行ったら、その次の年に辞めるって言ってたんだけど、校長先生、担任じゃないんだけど、音楽の先生が来てくれて、ピアノ弾いて校歌を歌って。みんな楽譜なしで歌えて、あれはすごかったね。先生からもほめてもらった。

__合唱部の始まりのクラス、校長先生にとっても特別ですもんね。

 そう。で、私が1番仲いい友達がいるんだけど、1年で入ったとき隣の席で、それからの友達なんだけど、その子クラシックピアノをずっとやってて、卒業してからは音楽の道に行ったの、キーボードとかひく、バンドに入ったりとか。一時のバンドブームの走りみたいな感じで、私もよくライブとか、見に行かせてもらってたんだけど、その子が、課題曲じゃない自由曲をアレンジしてピアノで伴奏してくれたんだけど、それが音楽の先生と合わなくて、対立して。でもみんなで、音楽の先生じゃなくて私の友達のアレンジのほうがいいって言って、そういういきさつもあった。

__先生にとっても自分の思い通りにいった思い出というわけではないんですね。

 そうですね。やりとりがあったり、みんなでどうしようかって考えたり。でも時がたってピアノの伴奏してくれるって感動した。

__親友のかたとは1年で出会って3年でまた同じクラスになれたんですね。

 そう、2年は違ってね、1クラス55人、11クラスあったんだよ。なかなか一緒にクラスになるなんてね。2回も一緒になるなんてないんだけど。

__マンモス校ってやつですね。

 そうそう。その高校の友達も今から思うといろんなことを話したり、映画の話したりね。なんかちょうど海外ブームで、海外からいろんな音楽が入ってきた時期だったから。私の友達、音楽好きだったから、音楽の話したりそういうことよくしてたよねっていうから、そうだったんだってなる。あんまり記憶にないんだけど。そんときに、いろんなこと吸収してたんだなと思って。

__ちなみにどんな音楽か覚えてますか?

 なんだったろうね。イーグルスだとか、マイケルとか、クイーンとか。その子はとにかく音楽好きだったから、いろんなのを一緒に。

__今だったら、高校生でいろいろあると、なかなか学校に馴染めないみたいになっちゃったり、抜けちゃうみたいになりそうですけど。そのクラスはいい思い出を作れたんですね。

 なんか学校行けばなんかあるとかさ、うちにいるよりは。嫌な子いるけど、別の合う人もいるしとか、なんかいい方向に考えてね。私たちの時代ってこう、学校行かないってこと考えられなかったから、学校って行くもんだって思ってたから。

__うまくいってる子はそれでいいと思うんですけど、ちょっとはみ出すっていうか、事情がありながらも行くっていうのが。

 化粧しながら学校来てたりとかしてたから、先生に怒られるの分かってて。でも学校には来てたよね、みんなね、不思議だけど。あんまり休んでる、こう、空席が目立つとか、そういうことはなくて、いつもみんないたなっていう感じで。今は学校行かなくてもいいとかね、あるけど。とりあえず行ってたね、私たちは。今って遅刻しても、途中から来ても早退してもあんまり言われないけど、やっぱり遅刻したりとかするとすごくうるさかったし、何がなんでもチャイムまでに教室入るんだみたいな、1歩でも入ってればいいみたいな、なんか、そんな感じのところもあったから、私たちのときは。規則、そういう、規則だけはね。

__不思議ですね。

 規則は厳しいけど、そのおかげで、いろんな子が逆に集まってる。規則が厳しかったら、学校っていう決められた型に合わない子は漏れてしまいそうなのに。
ね。そう思うけどね。なんかそうじゃないところが。チャイムまでに入ろうとかね、みんな走ったもん。駅から走ったりしてたからね。今そんなのあんまりしないんじゃないかな。何がなんでも入んないとって。

