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【神保町の生活史 #4】泥団子大会があって、うん、すごいのよ。泥団子さ、白と黒、あるの知ってる?

__まずお生まれからお伺いしてもよろしいですか。

 はい。年代?1991年生まれ。 (笑)
えーと、Aですね。出身は。A市で生まれ育って、もうずっと実家でおばあちゃんとおじいちゃんとお母さんとお父さんとお兄ちゃんいて、一緒に住んでました。

__で、Aの実家で暮らされてて、幼少期の時とか、こう、経年的に、話お聞きしてもいいですか。

 はい。

__記憶がある時から

 記憶がある時から(笑)
私、ほんとにね、忘れちゃうんですよ(笑)最近、すごい言われる、怒られるんですけど。
でも、うん、そうですね。
基本的に、お父さんもお母さんも働いてたので、両親共働きだったので、私、すごいおばあちゃんに育てられてて、めちゃくちゃおばあちゃん子だったんですけど、おばあちゃんは、その、福井の田舎から出てきた人で。で、なんかね、結構兄弟多かった、7人兄弟ぐらいなんですけど、なんか、その福井の田舎では、結構、畑とかをやっていて。
で、私もそのAの実家で暮らしてた時に、なんかちょっと、ちっちゃい畑じゃないけど、実家にあって、おばあちゃんがそこに野菜とか植えていって、で、それを一緒に育てたりとか。

あと、なんかその、ふりかけ(笑)
ふりかけを手作りするっていう、謎のおばあちゃんの習慣があって、なんか魚の骨とかそういうのを買ってきて、そのくだいて、なんかミキサーっていうか、そういうので砕いて、手作りのふりかけを作るとか、そういうことをやってたんですよ。
だからお母さんとかは、 なんかそういう酸っぱいもの、柑橘系とか嫌いだけど、私はおばあちゃんとずっと過ごして、おばあちゃんそういうの大好きだったから、子供の頃からそういうの食べてたから、そういう酸っぱいものとかもすごい好きでとか。

なんかその好みがおばあちゃんみたいな感じで、そう。その多分、子供の頃のおばあちゃんと過ごしたなんか記憶みたいなのが、多分ここでの暮らしとかもそうなんですけど、なんか野菜育ててとか、そういうちょっと田舎への憧れみたいなものが結構昔からあったっていう感じですかね。なんかずっと喋っていいですか(笑)?

__大丈夫です(笑)

 そうですね。
生まれてえーと、幼稚園だ。私、保育園じゃなくて、幼稚園に入って、で、家が畳屋さんって言ったよね(笑)
畳、まあ卸しなんですけど、販売だけなんですけど、畳屋さんだったんですね。自営業だったんで、 おじいちゃんがその仕事やってて、お父さんが一応ついでやってて、で、お母さんは、親戚のお店が近くにあって、なんか、 化粧品とか洋服とか売ってる、ちっちゃいお店だったんです。学生服とか売ってるようなお店だったんですけど、お母さんはそこにパートに出ててっていう感じで。

さっき言ったように、私はおばあちゃんに育てられて、で、幼稚園は、そう、だから、畳屋さんの、なんか事務所みたいなのが、 家からちょっと離れたところにあって、その隣に幼稚園があって、そこに通ってました。

で、そう。通ってて、なんか、その幼稚園は、なんかすごい、結構自由奔放な幼稚園で(笑)

泥団子大会(笑)泥団子大会があって、うん、すごいのよ。泥団子さ、白と黒、あるの知ってる?
白砂をかけると、かけ続けると、白くて綺麗な泥団子ができて、白砂を最初かけつつも、最後、こう、磨いてくの。そうすると黒い泥団子ができるんだけど、そういう、泥団子大会っていうのがあって。で、その、白を作るか、黒を作るかみたいなことを幼稚園では、やってたり。
あと結構、竹馬になんかすごい乗ったりとかして。私はほんとにね、竹馬がこのサイズだとすると、 普通さ、このぐらいじゃん、高さって。頑張って。でも、頑張って、このぐらいじゃん。ほんと、このぐらいまで(竹馬の1番上のあたり)ほんとにあげて、こうやって、すっごい背中、こうやって丸めて乗ったりとか。

__飛び乗っちゃう(笑)

 だから、なんか、塀っていうか、塀にまず1回登ってから竹馬に乗るみたいな。地面から乗れないから(笑) みたいなことを、そうやってるような幼稚園で、すごい、なんかね、自由奔放、いい幼稚園だった。多分今振り返ると思うけど、そういう幼稚園で育って、なんかね、そん時はね、結構おてんばって言われてた、言われてたかな。
でもね、なんだろう、どっちかっていうと、なんか、おてんばとも言われてたし、結構マイペースとも言われてて、そんな感じで、 生まれ育ち。幼稚園でしょ。で、(次は)小学校でしょ。小学校。なんか、Aってイメージあります?

__治安がよくないとか?

 そうなんか、ほんと、そうなんですよ。だから、私も、外に出てからね、気づいたけど、Aって治安よくないらしくって(笑)
で、うちの小学校もめっちゃ荒れてて。1、2年生はね、普通に育ったと思うんだけど、なんか3年生ぐらいの時に、 先生が、こう、耐えられなくて、辞めちゃってみたいな。で、5年生の時とかに担任が2人ぐらい変わって1年の間にね(笑)

手に負えない生徒が多すぎて、病んじゃって先生が、なんか2人ぐらい辞めちゃってみたいな、変わっちゃってっていうのがある感じの、とにかく学級崩壊系の小学校で、私、優等生な方だったんです。自分で言うのもあれだけど(笑) 優等生というか、まああんまりマイペースっていうことなのかもしれないけど、あんま、こう。(周りを見て)やってんな~みたいな感じで(笑)

でもなんかその6年生の先生が、すごいいい先生だったんですよ。 めっちゃ厳しかったんだけど、男の先生で、怖がられてたんですけど、なんかその、 手に負えない学年だったから、6年生の時。
その先生がね、担任になって、で、その先生が、結構、その生徒への教育みたいなの、すごい熱心にやってくれてて。でね、1番ね、なんかね、印象的なのがね、毎回作文を書くっていうことをやる先生だったの。だから、何かあるごとに、どう感じたかとか、どう思ったかっていうのを、めっちゃ作文書くのね。それなんか、「紙風船」っていうタイトルで最後まとめられるんだけど、多分私ね、今でも家に、実家にあると思う(笑)

