【神保町の生活史 #2】何かを考えるとき、神保町っていうのが絶対に頭にあるんですよ
__お生まれはどちらですか。
生まれは、東京ですね。港区の白金でした。私はずっと東京で、このビルは母の実家だったんです。だから、私の祖父と祖母が住んでいました。
このビルを立てたときに、地下を喫茶店にするって話がうちの両親のところに来ました。うちの父がそういう事業をやっていたので、その一環で飲食業をやろうとなり。
神保町はずっとおじいちゃんおばあちゃんが住んでたので、私にとってはゆかりのある土地です。
__このお店をはじめられたのは、お父様?
父と母ですね。経営は父が。別に喫茶店を商売にしていたわけじゃなくて、経営していた会社の飲食店部門という形で、喫茶店をやり始めたというきっかけです。
__お店の内装とかって、当時から変わらないんですか?
そう!ちょうどね、1976年が創業になるんですけど、70年代って、こういうヨーロッパ調の喫茶店が流行り出すころで。
そのもうちょっと前の時代っていうのが、こないだ閉じちゃったエースさんとかさぼうるさんとか、こういうスタイルじゃなくてどちらかというと同じカップで、カップにロゴが入って......うちとスタイルが違うんです、ちょっと前の喫茶店って。
で、そういうコーヒー豆にこだわるというよりは古くからある街の喫茶店っていう感じのものが多くて、76年代くらいから、こういう建築とヨーロッパのスタイルを取り入れた喫茶店が増えだした。
そこで一番活躍されてたのが松樹新平さんっていう、ここをデザインした方なんですけど、当時同じ時代にできた喫茶店ほとんど彼が設計されていて。武蔵野珈琲店だったり、トロワシャンブルさんだったり、アンセーヌタングルさんだったり。もちろん今も、たくさん閉店してしまいましたけれど、私が出したところはみな残っていて、やっぱり設計がみんな似てるんですよ。それが70年代より先。
喫茶店、コーヒー業界って、時代とともに文化が少しずつ変わってるんです。すっごく、すっとばしていくと、スタバの時代があって、ブルーボトルの時代があって、今またロースター系のお店がいっぱい増えてきて、コーヒー一つとっても、いろんな時代の流れがある。うちは第一世代から第二世代くらいに当てはまる感じですね。
第一世代は、さぼうるさん、エースさんみたいに、特徴はみんな違うんですけど、70年代のうちがオープンする頃は、ドリップもネルドリップで、建築もパリのカフェみたいなイメージのスタイルだった。
__建築家のかたとご親戚が交流があった?
うちの父が知り合いだったんですね。ヨーロッパとの貿易の会社をやっていて、松木さんもフランスのものを取り入れて日本の飲食店で出すっていうデザイナーさんだったので、そこで接点があって、このお店の建築を頼んだんです。
うちの父は3年前に亡くなったんですけど、松木さんはまだご存命で、70過ぎてるんですが、よくいらしてくれるんです。48年になるうちの店は、当時はこんなに約50年続くとは思わないで作られているから、はじめに作ったものがどう経年劣化していって、どういう風に残っていくのかがわかる建築物って、数少ない彼の手掛けた作品の中では凄く少なくて。いつも物凄く喜んでくださいます。自分が作ったものがもう50年経過して、それでも今なお生き続けていて、大事に大事に残してもらえるっていうのがとても幸せなことだよって、凄く仰ってくださって。それはとても嬉しい。
母から私は継いでるので、継いだことで50年続いていることになるので、それに対しても凄いことだなって思いますね。一つの個人飲食店が50年続くのって、あんまりないですし、あとはその松木さんの設計が素晴らしいんですよね。
これ全部、線路の枕木を使ってるんですよ。この木もすごいしっかりしてるし、この床大理石なんですよ。だから、今これと同じものを用意すると憶かかるんです。一憶じゃ足りないと思います。それくらいのものを作っているので、50年もってるんですよね。
50年経っても、もちろん経年劣化はありますよ。でも、それなりに味が出る。漆喰ですし、本物のレンガを使ってるし、偽物がまったくないんですよ、このお店には。
だから、もちろん継続させていくために色んなところを直したりはしますけど、きっちり作られているので、カウンターもほとんど直してないんです。一枚板ですし。20年前くらいに一回削り直してニス塗り直して、それっきりなんですよね。