__高校の感じがその後の行動と似てる気もします。やりたいことをやる。産休とります、とか家事折半しますとか。

 高校のそういうところで育まれてたかもね、いろんな子もいたし、みんなやっぱり頑張ってるもんね、個々にね。なんかね、最初父がどうしても女子高に入れたかったから、ほんとは共学とか行って、私、男っぽいから、男子と普通に友達になるとか、そういうほうが好きだったんだけど、なぜか父親は、女子校に入りなさいっていう、どこでもいいから、女子校に入ってくれって言われて、それで行ったんだけどね、でもそれがよかったのかもしれないなって。今思うと女子校ってけっこうよかったな。男子とかも気にせずにほんとに女子だけで、なんか、友達もたくさん作れたし。今になって、この年でね、話し合える友達がいたりするっていうのはやっぱりありがたいな。同窓会もできるし、男の人いたらね、やっぱりいろいろあるかもしれないけど、女同士だから別にどう見えててもいいやって思ったりね。今はよかったなと思って。

__ご主人との関係も面白いというか、もとから考えを伝えやすい関係だったんですか?

 そうね、友達感覚なんだよね、主人とはね。共同生活じゃないけど、夫婦なんだけど、なんか、生活を一緒にしてる。だから変な話、お財布も別だし、主人がいくらもらってて貯金いくらってとかそういうのも知らないし私がどうやってるのかも知らないし。そこはもう自由っていうか、私は定額で生活費だけもらってそれでやってるんだけど。だからどっか飲みにとか食べに行っても今日はどっちの奢りねとか、生活費から出すかとか、主人が今日お金あるから出すよみたいな感じで、常に友達感覚。マンションの名義は半々で、ローンも半々なんですよ、まだ払ってんだけど(笑)。

__当時の男女としては珍しいんですかね。結婚したら家に入るみたいなのとは違いますね。

 そうね。結婚して辞めるっていう、寿退社っていう言葉がまだある時代だったから。

__自分もそうなりそうだなとかはなかったんですか?

 まったくなかったね。仕事はずっとやりたかったし。自立じゃないけど、なんだろ、自分でも生活できるように常にしていきたいっていうか、うちに入ったら生活できないっていうわけじゃなくて、社会にやっぱりつながりたい、社会貢献をして生活をしていくっていうか、それが根本なのかな。最初言ったように、女6人兄弟の母親らがみんな働いてたからね、そういう人たちが身近にいたっていうか、みんな商売をしていたから。

__そうだ、女兄弟の大家族。

 そう、女6人兄弟で、祖父、祖母がお店をやってて、で、それを長女夫婦が継いで、2番目の叔母は自分で別の所で商売をしてて、で3番目が会社勤めかな、母親は4番目で、2番目の叔母をサポートしながら。みんなそうやって働いてたのを見てたからかな、もしかしたら、今思うと。

__お手伝いとかしてたんですか?

 私?お店のはね、やってた。お勘定したり、友達が遠足とかになると買いに来たり。お菓子は300円までとかそういうのとかあって、みんなで前日とかに買い物しに来た。

__それは働き者の血が流れてますね。

 近所に行くと、友達も商店街の子だったから誰か必ずいて。みんなお店に出たりとかしてましたね。みんな働き者だったね。そうね、サラリーマンもいたけど、でもお店やってる人はみんなお店のお手伝いとかはしてたね。メインの通りに何軒もあって、大体みんな年が一緒、あと先輩とか後輩とかだから何々ちゃん。何々ちゃんって。

__店舗の上におうちがあるんですかね。

 そう、1階がお店で、そこにちょっと後ろに食堂みたいなのがあって、2階建てなんだけど。狭いうちにたくさん住んでた。

__今も同じような街並みですか。

 いや、うちもなくなっちゃったし、だいぶ変わっちゃった。ハッピーロード大山って、商店街にアーケードを作った日本で初めてのとこなんですよ。今それがなんか、道路を通すとかなんとかで、それを全部取り外そうかって問題になってるとこなんですけど。雨に濡れないで買い物ができるっていう、それで有名だったんだけど。今もお店屋さんはけっこうあるけどね。