そう。で、それが、なんか私結構、その時から多分すごい考えることが好きというか、癖というか、すごい考えるタイプで、なんか、すごい長文書いてたの(笑) そう、すごい長文書いてて。で、大体最後の方まで3人ぐらい残るんだけど、書き終わらない、3人ぐらいの、最後まで教室に残るんだけど、大体ずっと書いてて。でもその先生は、すごい毎回いいこと書くっていう風に言ってくれたりとかもしてて。で、多分なんか考えることとか、ひとつひとつのことに対して、結構考えるタイプの人間で、ずっと書いてることも、なんか考えて考えて、ずっと書いてるみたいな感じのタイプでした。
で、小学校のさ、卒業文集みたいなの、あるじゃない?卒業アルバムが。それでもなんか、その、クラスで○○な人第1位みたいなランキングで、 なんか、多分今時なんだけど、全員が1位になる項目を作ろうみたいな感じのがあって、で、私がね、なんか、1位だったやつが、よく考える人(笑)

__よく考える人(笑)

 (よく考える人)第一位みたいな感じで、そういう小学生時代だった。で、すごい、なんか、仲いいね、小学生の友達が5人ぐらいいて、 で、中学も、そのまま仲いい子とか、大体同じ中学に上がるから、そのまま上がるんだけど。中学も割とその5人みんな、大体、なんか優等生みたいな感じのタイプで、中学も。だから全然そんなあれなんだよ、別に普通にしてるだけなんだよ。みんながさ、荒れすぎてて(笑)

そう。で、中学もそれでその仲良しの5人と吹奏楽部にみんなで一緒に音楽好きだったから入って。で、吹奏楽部って、結構、優等生の中の規則を崩しちゃいけないっていう部活の結構ルールとかあって、なんか、くるぶしとかさ、入ったりするんだけど。靴下、違う?ジェネレーション?
なんかスカートちょっと短くして、くるぶしソックスって短い靴下を履くみたいなのが、みんなそれをやりだすんだけど、吹奏楽部はそれやっちゃいけなくて、あの、三つ折りの靴下をちゃんとこう、靴下3つに折って履くっていう、こうやって折り返してね。
今考えるとダサいなって思うけど、そういう中学だったんですよ。で、それで、私たちは優等生だから、ちゃんと守ってっていう感じで、中学も割とそういう優等生な感じで来て。だから、そのね。5人のうち1人は生徒会長やってたし、私が部活の部長やって、で、その 5人のうちの1人が副部長やって、みたいな感じの、そういう感じのタイプの人たちでした。中学は、そんな感じ。

で、高校は、お兄ちゃんが割と頭よくて、私のお兄ちゃんが。 学区内だと、割と1、2に頭いい高校に行ったんですよ。で、私も成績だけは良かったから、優等生ぶってたから(笑)
どこ行こうとか、なんかあんまりちゃんと自分で考えてたってほどでもないんだけど、お兄ちゃんが行ってるから、なんかいいんだろうなみたいな感じで、お兄ちゃんが受けた高校を受けて、で、そこに行ったんですよ。でも、なんか正直私、本当、そんなに勉強できるタイプじゃないから、うん、なんだろう。言うこと聞いてますみたいな。
で、学校の授業とかも、普通に聞いてますっていう感じだったけど、家で勉強してるわけじゃないし、なんか、その塾に行ったことなかったから、その高校に入って、なんかちょっと、優等生ぶるのにも疲れたし。


その、Aって、南北格差っていうものがあって、南なんですけど、私ほんとのAの、ちょっと、治安の悪い方なんですけど。高校、北にあるんですね。で、だから(高校に)入ると、やっぱその格差で自分がいくら南で頭良くても、もっと(周りが)頭いいんですよ(笑)だから、優等生ぶってただけだし、なんか、高校入ったら、全然勉強わかんないみたいな感じで、で、なんか、勉強もいいや、みたいな感じで、 結構、部活とか、文化祭、体育祭とかの行事に、すごい熱い高校だったんですけど。で、 言っちゃうと、結構、高校生の3分の1だか、2だか忘れちゃったけど、結構、浪人するっていう(笑)で、例に漏れず、私も浪人してるんですけど(笑)っていう感じの高校で、高校の時は、本当に、全然勉強しなくって。で、同じく吹奏楽に入って、部活やったりとか。どっちかというとね、高校はほんとひっそりと 過ごしてたんですけど。

でも、なんかそこで、やっぱ、お兄ちゃんは、ずっと部活やってて部活引退した後に、塾に通い始めて、でもそっからすっごい超追い上げて、普通に赤点とか取ってたはずなのに、超追い上げて、普通に現役で、早稲田行ってるんですけど、私は、なんかそんなもんなんだって、あんま考えずに、そんなもんなんだって感じで、部活終わって、塾行き始めて、違うか、高校の時も塾、 中学の時も塾行ってたんだな、行ってました。なんか、行ってないって言ったけど(笑)行ってました。いい塾に行ってました。で、でもその大学受験で、部活引退してから1科目だけ塾に行ったんですね。お兄ちゃんもそうだった。英語だけ塾行くって言って、あとは自習でやって、で、私もじゃあ、そのスタイルでって思ってやったんですけど、もう全然勉強わかんなくて、そんで、もう私は浪人をすると。

で、その時に本当になんか、結構、親にすごい申し訳ないなっていう気持ちはあって。で、うちその自営業やってたんで、やってたんですけど潰してるんですよ、途中で。中学だったかな。中学の時にまあ畳屋って、もうね、そんなに流行らないっていうか、みたいなのもあるし、おじいちゃんがちょっと、多分、アルツハイマーみたいな感じかな。で、自分で、なんかこう、ボケちゃっていうのもあってお父さんが引き継いだんだけど、なんかもうその時点で結構、ちょっと詳しくは私も聞いてないんですけど、その時点で、結構、なんか色々大変で、潰してるんですけど、だから結構貧乏な家庭だったんです。どっちかっていうと、かなり。