__それ以外は変わってない?
変わってないです。あの、椅子は変えましたよ笑。でも根本的なお店の作り自体は失われてないです。もともと作ったものが素晴らしいので、そうでないと多分続かないと思うんです。一個一個時代の流れをきちんと受け止めて、少しずつ劣化していく。パリのカフェって、50年とか100年とか続いているんですよ。
もともとカフェ文化って、60年代に有名なアーティストさんとか作家さんとか、脚本家さんとかが、文化として集まってお酒を飲んだりコーヒーを飲んだりして色んなものが生まれたりするっていうところから始まっていて。パリに行けばもううちと同じというか、もっともっと古くて、もっともっと素敵なお店がいっぱいあります。
そういう長い文化の歴史を守ってるっていうのが、やっぱり喫茶店にあると思ってるので、喫茶店は誇るべき文化だと思っています。だからやっぱり残していかなきゃいけないなと思っています。
__素敵ですね!このお店はどのタイミングで継がれたんですか。
私が大学を卒業した時は、カウンターに母が立ってたんです。父がもう母に任せちゃって自分の事業をやっていて、ちょうど子育てが落ち着いたときに母がこの店をやるようになり。
私は大学を卒業して普通に就職をしたんですけど、高校の時からいずれここを継ごうと思ってたんです。高校と家とこの店って別の方向だったんですけど、家に帰らずにここにきて、制服来たまんまコーヒー飲んでたくらいの変わり者だった。で、母を見てたから、わたしもいずれこれやろう、って。
だけど、やっぱり大学卒業したてのお姉ちゃんが、こんなところに立ってもなんの説得力もないし、一応ちゃんとサラリーマンをやってからこの仕事をやりたいと思ってたので、一旦就職したんですよ。
でも、ここをやりたかったら、リチャードジノリっていうイタリアの食器の会社に入りました。棚にもいっぱい並んでますけれど、私はジノリが大好きだったので。それで10年弱かな、働いたら、母にガンが見つかっちゃって、すい臓がんだったんですよね。余命がもう当時3か月って言われて、凄くびっくりした。これはやばいって。
もう少し働きたかったんですけど、もう母ももたないなって思って、早めに会社を辞めてここに入りました。でも、すい臓がんって普通3年ももたないんですが、母は5年も生きたんです。やっぱりこのお店があったからだと思うんですけど、これって数パーセントの確率なんですよ。手術が奇跡的にうまくいったので、亡くなる数週間くらいまでお店にいました。
まあ最後はほんとにガリガリになって、髪の毛もないし。でも絶対ここに来る。母を家から連れてきて、ここに届ける。転移しちゃってるからお釣りの計算間違えちゃうんですよ。言葉も発することができないのでただ座ってるだけなんですけど。端っこにずっと座ってるんですよ。それでもお客さんの前に出たいっていう、執念があった。
お客さんが母のことを見れなかったの。もう骸骨みたいだって。でもあの人の生きざまというかは凄いことだと思うし、ここにいることが彼女の幸せだったのかなあ。そんなことがあって、私は大体5年くらい母と一緒にこのお店で過ごして、母が亡くなったので、私がそのまんま継いだっていう経緯になります。それが30代前半くらいかな。
__当時からスタッフの人数は変わりましたか。
お客さんが当時そんなに来てなかったから、私ともう一人いるくらい、スタッフのかたがいたくらいでしたね。
__今の方がお客さんが入ってる?
もう全然違いますよ。喫茶店ブームもあるし、母が亡くなってから私がずいぶん変えました。色んなこと。メニューも変えたし。
母はお酒を一切出さなかったんだけど、私は凄いお酒好きで、メニューにお酒も入れた。でもそれは当時、30年くらいの歴史の中で一切お酒のボトルがなかったのに、いきなり私がワインとかビールとか置きだしたわけ。だから常連さんたちは結構びっくりしていました。最初はね。
メニューも随分アイテム数増やしたし、あとは私は女性に来てほしかったんですよね。だからお花を生けたり、アートももうちょっと現代のジャンル、私の好きな絵を増やしました。昔はもっと油絵が多かったんですけど、それはそれで大事にしていますが、色々変えています。