__商店街自体はまだあるけど様変わりしていってるんですね。

 またこれから都市計画で変わってくって、でもほとんど行くこともなくなっちゃった。そんときは賑やかでしたよ、アーケードがかかるときだったかな、私が小さい頃ね。

__東京は他に比べれば商店街が残ってる印象です。

 そうだね。昔はスーパーとかそういうのがなかったから、大きなのが一個できると、商店が潰れていくっていうかね。今住んでいる所も私たちが引っ越してきたときはまだ商店たくさんあったけど、今はもうほとんど残ってるのは少ないよね。昔はほんと、ちょっと歩くといろんなね、お店屋さんあって楽しかったけど、今はね、スーパーが大きいのが建っちゃって。なんか、神保町のお話をもっとしないとかな。

__人生の大事な10年ぐらいを過ごした街って、しっかり伺えてます。

 そうね、それはもう間違いない。神保町で生活した。

__お父さんの働いていた場所ってイメージもあります?

 父親の会社が九段下にあったから。遠からず、父親がここらへんで生活してたんだなっていうイメージはあるけど、それよりもやっぱりあの広告代理店に入ってからだね。ほんとに、神保町っていう街を満喫したのは。でもだいぶその頃と変わっちゃったからね。辞めてからの間はあんまり来てなくて、最近クリニックに働き出してから来るようになって、おさんぽ神保町と知り合いになってからだから、その間、やっぱり何年ぐらいかな。10年弱ぐらいかな。やっぱり「おさんぽ」で来るようになってから、だいぶ変わったなって思った。だから、その10年なり、7、8年の間で。

__どう変わった気がします?

 なんだろうね、ここに住んでる人とかがいたかな。あと夜もこんな早く終わんなかった。夜中までやってるお店もけっこうあったから飲みに行ったりもしてたけど。知ってるかな、九段下ビルっていう、すごいぼろいビルがあったのね。うちの会社から出てすぐのとこに、今にも潰れそうなんだけど住んでる人がいたのよ。その人がいるから壊せないっていうか。私その住んでる人知ってるんだけど、今の人はそこに人が住んでたって思ってないかもだけど。この前ネットでちょっと見てみたら、そこが壊される、その最後の住人たちが、自分の部屋で展示みたいな、そこの絵を描いたりして、それでさよならをしたみたいなのを見て、あー、この人いたなっていう感じで。ほんと普通の部屋で、水道がこうあったりとかして、お風呂はなんか近くに行ってたけど、多分ね、お風呂屋さんあったのよ、そういえばあったなと思って。それとか、うちのビルの下降りて左に床屋さんがあって、私、年に最後、仕事終わりのときに、自分にご褒美じゃないけど、顔を剃るのをやってもらってたの。今行ったらお店はあるんだけど、なんか今風のお店で、ほんとおじさんとおばさんで2人でやってるっていうようなお店だったのに、今は若い、多分息子さんかなんかがやってるのかもしれないけど。たしか生活してる人が2階とかに住んでる一軒家だったよなーって思うし。お風呂屋さんも、あったんですよ、どっか近くに。その記事の住んでた人も、ここはお風呂がないから銭湯行ってたっていう話をしてて、あぁそうだなと思って。あとは岩波ホールって知ってるかな、そこの隣におっきなスーパーがあって、今はドラッグストアになっちゃったからあれなんだけど。私たち、そこに買い物とか、職場のトイレットペーパーとかスポンジ買ったりとかしてた。行くと、お店にけっこう人がいて。1階に食品、2階が雑貨とか。

__スーパーとか銭湯のイメージはないかもです。

 生活している人がこんなにいるんだなって、私もそんとき来て思ったぐらいで。食べ物と、普通に生活雑貨、あと植木鉢とかね、あったり。ちゃんと生活してる人がいたんだなって思って。