で、多分、お母さんとかも、全然闇金とかじゃなく、普通に銀行とかからお金借りてとかしてたし、そのパートで働いてたけど、やっぱそれだけだと返せないから、仕事、別の仕事し始めてとか、 あと、夜の、なんかアルバイトみたいな、感じで働きに出て、みたいなことをしてたような記憶があるぐらいには、ちょっとその貧乏、めっちゃ貧乏だったので、その浪人1年するって、すごいお金もかかるし、申し訳ない。受験費とかもただでさえ1校受けるだけで結構高いから申し訳ないなっていう気持ちはすごいあって、あったんだけど、もうなんかどうしても、もう1年勉強、なんかいい大学に行きたいっていうよりかは、その高校3年間勉強してこなかったのを、最後のなんかその半年ぐらいで勉強したけど、これはすごい 学びきれなかったというか、この3年間学ぶべきだったことを無駄にしてたっていうことに気づいて。で、その多分半年間ぐらいだけど、勉強したことは、なんか、私的にはすごく面白かったというか、大事だなって気づいて、

で、その、ちゃんと学びたいっていうこととかもあって、現役で受かってたとこもあったんですけど、 そこに行かずに、もう1 年浪人させてくださいってマジで頭下げて、マジで泣きながら頭下げて(笑)で、親はすごいいい親だったので、なんか、その子供の言うことを否定する感じではないから、あんたがそこまで言うならって言って浪人させてもらって、で1年めっちゃ勉強して、で、それで大学はBの観光(学部)に入って、そこが第1志望だったんですけど、元々。そこに入ったっていう感じです。

大丈夫。この辺まで大丈夫ですか(笑)続けていいですか。はい。っていう感じですと。
で、なんだろうな。観光が第1志望だったのは、 なんか元々、その観光にすごく興味があったっていうわけでは実はなくて、なんかね、ウエディングやりたかったんですよ。最初。なんとなく。そう、ウエディングいいなって思ってたことがあって、ウエディングプランナーとか、そのプランニングいいなって思ってたことがあって。 で、ウエディングって、専門学校に行くか、そうじゃなければ観光学部の中に、そういうホスピタリティの部門があるから、そういう選択肢があるんだって思って。そこから観光面白そうだなみたいな感じに思って行こうって思ってたんですけど、なんか色々調べてる間に観光学部って観光学科と、交流文化学科と2つあって、B(大学)、行ったところが。で、その観光学科の方がホスピタリティとかいわゆる観光産業の方なんですけど、交流文化学科の方は、どっちかっていうと、人文科学系の文化とか、社会、歴史みたいなことをやる方で、色々見てたらそっちの方が面白そうみたいな、なんか自分好きかもみたいな感じになって、結局、両方受けたかな、もしかしたら両方受けたと思うんですけど、交流文化学科の方が面白そうだなと思って、で、結局そっちを受けて、そっちに行って、っていう感じだったんですよ。

で、大学は浪人して入ったし、真面目に授業を受けなあかんなみたいな気持ちで、割と、比較的真面目に受けてたかな。で、大学1年、 2年の時だったかな。2年で、ゼミを決めるんですけど、その時に思い出せないんですけど、あ、2年で、そう。で、ゼミを決めると、 あ、わかった。思い出した。1年で、その観光学部って、やっぱフィールドに出ないとしょうがない学問なので、いろんなそういうプログラムが授業の中にあって、で、その1年で早期体験プログラムっていう海外に行く授業があって、それを取ったんですね。で、その、私海外にも行ったことなかったし、さっき言ったように貧乏だったから、旅行とかも正直全然したことなくってっていう感じだったんですけど、その早期体験プログラムせっかくだから行ってみようって思って、その時にベトナムに行って、そこで本当に自分と全然違う、その異文化みたいないわゆるものに触れて、なんか面白いなって思って。
で、その時、引率担当してた先生がすごいいい先生だったんですよ。で、私はその2年生の時にじゃあゼミを決めますってなった時に観光学部って、その、いろんな分野の先生がいるんですね。 学際的な学問って言われてて、だから、社会学、地理学、人類学、経済学、文学、それこそ都市計画というか、工学とか、いろんな先生がいる中で、ほんとは多分、私、人類学とかの方があなたは向いてるって言われてたんですけど、その早期体験プログラムに行った時に、その先生から○○さんは人類学だと思ったって言われたんだけど、その先生が地理学の先生だったんですよ。で、私、その先生がすごい良かったから、地理学って(笑)
地図読めないし、ほんとに全然地理好きじゃないんだけど、この先生の元でゼミやりたいって思って、その地理の先生のとこに入ってやったんですね、ゼミを。で、そのゼミ合宿の最初の合宿が門司港、北九州市にある門司港っていうところで合宿があって。で、その時に、なんか、門司港も初めて行くんですけど、そこが駅前がすごい観光地として開発されててレトロ観光っていう感じで開発されてて、で、その先に商店街があるんですけど、その商店街がすごいシャッター街で廃れてますみたいな。
で、それを2つのレトロみたいな感じで、そのゼミの中でも、 なんかこう、ちょっと見たっていうのがあって、私は、結構それが自分の中で衝撃というか、 なんか結局観光開発しても、本当に住んでる人たちとか、その街は、こっちの駅前に人取られちゃう、で、商店街衰退していくみたいなのがなんだかなっていう、なんかそれってどうなんだろうなっていう気持ちになって、 それで、なんか私は観光産業じゃなくてまちづくりをやりたいっていう気持ちで、 そこからもうずっとまちづくりをやろうっていう風に思い始めたんですね。