__開店当初からあるメニューはどれですか?
使ってる道具は、当時から変わらないものが多いです。メニューは…コーヒーはもう全然変わらず、ネルドリップです。ネルという生地を使っていて、最近はペーパーが多いので珍しいんですけど。
ネルシャツってわかりますか。男性が冬に着るちょっと厚手の。あれと同じ生地を使っています。それは創業からずっと変わってないので、基本的にコーヒーは全く変わってないです。
他のドリンクはそんなに、お酒が入ったってだけで変わってないです。お酒は全部私が新しく取り入れてる。お酒というか、女の子が喜ぶ飲み物ですね。これ(ミルクラム)、すっごい美味しいですよ。女子に大人気。
変わらないのは、創業50年ずっと続いているかぼちゃのムースと、本当にうちがどれだけ取材を受けたかわからないグラタントースト。完全に母のレシピの中でずっと変わらず守ってるメニューの二つ。
それ以外は、フードは全部ほぼ私がやってます。この小倉は、たい焼き屋さんがあって、そこのあんこを使わせて貰ってます。私は結構神保町のコラボを大事にしてて、だからこれはたい焼き屋さんのあんこを使わせてもらってるし、あとは、この先にシャガットさんっていう私の大好きなビストロさんがあって、その方にケーキ焼いてもらってコラボしたり。
それ以外だと、以前だと関山米穀店さんっていう、やっぱりそれもビストロさんなんですけど、そこのデザートを取り入れてみたりとか、色々他業種と仲良くしていて、一緒に何かやりませんかっていうのを続けてます。
__へー!以前来た時に、鯖?のトースト珍しいなって思って。
そうですね!それもよく女の子が頼んでくれる。カレーメニューを一個入れたかったんですよ。神保町だけに。
__あー!そこが繋がるんですね
そう。折角神保町で飲食店やってるのに、でも王道のお米を使ったカレーはもう敵わないじゃないですか。ほんとに名店が多いので、そこには私が名乗り出る術が一切ないと思った。
うちはグラタントーストが代表的でパンメニューが多かったので、やっぱりこのパンを使ったもので、かつ、ちょっとカレーっぽいもので、でもあんまり他でやってないものって考えたときに、あー鯖カレーだと思って、鯖のカレーを入れたリエットを作ってパンで挟むようにしました。
やっぱり私の頭の中で何かを考える時、神保町っていうのが絶対に頭にあるんですよ。神保町だからカレーだし、どこかとコラボするというのも神保町のお店とやるっていうのはいつも考えてます。
__神保町にはお店を継ぐ以前もいらしていたんですか。
来てました。母の実家だったから高校生からここに来てたし、本も好きだったし、音楽も好
きだし、神保町は私ずっと好きで、今もずっと好きです。30代からこの店に入ってるので、20年以上ここにいますけど、ここにいればいるほど、やっぱり世界に誇る町だと思うんですよ。ほんとに。
__当時と今とで街の雰囲気って変わりましたか。
変わりましたね。人がとにかく増えました。お店屋さんじゃない、近隣の学生さんじゃない方が増えてきました。
多分SNSでしょうね。SNSが流行り出してから、流れが変わったと思うんです。うちのお店にいらっしゃるお客様も確実に変わってきたし、今までは検索して何かを知るっている手段は限られてたと思うんだけど、SNSで若い方がそういうことを知ることによって、すごくお店に若い方が増えました。
私は意図的に女性を増やしたいと思ってたから、もうほんと思惑通りというか、女の子のお客様はとても多いから、そういう意味ではすごく良かったなと思います。でも、私ずっとこのお店やってて思うことは、変えちゃいけない部分、守らなきゃいけない部分と、変わっていかなきゃいけない部分って必ずあるんですよ。
それで、やっぱり喫茶店として歴史あるお店だから、絶対的にこれだけは崩しちゃいけないことってあるんです。うちの店はほんとにコーヒー屋なので、コーヒーのようなここは絶対外したくないっていう部分もある。でもやっぱり、時代って変わってくるでしょ。だから同じことをやってたらだめだとも思っていて、常に新しいことをどっかで変えていかないと、お客さんって面白くないと思うんです。
ずっと変わらずにいる部分もありつつ、こんなこともやり始めるんだっていうことを、やっぱやっていくべきだと思っています。それが私がいつも頭に入れていることですね。
__今は学生のスタッフが多く働いていると思うんですけど、それを始めたのは。
私が母から継いで割とすぐですね。それもちゃんと理由があって、やっぱり人材を教育するっていうことは凄く大事なことだと思うんです。