__お仕事で通いながらも、生活している人を感じれたんですね。

 あと、今はカレーと、喫茶店とってなってるけど、そういうくくりじゃなくて、普通に定食屋さんとか、なんでも食べれるちょっとしたお店だったりがけっこうあったかも。

__私も、ほんとは編集系の仕事に興味があるけど未経験では難しいかなと思っているので、転職するなかで新しい分野にチャレンジしたり、やりたい方向に進んできた話が面白かったです。

 経験は絶対に、ほんとに自分の財産だから。昨日もちょっと別の人と話したんだけど、20代、30代は、がむしゃらにやってたけど、やっぱりどっかこう到達点っていうか、いろんなやってたのの集大成じゃないけど、そういうのを考える時期があるねって。ちょうど私たちはそういう時期なんだけど。とりあえず、20代、30代とかはがむしゃらに、いろんなことをやってみるとか。それがやっぱり身になって自分のこうなりたいって姿みたいのをつくれていくんじゃないかなって思うね。なんか、20代、30代とかのときは、今ならできるっていう、若気の至りじゃないけど、それが多分あったな。父親みたいな仕事もしてみたいし、先生っぽいこともやってみたいし、営業とかもやってみたいしっていうのが漠然とあって、やっぱやってみないと自分の身にならないから、とりあえずできるんだったらやってみようみたいな。仕事がなくなったとき、次は何をしようかって考えたときに、これならやってみたいかなっていうのが。校正ちゃんと学んでみようかなって思ったり、本作ってみたいなって会社入ったり。今の仕事って、子ども教えてるけど、でも自分1人でやってるから、企画とかも自分でやんなきゃいけないし、お楽しみ会やったりだとか募集とか保護者への案内文を作ったりとかもしなきゃいけないし。やってることがね、やっぱりいろいろつながってるかな。

__今の先生の仕事はどうやって始まったんですか?

 私、教員の免許を持ってて、先生って呼ばれる仕事をしてみたかったの。

__教員免許があるけど教師にはならなかったんですね。

 ならなかったね、会社に受かっちゃったから、私、1番最初に受かったの大学で。それで文章書いたんですよ、就職体験記。1番最初に受かってしまって、悩む暇もなく。教育実習とかもちゃんとやって、先生ねーって思いながらだったんだけど、9月1日くらいに内定もらっちゃって。それで、とりあえず就職してみようか、行ってみようって。
 教育実習は2週間やったんだけど、中学1年生を担任して、可愛い、ほんとに可愛くて、2週間の最後、みんなと別れるのがほんときつくて、こんなことを毎年やらなきゃいけないんだ、教員になったらって、それがしんどそうだなって。みんなに、しおりかなんかを作ってあげたんですよね。言葉を1人ひとりに書いて、そういうのをやりながら、毎年これをやったら気持ちが持たないな、そう思ったらやらなくてもいいかなって。

__教員にはならなかったけどその実習は大事な思い出だったんですね。

 自分が一応、一時でも先生っていう、そうね、あれはほんと忘れられない。2週間楽しくやったんですよ。教師っていう仕事が嫌だとか、そういうわけじゃなくて、気持ちがね。私、大学と、中学校が同じ所にあったから、ホームとかで会うんですよ。で、「先生〜」とかっていって、もう先生じゃないんだからって。なんかそういうので、毎年さよならするのはきついなって。でも、やっぱりどっかで教師っていう仕事もやってみたいなって思ってて。そう、結局行き着いたのが先生だったの。今になって、父親に教室開くんだって言ったら、やっぱり先生やりたかったんだねとかって言われて。

__教室開くぐらいのときにはお父さんも元気で。

 そうそう、まだそのときは元気だったから。「僕が手伝いに行こうか」って言うから、いやいいですいいですって。「丸付けぐらいできるよ」って言ってた(笑)。子どももそこで勉強したりとかしてくれてたから。