それと並行して、産学連携プログラムとかで、学生が町を歩いて街歩きのマップを作るプロジェクトとかに参加したり、そういういろんなことをやってる中で、自分の中で結構、本当、街とか、あと、さっき言った、多分その結構おばあちゃんと暮らしてたみたいなところが自分の田舎への憧れみたいなものとかもあって、そういう、どっちかっていうと衰退していく地方とか、 そういうところに対して何かやりたいなっていう気持ちが強くなったんですね。ちょうど、あと、私たちが大学入学した年が3.11の時だったんで、1か月入学式もなくて、1ヶ月間来ないでくださいって言われてた、
なんか5月に学校始まるみたいな感じのこともあって、結構その、地方への、
(虫が入ってきて追い払う)窓閉める?(笑)

(玄関の窓を閉める)

この、政府としても、そういう地方創生とか、結構注目というか、政策的にも色々やってる時期だったっていうのもあると思うんですけど、っていうのがありましたと。大学3年ぐらいの時だったと思うんですけど、

その時に色々見てた中で、多分テレビだったと思うんだけど、四国の徳島の祖谷っていう、すごい秘境、山奥の場所があって、そこの古民家を再生して宿泊施設にしてるっていう人がいて、それがなんか、東洋文化研究家のアレックス・カーっていう人なんですけど、で、その人が多分テレビか何かで言ってたのが、このままだと日本の原風景が失われていくって言っていて、で、なんか、私は、それを聞いた時に、日本の原風景って何?って思ったんですよ(笑)

自分はずっとAで生まれ育ってるから、そもそも日本の原風景って言われる風景を知らないし、 なんかそれを失われてることに対して警笛を鳴らして守ろうとしてる人が日本人じゃなくて、その海外から来た人みたいなっていうのもなんだかなって思ったし。
で、その門司港行った時とか色々やってきた中でも、やっぱそのまちづくり、観光じゃなくて、そういう街に対する思いみたいなのがすごく強かったので、これはなんか1度行かねばなるまいと思って。で、それで大学4年生に卒論を書くんですけど、4年生の卒論をそこで書こうって決めて、祖谷で。で、その祖谷にどうにかしていけないかと思って。
で、その時に、なんか大学で受けてた授業の担当してた先生が、 JR、元JR職員で、みたいな方だったんですよ。すごい、なんか、その授業の中で、僕は全国にいろんなツテがあるから、 行きたいところがある人は僕に言ってくださいみたいな。すごい、結構、ほんとに色々、JRのSuicaを開発したみたいな感じの人だと思うんですけど、元々、働いてた方なので、 その授業第1回目でそういうこと言われてもうその終わった後に、これだ。と思って(笑)

それで、その先生のところに、すいませんって言って、私、徳島の四国の祖谷っていうところに行きたいんですけど、何かツテはありませんかって聞きに行って、それで、その人がもちろんあるよって言ってくれて、で、あるホテルを紹介してくれたんですよ。で、それが、 祖谷の山、 その集落からは離れてるんですけど、割と1番近いホテルで、そのホテルの方と連絡を取って、で、客室乗務員が使うような、ちっちゃい控え室みたいな部屋を自由に使っていいからって言われて、1か月滞在して調査をするっていうことをやらせてもらったんです。で、なんか、夜はホテルのバイト、配膳とか手伝って。で、1ヶ月ホテルに滞在しながら、現地調査をする。

で、そう。でも、なんか、私、車の免許持ってなくて、その集落から、言っても遠いんですよ、離れてるんですよ、ホテルから集落まで。 で、バスも、もう1日2本とかしか走ってないじゃないですか、そういう所って。で、どうしようと思って。で、ホテルの人に相談したら、 自転車ならあるって言われて。で、電動の電池のさ、自転車があるから、じゃあ、ちょっとそれ借りていいですか、って言って。でも、もう往きだけで片道1時間半ぐらいかかる、自転車でも。だから、充電切れちゃうから、替えの充電器を積んで、で、行きその走って、帰り入れ替えて帰ってくるみたいな感じのことを、そう、1ヶ月ぐらいやって、調査させてもらって、っていうようなことを大学ではしてました。

で、そういうことをやりながら、うーん、何がきっかけだったかちょっと忘れちゃったんですけど、なんかやっぱ、その地域活性に関わることをやりたいって思って大学のうちに。
なんか、 その時って、でも今みたいに、なんか学生団体とか、そういうのあんま盛んじゃなかった。もしかしたらあったかもしれないんですけど、学外とかに、 私の時代は、そういうのあんま盛んになくって、どうしようかなって思った時に、もう、じゃあ、学内にそういう任意団体を作るかっていう風に思って。で、ちょうどゼミの同級生の子が同じようにそういう地方に、地方創生とか地域活性に関心があったから2人ぐらい声かけて。したら、やろうやろうってなって、大学4年生になりたての頃に、そういうサークルを作る。

で、なんか、ほんと人数少ない10人ぐらいなんですけど、そういう活動を始めたんですね。で、その時に、どこに行くかとか、何するかとかも、なんも決まってなかったんですけど、なんか行けそうなとこ、行きたいとことか、メンバーで話し合って。で、1つはC村っていうところ。で、もう1つは静岡出身の子がいたから、静岡でなんかやりたいって言って、最初なんかちょっと遠いとこが上がってたんですけど、ちょっと行ける範囲内でD。の、二つが大きくは挙がって。で、とりあえず、なんか調べて、なんかやってないかなと思って調べて、

で、C村で、そこで出てきたのが、○○堂っていうゲストハウスで、それがちょうどオープンしましたぐらいの時だったんですけど、なんかここ面白そうって思って。で、それで、そのオーナーと連絡とって、その時、ちょうどイベントをやってたんですよ。その窯の、陶器を焼く窯の小屋を作るっていうイベントをやってて、じゃあそれにみんなで参加しようっていうので行ったんですね。

で、その○○堂っていうゲストハウスをリノベーションで大工として施工管理でやってた人が、この横須賀のチームで今一緒にやってるタッさん、その小屋のイベントの施工管理もタッさんが頭はってやってて、 で、その小屋を設計してたのが、ここの設計を一緒にやってるEくんって人。