今になってすごく思うのは、やっぱり雇う以上責任が絶対あるんですよ。大学1年生の子とかを面接で入れるでしょう。すると、彼らは生まれて初めてアルバイトするわけですよ。大学生の4年間のアルバイトって、人生の中で結構大きな成長期だと思うんです。社会に出る手前の仕事でしょ。しかも飲食店の接客業って、仕事の基本だと思うんです。
いらしたお客様に、いらっしゃいませと挨拶して、メニューをお出しして、お冷をお出しして、お会計して、うちはカウンター商売なのでお客さんとお話をして、とても大事な人と人との対面の仕事だと思うんですよね。
それをきちんと4年間できた子は、社会に出ても全然、他の人に引けをとらずにやっていけると思っている。仕事って結局人と関わることなので、ここでちゃんとできれば、何をやっても、人と人とのコミュニケーションができれば大丈夫。
あともう一つは、自分の上司だったりクライアントだったりが何を求めているかを先回りして察知することって凄く大事だと思うんです。それって飲食店でとっても大事なんですよ。
お客様が、あ、今お冷空いてる、じゃあお注ぎしよう、あ、今お帰りになられる、じゃあお会計しようかなとか、あ、オーダー決まってるのを目で合図してる、とかそういうのって店側は言われる前に気が付いてあげないといけないこと。
これってすっごく大事なことで、4年間きっちりうちで働いた子ってきちんとそういう能力がつくんですよ。それを私はちゃんと教えてあげたいので、ずっとそれを繰り返すんです。
1年生の子を4年まで育てて、就活して、送り出す。卒業する子は私がどっかいっちゃっても私の代わりになれることになってるから、お店を任せられます。私とっとと夜いなくなるから笑。ちゃんと鍵閉めてねって言いますけど、もう卒業する子はそこまでできる。私の代わりになる。
ここのお客様は年配の方が多いので、就活の最終面接クラスの方が並ぶんですよね。そういった方と毎日毎日話をしていれば、もうみんな就活ももちろん、行きたいところに割と早いタイミングで就職を決めてる。
凄く面白いのが、巣立って行った子がみんな戻って来るんですよ。戻って来るっていうのは会社辞めるってことじゃないですよ。お茶飲みに来てくれるし、もはや年末年始とか入ってくれるんですよ。お店が忙しいので、ちょっと入れない?って言って笑。みんな楽しく仕事してくれます。みんな仲良しですよ。ありがたいなと思います。それくらい密接に。
生まれて初めて仕事する子は泣いたりします。言われたことが何回言われてもできなかったり、失敗しちゃったり、そういうことで。私はやっぱり自分が何を求めているかをしっかり言うので。
私は学生さんであろうと、主婦の方であろうと、区別はしない。何で私がこういうことを求めているか、何ができていないかをきちんと説明すると、やっぱりみんな自分ができないことって悔しいと思う。でも、それでいいと思うんですよね。
やったことがないからできないんですけど、なんで私が注意をしているのかとか、何が違うかとか、きちんと説明してあげないと、わからないんです。理不尽に怒られたってわかるわけがないんですよ。
私の店はこういう店だからこういう接客をしてほしいけど、あなたはここができていないから、私はここをなおしてくださいって言ったんだよって、懇切丁寧にきちんと説明すると、わかる。やっぱりみんな若いし優秀だから、言われたことに対してちゃんと次に活かされていきますね。
ちょうどその頃って、多感な世代というか、伸びしろがあるんですよ。みんな凄く吸収するし、色んな興味持ってるし、ちょっと言うとぐわっと伸びる。すごく仕事ができるようになる。っていうのを見ることも、私はライフワークとしてとても楽しい。
でも何よりも一番は、社会貢献という意味では、すごく大きな言い方をすると、縁があって一緒に仕事をすると色んなことが見えるじゃないですか。その子の性格だったり、もっと言えばその子の育ってきた環境とか、そういうのって凄く出るんですよ。
だから、その子のこういうところはいい所だけど、こういうところは人より乏しい。でもこの子はこのまま4年間で社会に出ると絶対後悔するってわかる。
だってうちの仕事でもっとプラスに変えられる短所って、プラスに変えられたら、社会に出た時にもっと楽しく仕事ができるし、あとはやっぱりメンタルが弱い子も多いので、だから何か自分の得意分野を見つけた方が良いと思うんです。世の中で生きてくうえで。
なんか会社に入ってやることがあっても、私にはこれがあるっていうのって強いじゃん。それがないと、折れちゃうんですよ。
4年間ここに携わって、凄くコーヒーが好きとか、調理をすることが好きとか、接客することが好きとか、いくらでもそういうのってあるでしょ。アートが好きとか、本が好き、音楽が好きとか、うちのお店ひとつとっても色んなポイントがある。