__教室はどれくらいのお子さんが対象ですか?

 幼児から、今はいないけど年小さんから中3まで。

__幅が広い。

 来る人は拒まずで、ぼちぼちやってます。時間もみんな自由で、今習い事たくさんしてるから、子どもたちって。だから自分の時間でね。3時から8時までずっと開けてるみたいな状態。今はそんなに人数もいないですけど、多いときは大変だった。でも、ぼちぼちやってる。

__幼稚園生の子と、中学生ぐらいの子が一緒にいたりするんですか?

 そう、いたりする。頭がちょっと最近は回らなくなってきたけど(笑)。中学生の問題は、ちょっと待ってねって言って、時間ちょうだいみたいな。分かんないところを教えたりとかして、中学生は受験があるからそれはちょっと大変だけど、そこらへんまでは教えられるかな、高校はちょっと難しいからできないけど。第三のおうちみたいな、そんな感じで捉えて来てる人が多いんじゃないかなって。近所だから親も安心っていうか、心配はしてないね。
 子ども相手だから、大人の社会で働いてるとストレスがやっぱりいろいろあるけど、子どもにストレスはあんまり、まあ言うこと聞かない子とかはいるけど、でもそれとこれとはね、大人同士のストレスとは全然違うから、そういう意味ではストレスがない。

__お話を聞いて、これまでたくさんの人と関わってきてて、大人とのストレスにもタフそうですが。

 あんまり人は嫌いにはならないかな。とことん嫌いになったりとか、そういうのは、あの人以外は(笑)。基本的には人が好きっていうか、どんな人でもね、それはあるのかな。嫌いではない。

__1人の時間も好きですか?

 そうですね。本読むのとか好きだから。時間があれば本を読みたいんだけど、なかなか今は先に進められない。昔はね、ばーって読んでたけど、今はなんか同じとこ何度も読まないと、理解がなかなか。

__どんな本を?

 今は本屋大賞とか、とりあえず今風のは読んでおこうかなと思って。あとは新聞とか雑誌とかで紹介されてていいなって思うものとか、気になると。あと、クリニックの1階が本屋さんなんで、子どもたちへの絵本とか立ち読みしてる。子どもたちにね、読み聞かせとかもお楽しみ会でやったりするので、そういうのを選ぶときとかにどんな本がいいかなと思って立ち読みをして、絵本ぐらいだったらお昼休みの時間ぐらいで、ぱっと読めたりするから、ね、興味があるのものは。1階には普通の本があるんだけど、ベストテンとか、ポップとかああいうのを見ながら、なんか読みたい本を探してっていうか。なかなか自分の分野じゃない時代小説とか政治の話とかは手が出ないけど、気持ちが落ち着くようなとか、ホッとするようなとか、最後に泣けるみたいな、ああいうポップがあるとちょっと読んでみようかなって。

__読書は癒しの時間ですか?

 癒しになってるかな、心温まる本とかね。うん、ああいうのはけっこういいかなと思って今は読んでるけど。

__校正してると、読む目も変わりそうです。

 うーん、そうね、でも、今の新聞はすごく文が下手くそっていうか、誤字脱字も多いし、と思ってる。余白もけっこうあったり、最近の新聞って。最後文をきちんと納めるのが、それができてこそ、プロだと思うんだよね。そういうとこ、気になっちゃうんだよね。そしたらちょっと写真を大きく入れたりとかして揃えるとかね、そこらへんまで気を使わないと。
 昔はほんとにね、小説っていうか、純小説っていうのかな。高校、大学ぐらいのときはよくそういう本読んでて。石川達三とか、立原正秋とか。こうやって恋愛していったとか、人生はこうあるべきだとか、なんかそういう本はけっこう、読んでたりしてたけどね。今はもうこの年になるとなかなか振り返りもできないから、あんまり読まないけど、若い頃は、なんかそういうのにすごい興味があったんだよね。こういう人生を送ってみたいとか、なんかね、多分ね。寝る前に読んでた。