で、私はその学生というか、なんかその、地方創生とか地域活性やりたいっていうメンバーで飛び込んで、そこで今いるメンバーとはそこで出会ったみたいな感じなんですけど、そんなようなことを大学の時は1年やって。
で、就職しようかなって思ってたんですけど、その時にインターンとかやってるじゃないですか、大学生の時って。で、インターンやってみようって思って、 なんか行ったところが○○っていう、研究機関というか、○○っていうところに行ったんですよ。いわゆるシンクタンクのところで、 その担当してくださった女性の方がめちゃくちゃいい人で、 色々親身に話聞いてくれたりとかして、で、なんか同じタイプの似た女性の人だったんですけど、

で、なんかその就職の話とかで色々話してたら、 なんかこういうシンクタンクとかも面白いかもねっていうふうに言われて。で、そうすると、そことかもそうだったんですけど、大学院に行かないと院卒しか取ってないみたいな言ってて、それと関係なくても大学院はすごく、なんか行ってみてもいいかもよ、みたいな感じで言われて、 全く考えてなかったけど、なるほど大学院かー、みたいなことを考え始めて。で、ちょうどそのC村に行き始めてたりとか、色んなそういう活動もしてたから、その1年間でこれが終わっちゃうのもったいないし、 なんかそのモラトリアムだけど、大学院行ってそういう活動もしながら、自分がもう少しなんか学びたいこととか、なんかちょっとそのフィールドに入っていくみたいなこととかも含めて調査しながら、最終的にそういうシンクタンクとかに入ってみたいなこともいいのかもって思い始めて。
で、なんか、その街づくりとか地域活性みたいな仕事ってそんなにないんですよね。あっても、ベンチャーとかで本当に地方に入ってやってるところか、 あるいはそういう本当にコンサル、シンクタンク系じゃなければ、もう不動産とかのおっきい会社で一部まちづくりのことやってますっていう感じなんだと思うんですけど、もう私は本当にもうドンズバでまちづくりやりたかったから、そのベンチャー行くか、もうちょっとシンクタンクとかコンサル系に行くかどっちかで悩んで、なんか一旦そういうシンクタンクとかコンサルとかそういうとこに行っておこうかなみたいな気持ちもあるから、じゃあ大学院行こうって決めたんですよ。


でも、お金なかったんで、うち。お金なかったんで、どうしよう、お母さんにまた怒られるかなと思ってどうしようって思ったんですけど、その奨学金を受けられるっていうことを聞いて、あ、 じゃあ、それを申請してみようって思って。
で、大学4年の時に、そういう地域で活動するための助成金、学内のやつも申請して、でプラス、大学院のいわゆる、JASSO、 いわゆる奨学金機構。元々借りてたんですけど、大学院の時も申請して、で、それ、特待というか、成績がいいと学費がタダになるみたいなやつだったので、それを申請して 最終的にタダにしてもらえたんですけどっていうので、もうそれでいきます。お母さんは説得するために、それで大丈夫、お金のことは大丈夫です、それで行きますって言って。
でも、お母さんも、あんたがそう言うならっていう感じで、そう、大学院に行ったんですね。大学院に行って、そうそうそう、大学院に行ったらね、大変だったんですよ(笑)
大学院って、学部と比べ物にならないぐらい、ちゃんと研究するから。なんか学部がね、緩かったっていうことなのかもしれないんですけど、もうなんか本当に、毎日超論文読んで、すごい、なんか、その、カリキュラムも結構毎年変わって、私たちの時って、すごい厳しくて、すごい授業が入ってたし、すごい授業が入ってるのに、すごい宿題出されて(笑)
で、観光って、さっき言ったように学際的な学問なので、もう先生によって全然違ったりするんですよね。で、やってこいっていう、なんかこう、扱うものとかも全然違うし、もうすごい、なんか研究って大変だなって思って、で、なんかその時は、その、Cとか行きながらって、なんかいろんな活動しながらって思ってたけど、もうそんな余裕がないぐらいな気持ち。


ただ、唯一、私は修論をC村で書こうって思ったんですね。で、それは、ちょっとその、記憶がまた曖昧になってきてるんですけど。徳島の祖谷で卒論を書いた時も、結局その地域にそういうものがどう影響してるのかなっていうことが気になって、そこに行って書いてたんです。 ただ、その結論言うと、その古民家って、来てるお客さん、宿泊に来てるお客さんが、もう秘境を楽しみたいっていう感じで来てるから、その地域の人との交わりってほぼないんですよ。ただ、地域の人たちに、 ちょっとその清掃アルバイトを頼んだりとか、そういう、なんかこう、お金の周りっていうのはもちろん生まれてたかもしれないけれども、地域の人たちに話を聞いたら、一方で、 これ自分がやらなかったら誰もやらないから、お掃除、自分がやろうって思ってやってるのよっていう話とかも聞いていて、なんだかなって思ったことがあって。

なんかそうじゃない、もっとその外の人、外から来る人と地元の人がなんかうまく交わってる場所とか、そういう現象ってどこかにあるんだろうかって思った時に、そのC村、○○堂が、まさにその、そこを作ったFさんっていう人なんですけど、Fさんがゲストハウスを作りたいんじゃなくて、コミュニティを作りたいって言って作った場所なんです。

だから、なんか、私もその1人だったと思うけど、 そこに来てる人たちが、なんかゲストハウスに泊まりに来てるんじゃなくて、村の人に会いに来てるみたいな感じで、ただいまみたいな、 おかえりみたいな感じの関係性があって。なんかこれはすごい現象として面白いから、私はここで書きたいなって思って、修論はそこで書いたんですね。っていうので。だからC村だけは通い続けたんですけど、もうそれ以外はもう、もう研究が大変すぎて、それどころじゃなくて。で、その時に、私は結局、最終的にはそういう街づくりの仕事がしたいってずっと思ってたし、わかりやすく言うと、プレーヤーというか、 仕事としてやっていきたい、研究者じゃなくて、その仕事としてやっていきたいってずっと思ってた人なんですけど、 文系で大学院に行くって、割ともう研究者になるっていうタイプの人が多くて、そもそも大学院に上がった人って、私入れて3人しかいなかった。あと、なんか留学生みたいな感じだったんですけど。っていう感じだから、もう、なんか考え方が結構違うんですよね。それを現象としてすごい客観的に捉えて、どっちかというと、その批判的にも見るしっていう感じ。研究すると。
なんですけど、もう私は本当はその、なんかそこでやってくプレイヤー的にやっていきたいっていうタイプだったから、なんか自分の研究スタンスがすごい難しいって思ってしまって。で、なんて言われたかちょっと忘れちゃったんですけど、授業中に、とにかく、なんか、なんで研究してるのかみたいなことがわからなくなって、泣き始めるていうのがあって。そう、それで、今思い返すと面白いんですけど、泣き始めるみたいなのがあって。