その中で、例えばメニューがすごい好きな子には、アイデアを出してもらう。どんなメニューが欲しいか、何か一つ新しいもの考えてって言うと、例えばこのミルクラムとかは、女の子が、他のお店に行ったらミルクとラムが混ざっててすごくおいしかったからトロワバグでもっとアレンジしてやりたいですって今度やってみようって何度も何度も試作してできた。トロワバグとして出すんだったらいろんなアレンジが必要だから、って一緒になって何度も試作を重ねていって、あ、じゃあこれだったらいいねってお店で出したらほんとに大当たり。
__お店の一体感がすごいですね。
そうそうそう。あとね、パフェもそうだった。うちのお店にパフェがないから、パフェを何かやりたいって言って。だけど、よくあるごってごてのパフェはこの店に合わない。それはみんなわかってた。じゃあなんかうちらしい大人っぽいパフェを考えようってみんなで試作に試作を重ねて、そう、これも学生たちのアイデアです。
だから、私は神保町の他のお店とのコラボもそうだし、自分だけが変わらずにずっと続けるっていう気持ちは一切ないんですよ。やっぱり私よりも才能がある人ってたくさんいて、そういう人たちと作り上げていくことの方が意味がある。
ただ、トロワバグというフィルターが、看板があるので、そこから外れることはできないから、アイデアをいただいてみんなでトロワバグという看板に合わせていく作業を一緒にする。それが他のお店とはちょっと違う所だなあと自分では思いますね。
__他のスタッフの方とどういうときにそういう話をするんですか。
いつもいつも。お店の奥に部屋があって、のりこの説教部屋って呼ばれてるんですけど、そこでいろいろ、もちろん怒ることもそうだし褒めることもそうだし、相談もする。学生の子が、サークルや就活があるからシフト減らしたいですとか、そういった相談に来たりするんですけど、その流れのなかでこういうことしたいですとか、新しくこういうことしたいんだけど何かアイデアないかとか。
日常の会話のなかで沢山ヒントがある。だから私は全然、学生だからといってアイデアがないとか、主婦だからといって何か差別的なことを思ったりとかはないです。
雇ってる側の考え方ひとつだと思うんです。お客さんはどんどん変わるのに、私がいつまでもメニューを全然変えないでいたら、全然ここに嗜好が合わないじゃない。
もちろんずっとなきゃいけないメニューはあるのよ。なきゃいけないんだけど、でも彼女たち、男の子たち女の子たちが来たときに、へえこんなのがあるんだ!って言ったらやっぱり楽しいじゃないですか。わーってなる。
飲食店って一つのエンタテインメントだと思うので、例えば、オーケストラのコンサートに来て、一番最初のホールの音合わせで、ぶーーってやってるでしょ。幕が上がる前のそういう時ってわくわくするでしょ。あと、舞台を見に行って始まる前って凄いわくわくしませんか。あとは野球を観るとき、サッカーを観るとき。最初の選手が入場するときって一番感動しません?
だから私は、メニューを開くその瞬間の「わ!」っていうエンタテインメントって、飲食店にとって大事だと思うんです。
それは空間だったり、メニューだったり、スタッフだったり、音楽だったり、そういういろんな要素が相まってワクワク感ってあると思うのね。そういう演出がすごく大事だと思うから、そうなるとやっぱり自分がずっとやってくると視野も狭くなって来ちゃうし、それよりは携わってくれてる子たちの中にアイデアとかヒントがいっぱいあるので。だから私が良いなと思うのは、任せて、「じゃあやってみて」って言うこと。
うちポストカードを販売してるんですけど、それもうちに絵の上手なアーティストがいて。こういうのももともと、こういうデザインをやってるイラストレーターのスタッフがいて、凄く絵が上手なんで、最初はうちのインスタで投稿していいですかっていうのから、みるみるうちに何枚も何枚も。こういう試みとかをやると、新しいことって絶対必要だと思うんですよ。だから毎日楽しいです。色んな事があるし。
あんまり偉そうに言うことではないですけど、私が日常、毎日お店に立つうえで大切にしていることは、やっぱりスタッフと進めていくこと。わたし一人では到底これだけの広いお店、これだけのお客さんが来ているお店を回すことってできないので。あとは新しいことをやっていかなきゃいけないなと思っているので。
6月20日に2号店ができるんですよ。ここのお店は両親が始めたので私は継いでいるっていう形で、私がゼロから生み出したものではないんですけど、ゼロからお店を作るのは新しいチャレンジとしてやりたいとずっと思っていたし、ここのお店は地下なので、モグラを20年ずっとしてると地上に出たくなるわけね笑。