__本屋さんに行かれて読む?図書館とかに通う?

 買ってたかな、私やっぱり手元に置いとくっていうのがいい。積読本がたくさんあって、うちに今でも。読んでないんだけど、積んどくと読んだ気になって、とりあえずいつか読むだろうと思って積んで置いとく本が多いんだけど、やっぱり好きな本というか、読みたい本は手元に置いて、いつでも読めるようにとかしておきたいっていうか、そういうのがあったから、なるべく本は買うようにしてた。図書館も最近は多いけどね、でも本当に読みたい本は手元に置いて。夜寝る前に、こう読んで、もう眠くなるまで読んでって。3時とか4時頃までずっと読み続けてるときとか、若い頃はね。1冊終わると、また次読みたいとかって、なんか思っちゃって。若いときはほんとにすごい読んでたけど、今はそうね、なかなか読む時間がなくて。でも、うち、息子は教師になったんですよ。小さい頃からね、なんか先生になりたいって言ってて、夢を叶えてじゃないけど。だから辛くても辞めるって言えないんだと思うけど、大変な仕事だけど、中学校の数学の先生してるんですよ。

__先生同士なんですね。

 うん。私は教えてもらうことのほうが多いけど、この問題分からないから教えてくれる?って言って、解説してもらったりしてるけど、恥ずかしながら。なんかとりとめもなく、勝手に話しちゃったけど、自分を振り返ることって意外とないんだなって、なんか初めて気がついた。なんとなく過ごしてきたなっていうのは分かるんだけど、一つひとつね、なんでこうしたんだろうとか、あのときなんでこう、何がきっかけだったんだろうかとかね、思うことないよね。

__お話を聞いていて、やりたいことをやる気持ちを強く感じました。

 なんか最近はやっぱり、うちの主人に言われるんだけど、「今しかない」って、私よく言うらしくて。そう、やっぱり年を取ってきたから、今これやらなかったら、もうできないよっていうか、なんか、そういう思いが。私、旅も好きなんだけど、旅行も思い立つと絶対ここに行きたいって思っちゃって、それでこう日程を調整して、行くっていうか。そういうの、今すごくしてるんだけど、なんか、あそこのあれが見たいとか、あれをちょっと体験したいとか、それって先延ばしじゃなくて、今、最短で、どこでできるだろうか、みたいのを考えるようになった。それはやっぱり、ね、例えば、来年ね、どうなっちゃうか分かんないし、その、病気になって、行けなかったりとかもするかもしれないし、腰が悪くなってとかっていうのを考えると、今、この状態で行けるとか、そういうものをやっておかなきゃ、悔いるなと思う。それがいっそう強くなってきてる。昔はのほほんと考えながら、やってみよう、いつかやってみたいって感じだったけど、今は、なんか、今しかほんとにできないなら、やってみようみたいな、思うことはね、けっこう、あるね。それが旅だったりしてるんだけど。でも、うちの主人が心臓が悪いから、もう海外旅行は行けないってこのお医者さんからストップがあって。ちょっと行きたいとこがあったんだけど、一緒には行けないよって言われて、こういうふうになっていくんだなって。じゃあ2人でできることはなんだろうって考えると、うん、今これができるとか、そういうので考えるしかないんだなって思って。

__今できることを考えて動く。

 それが1番、人とも会うんなら、じゃあもう会おうよすぐにみたいな。なんかね、そういうふうに思うようにしてる。口約束じゃなくて。だから、友達とかでも最近はいつかねって言うんじゃなくて、それだったらじゃあ夏目指して日程調整しようかとか、なんかそういうふうにするようにしてる。後で後でとか、先伸ばししてもね。悩んだらやってみる、行動してみることが今の私のモットーです。

聞き手:水上ミサキ


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