でも、その時に、いろんな選択肢があって、もう研究ちょっと辛いし研究やめて、やっぱりその実践でやってくみたいな選択肢もあったし、なんか、うまく両立してやることももちろんできるし、でも、最終的に私はその実践者としてやっていきたいから、なんか今、その研究に前のめりに打ち込むことって、 なんかどうなんだろうとも思ったんですけど、その時は、その、今目の前にある研究を、自分は一生懸命やらなければいけないっていう気持ちになって。で、それは、うん、なんか、うまく言えないんですけど (笑)

とにかく最初に言ったように、私、考えることが結構好きな人間だったので、なんか研究で考えてること自体は面白いなって思ってたっていうのが1つと、あと、観光ってすごい学際的な学問って、さっき言った通り、いろんな分野の教授がいろんな立場から、それぞれの立場からいろんなこと言うので、なんか自分がこれをやろうって思ってた、その研究テーマとしてこういう風に考えてますっていうことに対して、こっちの先生はこう言うし、 こっちの先生は全然違うこういう風なこと言うしっていうので、なんかすごい、自分の中での、なんかその当たり前、常識みたいなものがすごい崩されるというか、なんかその、当たり前ってないんだなって、当たり前って思っちゃいけないんだなっていうことを思った時に、なんか、まちづくりとしてやりたかった本質みたいなことと、ある種近いというか、なんか多分、観光開発もよかれと思ってやってる人たちがいて、でも地域の人たちにとっては、なんかそれはそうじゃないというか、で、本質的に、じゃあ何をすべきだったんだろうみたいなことを考えることが、そのまちづくりにおいては大事だし、正解ってない。他がやった事例がこうだったからここでもこうみたいなこともないから、常にその本質を考えなきゃいけないという意味で、その姿勢って研究とすごくに似てるというか、 逆で、研究をしてたからその姿勢を今貫こうって思えてるのかもしれないんですけど、とにかくその大学院の時は、なんかそれがすごく自分にとって大事なことのように思えて、とにかく一旦研究をしようっていう気持ちになって、○○堂にはその調査で行ってたんですけど、なんか他の活動みたいなことはもう一旦やめて、とにかく研究をするぞっていう気持ちで2年間やったんですね。

で、結果的に私は本当にそれが良かったって思っていて、それはさっき言った通りで、この姿勢、そこで培った姿勢は、今私が仕事をする上でとか、横須賀のこれもそうなんですけど。なんかその姿勢ってすごく大事だなって思っているから、多分2年間がなかったらもっと違う自分だったと思うし、こういう姿勢で今仕事ができてないなって思うくらいには良かったなって思っていると。

で、大学、そうですね、大学院を卒業、修了する本当手前で、実はお父さん亡くなってて、で、もう普通に病気で、もう、本当に癌だったんですけど、わかってから3ヶ月ぐらいで、亡くなっちゃったんで、もう、すごい早かったんですけど。

それもあってってわけじゃないけど、それはもう、本当卒業する手前だったから就職先が決まっていて。で、就職先は、都市計画コンサルに最初入ったんですね。で、都市計画コンサルに入って、そう、入るっていうのは決まってて、入ったんですよ。
で、2年ぐらい働いてたんですけど、その時の仕事がマンションの建て替えとかの法手続きをやるっていう仕事で。建て替えって、その、今ある建物より大きくしないと建て替えられないっていうもう仕組みになっちゃってるんですよね。

それが私は自分が本来やろうとしてた、やりたかったこととすごい反するなって。 人口減少でどんどん人も減ってくのに、 なんでその建物だけ大きく建てていかなきゃいけないんだろうっていうこととかも、そもそもなんか地方のことやりたいって思ってたことからすると、もう全然違うことやってる。でも社会課題なので、それはそれですごく大事な仕事なんですけど、でも自分がやりたかったことには反するなって思って。で、そのお父さんが亡くなってるっていうのも、なんか自分が、自分のわがままじゃないけど、行きたいんでっていうので大学院に2年間行かせてもらって、なんか何も、そう、なんか親孝行できなかったっていうのもあり、その、自分が反する、自分の意に反する仕事をするのっていうのは、なんかその、親にも失礼だなっていう気持ちがあって。 
あと、すごい頑固なんで私(笑)そう、すごい頑固なんで、それで、その会社の代表、代表っていうか常務か。一緒に仕事してた人に、ちょっとやりたいことと違うんで辞めますって言って、引き止めてくれたりとか色々したんですけど、あと、自分の本当にやりたいこととか、地方でとか、そういう、なんか拠点を持ってやるみたいなこととかも、やっぱなんか将来的にやりたいこととしてはあったので、 多分、今、その、私がコンサル1社目に入ったところだと、なんかそういうことはできなさそうだなっていうのを、2年間で感じたこともあって、それで、今の会社に、前の会社2年働いて、今の会社に転職したっていう感じです。


で、大丈夫ですか。こんなだらだらしてて(笑)
そう。で、今の会社に入って、で、今の会社では、結構、プランニング、 行政から委託を受けてビジョン作ったりとか、行政が持ってる資産とかの、利活用を考えるみたいな仕事とか、あと、その民間の開発のテーマ、コンセプトを考えるとか、すごい幅広く、割とソフトのことをやってる会社なんですけど、本当になんか面白く、色々仕事をさせてもらって。
で、そうそう、そうそうそうだ、なんか時間大丈夫。大丈夫か(笑)

そう、それで今の会社に入って1つ目の、1番最初にやった仕事が、G区の公園を新しくしてたんですね。で、その公園を新しくしたんだけども、新しくしただけだと何にもならないから、なんかそこを行政としてもうまく活用したいというか、みんながちゃんと使ってもらえるような公園にしたいっていうので委託があって、その公園の利活用を考えるっていう委託だったんですけど、その時に、その公園っていわゆるその公共空間じゃないですか。だから公共性っていうものを考えなきゃいけないなっていうことを思って。