次は絶対地上に出るって心に決めてた。ネルドリップコーヒーと、クレープをやる。コーヒーはもう変えないで、うちのコーヒーを出すんですけど、フードはここにないものをやろうと。
どうしても私は路面店に、地上に2号店を出したいとずっと思ってきた。あとやっぱり継ぐことも大変だけど作り上げることも大変だと思うので、私はゼロからお店を立ち上げるっていうことをやるべきだと思っていました。それは私の中のさっき言った、変わらない部分もあるけど新しいことにチャレンジするっていうことも絶対必要ってことと、スタッフの成長のためにも、もう一店舗あればそっちで任せられるでしょ。
ここのスタッフを2号店で。やっぱり縁があって学生を卒業しても残ってくれてる子がいるので、そういう子たちがいつまでも私のもとで働いていてはつまらないし、次のステップはやっぱり自分で店長として働くと言うことだと思うんですよ。
そのためにやっぱりもう1店舗必要だと。思ってることはずっと変わらないんですよ。ずっと2号店の場所を探してましたよ。
猿楽町っていうあの丸香の通り、わたし大好きなんですよ。あんまり大きい物件は無理なんですけど、小さい物件をずっと探してて。
あとはね、どこの喫茶店も同じことを思ってらっしゃると思いますけど、このビル50年なんですよ。この店と同じで。ビル自体が老朽化が進んでいろんなところが壊れたり、ビルがもうどんどん水道管が詰まって水があふれたりとかいろんなことがあるので、それで辞めちゃう喫茶店がいっぱいあるんですよ。
いつまでも、建物の影響で辞める店が多いんです。50年たつと、もう先がわかってくるんだよね。あと10年もこのビルはもたないって。
そうなってくると、建て替えますと大家さんが言ったときに、じゃあどこに移すんですか、となる。この場所がだめとなったら、次がなかなか見つからないんですよ。あとは莫大なお金もかかります。
だったらやっぱり老朽化を頭に入れながら、ここが稼働しているうちに次を見つけておくということが、この先トロワバグという名前を残していくためには絶対必要なことだと思っていました。あと私は絶対、神保町でもう1店舗と思ってたので。
ほんとはさぼうるさん、さぼうる2さんみたいに隣が良かったけど。だけど、あそこはオープンして行っていただけると分かると思うんですけど、外観もそうなんだけど新しいカフェとちょっと違うんですね。
そういう意味ではここと似ているところがある。タイプは全く違うんですけど。でも、割とアンティークなお店。
こっち(トロワバグ)はなんとなく古いパリっぽい喫茶店なんですけど、向こう(2号店)はフランスの田舎っぽいカフェです。
どちらもフランスのちょっと古い感じをイメージしてます。こっちは赤っぽいんですけどあっちはグリーンなんです。フランス語でヴェールってグリーンっていう意味なんですけど、こういう赤とグリーンの対照も考えていて。そういうのがね、ちょっと対照的にしたいなって思っていて。
__今お店の準備は何の段階なんですか。
今週やっと内装の準備が終わって、もちろんメニューの試作はずっとやってます。ずっとクレープばっか食べてる。
昨日も夜まで。ずっと試作を繰り返して、どうしようこうしようってずっとやってて、今週で工事終わるので来週から搬入ですね。色んなもの、いす、テーブル、全部搬入して、メニューも用意して、やることは山盛りですね。
__どうしてクレープになったんですか。
神保町にクレープ屋がないからです。
神保町のことしか考えてないんです。ホットケーキ屋さんはあるでしょ。クレープはないんですよ。誰もやらないことをやる、その方が街も活性化するので。ここで出している物をすぐそこで出すのも、いいけど楽しくないでしょ。
出す意味を考えると、やっぱり変わらないトロワバグのメニューもあるけど、でもやっぱりヴェールに行かないと食べられないものも絶対必要なんですよ。あとお店の雰囲気に合うかなと思って。フランスだから。
あとは、ここのお客さんは土曜日とか祭日とか並んじゃうんですよね。お客さんは女性が多いので、並んでいる人を2号店にご案内したときにがっかりしないメニューを用意したいと思った時に、やっぱりクレープを嫌がる女の人っていないんじゃないかなと思って。
なんかちょっとテンション上がる。だけど、いわゆる持って帰るようなクレープじゃなくてフォークとナイフでいただく、で、あんまりインスタ映えするようなゴテゴテフルーツもりもりっていう感じじゃなくて、肩ひじ張らずに気楽に食べられるようなコーヒーに合うものを。女性は凄く楽しいと思いますよ。店の中もかわいいし。