で、そもそも公共性ってなんだっけみたいなところから、これはだから本当に私が大学院の時とかに、やっぱそもそもとか本質的に考えるみたいなことが癖付いてるからだと思うんですけど、その公共性ってことをまず自分の中で、全然その仕事としては役に立たないかもしれないけど、考えるとこから始めようって思って。

本読んだんですよ。『今こそアーレントを読み直す』っていう本を読んだんですけど。で、なるほどね、なんかこう、アゴラじゃないけど、 そう議論するとか、なんかそういう広場ってそういう役割か。みたいなこととかを色々自分の中で思いながら。
で、その時にちょうど一緒に仕事をしてたG区の職員の人が、その人鉄道会社から出向してきてた人なんで、そもそもは民間の人なんですけど、その人が結構面白い人で、いろんな本読んでああだこうだ言ってる人だったんですよ。割と年齢も10離れてないぐらいかな。

で、その人と結構色々話してて、で、実はこんな本読んでとか、向こうも自分こんな本読んでて、みたいな。じゃあ、ちょっとなんか借りてもいいですか。みたいな、貸し借りみたいな感じで読んで、次あった時に、いや、この間の本、あれすごいですねみたいなことで、なんか議論が始まったんですよ。その公園をどうしようかって考える上での、その本っていうのが、なんか1つツールになって、すごいこう議論が深まるみたいな経験があって。
で、その時に、これってなんかすごい公共性だし、なんかこれってすごいこの世の中(にとって)大事ですねみたいな感じになったんですよ。そしたら、その区の職員の人が、ちょっとこういう活動やりませんか。みたいなこと言い始めて。えっ、て。私はえっ、て思ったんだけど(笑)
とにかくその人が言うには、本ってそういういろんな力があるし、なんかそういう本屋じゃないけど、そういうのやりませんか。みたいな感じで言ってきて、でもなんか、本屋?みたいな。

で、しかも、なんか本はもう売らないで。売らないことによって公共性が。みたいな(笑)こととかも言い始めて、それでえっ?とか思ったんですけど、でも確かに面白いなって、ちょっとはしょりますけど、色々その話してて。
で、なんかそういう場を自分も作りたいなと思って始めたのが、「問い直す書店」っていうものの始まりなんですね。で、「問い直す書店」は、私がそれこそ大学院の時とかに、そういういろんな分野の先生がいて、当たり前ってのがこう揺さぶられるみたいなことがベースにあって、コンセプトって「当たり前ってなんだろう。」が問い直す書店のコンセプトなんですけど、 そういう当たり前と自分が思ってるかもしれないけど実はそうじゃないかもとか、そういうことを本質的にとらまえるみたいなことを大事にしたいし、本がある種、そのツールとして、その自分以外の世界を見せてくれるというか。
で、かつ、そこに他者が加わることによって、また違う世界が見えてくるみたいなのを、なんか可視化するような活動をしたくて

で、その本当に場所場所に合わせて展示をするっていう形式なんですけど、その場所のテーマに合わせて、例えばホステル、ゲストハウスというか、ホステルで展示をさせてもらった時は、「住まうことを問い直す」っていうテーマで、ちょうどコロナ禍だったので、ホステルで長期でこう住むみたいなプランがやってた時期なんですけど、なんか、その、 宿泊するはずのホテルが、住居になってるみたいなこととかも踏まえて、そういう住まうっていうことを問い直すみたいなテーマにして。 で、そのテーマに対する問いを作って、で、選書もそのテーマに合わせてして、で、その問いに対して、こう来てくれた人みんなに書いてもらって貼ってくみたいな。そうすると、もう、自分がその問いについても考えるし、 もちろん、なんか本を介して、なんか新しい視座が見えて、そこまで読み込む人はいないかもしれないけど、見えてきたり、あるいは、その他者と対話をしたり。で、その問いに対して考えを書いていくことで、自分と違うこういう考えもあるんだみたいなことが、そこで体験できるみたいなことを、転々といろんなとこでやってたっていう感じなんですね。

で、その、やっと神保町に来るんですけど、その展示の1つを神保町でやらせてもらったんですよ。その無用之用っていう本屋さんでやらせてもらったんですよ。で、それも、 私たちがちょうど、その問い直す書店みたいなことを始めた段階で、無用之用さんがオープンしたんだよな、多分な。で、なんか結構、界隈でも、こんな面白い本屋さんが神保町にできたらしい、みたいなことが噂で回ってきて。 で、結構似てるなって思ったんですよ。問い直す書店とHって、その、すぐに役に立つことって、すぐ役に立たなくなるとか、無用之用ってことわざ、合ってるよね(笑)
だから、すごく問い直す書店の考え方と似てるなって。で、本棚も、その棚に問いみたいなのが、こう、タイトルがあって、それに対しての本が、 もうジャンルとか関係なく並べられてる、選書されてる。それはなんか、もちろん店主さんの選書でもあったりするけど、そうじゃなくて、お客さんの選書だったりもして。で、私たちも、当たり前ってなんだろうっていうテーマで選書して、置かせてもらったりとか、置かせてもらう棚を作ってもらうっていうことをしてもらったりとかしてたんですけど、とにかく、すごくその考え方に共感するところがあったので、最初、すごく素敵だなと思って行き始めて。
それで、最初はなんか普通に、だから、お客さん的に行ってたんですけど、なんかの経緯でイベントをやろうっていう話になって、色々イベントもやられてるので、なって。

で、その時は、テーマが、他でもう1人、 私たち問い直す書店と、もう1人個人の理念を作ってる人がいて、その人との共同でのイベントだったんですけど、 その個人、自分の理念をテーマに無用之用さんでやらせてもらって。
だから、その自分にとっての大切な一冊がなんなのかっていうことをいろんな人に書いてもらったりとか、 あと、その何人かの人にプロフィールとともに一冊選書してもらって、それを展示させてもらったりとかして。 で、そこにだから、お客さんがなんかそのシンパシーを感じる人の本を手に取ったりとか、自分にとっての一冊ってなんだっけなみたいなことを、なんかこう考えたりとか、みたいなことを、ちょっとやらせてもらったっていう感じですね。