__三輪さんはお店を継ぐ前にどういうふうに仕事を教わっていたんですか。
ここの仕事は、うちの母はもう全然言葉で教えてはくれなかったんですよ。
今私がスタッフたちに教えるようにコーヒーのドリップの仕方を懇切丁寧に伝えてもらったりとか、仕事の仕方なんてなんにも教えてくれなかったです。もう見て覚えろという感じ。まあ昭和の初期の人だよね。そういう感じでした。なんにも言わなかったです。
でもたった1つだけ口うるさく言われてきたことがあって、それは「美しくいなさい」って。綺麗にしてなさい。それを物凄く言われました。
綺麗と言うのは、お化粧をきちんとしなさいとか、派手な服を着なさいとかそういうのじゃなくって、きちんと清潔感を保って、お客さんが不快感を示さないような容姿でいてくださいってことでした。
母はすごく綺麗な人だったので、いつも綺麗にしてお店に立ってたから、髪が少し乱れてたりしたら髪を結びなさいって言われたし、ちょっとよれよれの服をきてたらその服は良くないから二度と店には着てこないで、とか、エプロンが汚れてたら洗って着なさいとか、疲れた顔してると、そんな顔でお店に立ってたらだめだからとか。容姿に関しては物凄く言われました。
見た目の清潔感って、飲食店の基本ですよね。今は店主だし、中に入って一番最初に扉を開ければ目に入る存在じゃないですか。その人が疲れてたり、ぼさぼさのおばさんまっしぐらみたいな感じでいたりすると、お客さんもテンション落ちますよね。
よれよれだったりとか、そういう風にしてるよりは、しゃっきり清潔感があってしっかりした所作でコーヒー作ったり、うちの母は、そういうのが最も大事だって言いたかったんだと思います。
__確かに、飲食店の顔ですもんね。
多分彼女は、説明なんかしないで自分で考えて自分で動きなさいって言うことだったのかなと思います。ケンカもしてたし。
親子だもん。お母様とケンカしません?女性同士だし。でもやっぱり、言われてて良かったな。それ以外言われなかったので。そんなことばっかりいわれてました。美しくしなさいって。
__一緒に仕事をしてる時と家にいる時って違いますか。
うちの母はあんまり変わらなかったですね。
今話してて思い出したんですけど、私は結構オンとオフを切り替えるんです。店にいる時は仕事モードに入って、家にいる時は割とだらっとした感じに変わるんですけど、うちの母は変わらないです。
で、うちの母が私に言ってたのは、「あなたは頑張りすぎてる、自然体じゃない」って。母は家にいる時もお店にいる時も自然体だから、お店に立ってても家にいるのと同じ心持ちでいられるっていうんですよ。
だけど私は、ここにいる時はさあやるぞってスイッチを入れるんです。でも、ということは、仕事の態勢にならないとお店に立てないんだよね。長くやり続けるにはあなたの仕事の仕方は疲れるから、もっと手を抜くわけじゃないんだけど自然体で仕事をできるようになりなさいって言われました。今でもいろんな人に言われますね。私の仕事の仕方がそういう仕方なんでしょうけど。
身なりのことは、普段からも言われてましたね。うちの母は普段からちゃんとしてたので、仕事だからここにくるっていう感じじゃなくて、家が2軒あってもう1軒の家にいる感じで立ってるって感じでした。でも自然体でいられるって凄いことですよね。それがなんかやっぱり、母と私のキャラクターの違いなのかもしれないです。
__三輪さんは2号店でもカウンターに立たれるんですか。
基本は店長はうちのスタッフで、私は行ったり来たりです。基本こっちで、たまにあっちに。
店長はもともとこっちの学生アルバイトで、卒業した後もカフェの仕事したいってうちに残ってて。下北沢の松崎さんも、今でも仲良しですよ。今でも私行きますし、こっち来て下さることもあります。
まあ、当時の、私にとって大先輩のスタッフたちは、武蔵野珈琲もそうだし、シャンブルもそうだしアンセーヌもそうですけど、みなさんもう70代で。私が小学生のころからここで仲良くしてたから、大先輩ですけど、そういう方が先を走ってくださるっていうのはありがたいですよね。同じ業界としてもっと頑張れるなと思います。
あともう一つはね、母の時代だと神保町の中の喫茶店の横のつながりって言うとあんまりなくて、でも母が亡くなって、私が継ぐことになったときに、当時のさぼうるの鈴木さんとか、古瀬戸のマスターとか、心配して私のところに来てくれて。当時30代の私に、何か困ったことがあったときに言いなさいよって言ってくれて、ありがたいなって思って。
私も行き来して、いろんな相談に乗っていただいたりしてたのね。でも今は、あちらが世代交代して、私が逆に歳が上になり、みんな若い人か同世代くらいの店主さん、マスターが多くなって、今度は逆にこちらに来てくださっています。私より歳が下だと、ねえさんねえさんって感じに。
そうすると、当時よりももっと横のつながりができてきて、私は意図的に横のつながりを大切にしたいと思っているので皆さんのところに積極的に行くけど、やっぱり連携が取れてますね。さぼうるさんも、ミロンガさん、伯剌西爾さんも。
お客さんを紹介してくれたりとか。うちは8時までやっているんですけど、さぼうるさんが6時で閉まっちゃう。そういう時間帯にさぼうるさんにお客様が来たりすると、うちに送り込んでくれたりする。そういう感じです。よく一緒に飲んだりするし、楽しいです。
母が亡くなった当時は大先輩と私って感じだったけど、今は世代が近くなった。みんな共通しているのは、神保町が大好きっていうことと、長い歴史のなかを一緒にいるってこと。だから話題が尽きません。
だからもっともっと連携を深めて、いろんなことができたらいいな。さぼうるさんなんて50年以上だし、一緒になにかすることって町が発展するのに凄く大事なことだから、そういうイベントを立ち上げたいなって思ってます。
2号店が落ち着いたら、神保町の喫茶店同士で何かやりたいなって、石川さん(おさんぽ神保町編集長)には常に言ってる。何か喫茶店で一緒にやりましょうって。
例えばだけど、各店舗のロゴをあしらったコースターだったりトートバッグだったりが、それぞれのお店にいったら買えるとか。あとは本当は小学館さんとか集英社さんとかがタイアップしてくれたら、案内所にいけばそこでしか買えないグッズがあったりとか、もっともっと欲を言うと、どこかをみんなで借りて、そこに行けばそれぞれの看板メニューがあって半年くらいでメニューが入れ替わってとか。そういうのをやりたいと思って、いつもさぼうるさんと話してる。
言ってればね、いつかチャンスがくる。そういうのって業種関係なく、例えばパサージュさんで一緒にできることはやったり、あとは飲食じゃなくても本屋さんと何かやったり。
神保町だからできることってもっと他にいっぱいあると思うんですよ。私は、次のチャレンジをしてく。
__神保町のこれからが楽しみですね。
そう、もう神保町愛が止まらないんです。ほんとに。神保町のことしか考えてないので。ずっと好きですね。こんなに好きな街はないんじゃないかな。
マニアックな街じゃないですか。変態が多い。喫茶店をずっとやってる人は変態だし、古本屋さんもすごい変態だし。カレー屋さんもすごい変態が多いし。
でもこんだけその分野に関してプロの人が、個性の強い人が集まって街が成り立ってるなんて、他にないと思うんですよね。だから世界に誇るべき街だなと思うんですよ。
個人店が多いってことは凄く大事なことで。ヒルズがあちこちにできるじゃないですか。それが悪いわけじゃないけど、そういう集合的な施設ができることで、人は集まるけど街の個性が消えるんですよ。それは私はあまり望んでないというか。
それぞれがそれぞれの持ち場を守りつつ、それ以外のところで一緒になって何かをすることでまた新しいお客さんが来る。そういう風にしていきたいなと思ってるんですよね。
__もっと神保町が好きになりそうです。
ぜひ神保町を広めてください。私もこうやって話すことで、自分の気持ちの確認が凄くできるんですよね。
あともう一つ、母が亡くなってもう15年くらい経つので、常連さんとか母を知っている人がどんどんいなくなってきていて、母のことを聞いてくださることは凄くありがたくて。
この間もすごく感動したんですけど、神田のエースさんの清水さんがここにいらしたときに、ぼそっとね、お母さん死んで何年になった?って聞いてくださったの。そういうことをふって言ってくださるって、なかなかないんですよ。
それはイコール、マスターが、亡くなってここまでよく頑張ったねって意味合いが入ってるんですよ。もう15年経ったんだって。そういう風に温かい気持ちをかけてくださるのって同業だからこそだし、母と同じ時代を生きてる方のお言葉なので有難いなって。エースさん、辞めてもう涙涙ですが。
そんなこともね、長くやってるから当たり前ではあるけど、こうやって取材をしていただけると、母のことを口で説明できるじゃないですか。
それってやっぱり母も喜ぶし、亡くなった人が15年経ってその人の話ができるって普通ないですよ。もう家族間でしかない。こうやって全然知らない方と母の話ができるって、お店がないとなかなかできない。そういう意味でやっぱりやってきて良かったなと思うし、取材を受けるということは私にとってとてもありがたいんです。
語り手:トロワバグ 三輪徳子
聞き手:三尾真子