え、なんか、どうしよう。あと何話せばいい(笑)

__あと神保町の例の、調査団みたいな。

 調査団ね、調査団ってさ、なんであれさ、始まったんだっけ。

__なんででしたっけね、

 なんか、でも、それで、そういうイベントをやってたんで、ちょいちょい、その、無用之用さんに出たんですよ。それで、 だから、私が多分、そもそもそういう人文科学系の大学院とか出てるので、その時になんか色々読んだりとか、調査とかしたりしてたので、で、そういうのに、たまこ(注:神保町の生活史メンバー多賀の渾名)もそうだし、その、無用之用のHちゃんも、そういうのがすごい好きな人たちが集まってて、それでなんか久しぶりに調査とかやりたいですねみたいな、そういう話になったんですよ。多分、なんかそういう人が割とね、あの辺に集まってるなっていうのは、私わかんないけど感じたかもしれない。なんかそういうことを面白がってる人、面白がる人がすごい多くて、 だからなんか私もそういうことやりたいってなって始めたのが、神保町調査団と題して、その時は2つやったよね。なんか神保町の、あなたが思う神保町の範囲ってどこですか。範囲ね。

どこですか。っていうのを地図渡して、色塗ってもらうみたいな、 線引いてもらう。神保町は、こっからここのエリアみたいなのを全部可視化して1枚ずつそれを展示していくっていうのと、神保町作文で、その「じんぼうちょう」でこう、作文していくっていうのを、その2つだよね、その2つ、そうやったんですよ。

めちゃくちゃ面白かったよね、あれね。なんかまたやりたいなって、そう思うぐらいには、なんかやっぱほんと、十人十色で、しかもその地図を重ねていくと、なんかちょっとレイヤーがこう見えて、そうそうそう、だから、あ、ここは大体みんな神保町って思ってるんだねみたいなところとかが濃く現れるというか、みたいなこととかも分かったし。 あとね、その神保町作文をみんな面白がって書くんですよ。なんかああいうのって、人によってはちょっとなんか恥ずかしいみたいな、 あるじゃないですか。で、それは神保町のね、多分なんか人なんだろうなって思うんですけど、ああいうの好きな人が多いと思う。

すごい、すごい量集まって、多分なんか私たちも想像する以上の人たちが面白がってやってくれてて、あれってなんかお店にも置いたりしたんだっけ。
あれ、他の店舗にもやんなかったんだっけ。それはやんなかった。だから、無用之用さんに来てくれた人が書いてるって感じだったんですけど。でも、なんか本当にね、すごいいろんな人がそれを面白がってやってくれたので、なんか、そういうのが私とかも好きだったし、そこに集まってる人がみんな結構そういうのが好きで。多分なんか、その他にも企画の案がいくつかあって、神保町のnかmか問題。そうそうそう。それを、なんかどういう表記をしてるかを、あそこはm、ここはnとか調査するとか。あと、なんだ、神保町の模様を切り取るとか、なんかね。

__橋がたくさんあるけど、その箸置きを作ろうみたいな

 そう。みたいなことをやってる人が、やりたいねっていう話とかが、いろんな企画案が上がるぐらいには、なんかそういうの好きな人たちが集まって、で、まず、なんか地図と神保町作文をやろうって言ってやったのが去年、一昨年か。っていう感じ。

__全然全然、私が何も、なんだろ、言えてなくて。言えてなくてじゃないわ(笑)参加できなくなり。

 いや、でも、私も全然、なんかそれ、本当ね、結構Hちゃんに任せていっちゃったから、なんかね、面白かったよね、あれやりたいよね。っていうような。はい、感じで。
えっ、なに。あとなんか、あとなんか言った方がいいですか(笑)

__今の話は一昨年?

 一昨年。

__今、2024年なので。そこ(一昨年)から2024年はどんな感じでしたか?

 そうですね、そうですね。そう。で、なんかやっぱ結構、神保町には本当無用之用に行ってるみたいなところがあったので。で、(無用之用が)移転したんですよね。移転するからクローズして。で、そこから、だからやっぱしばらく行かなくて。 で、神保町、オフィス神田なんですけど、 テレワークなので、基本。だから全然会社にも行かなくて。で、やっぱコロナの時期があって、余計にもう全然行かなくなっちゃって。 それで、その間に横須賀、この。で、横須賀は元々、その、さっき○○堂で出会ったっていう、そのタッさんって大工ができる人が、 7年前ぐらいとかにシェアハウスをここで作り始めて、で、その後にtokotonベースってちょっと行ったかな、っていうところを作り始めるんです。それがコロナ前。
で、そのtokotonベースを作り始めるときに、タッさんがシェアハウスを自分でDIYしてみたんだけど、やっぱ作れても設計は自分ではできないから、 すごいなんかちぐはぐなものになっちゃうから、設計に入ってほしいっていうのをE、そのC村でやってたEに声をかけて、Eはやるなら設計だけじゃなくて、やっぱその面でまちづくり的にやりたいからって言って、ソフトの部分で一緒に入ってほしいって私に声をかけてくれて。で、tokotonベースのリノベーションから加わって、もうずっと週末、結構、リノベをみんなでしてたのが、コロナ前だから、結構前だね。5年。4、5年(前から)なんですよ。

で、tokotonベースが大体なんかもう完成したねっていうぐらいの時から、コロナになって、で、なんか開いていこうって思ってたけど、コロナで何もできない期間で、リノベの途中からかな、もしかしたら、とにかく何もできなくて。で、その間にもう1軒ここが、なんか、やっぱ、皆さんもうずっと昔から住んでる方ばっかりなんですけど、高齢になって施設に入られたりとか、亡くなってしまったりっていうので、 空き家になっちゃうんですよね。で、そうすると、若くて新しいことやってるようなタッさんみたいな人に、この辺の割と広く物件を持ってる大家さんが空いちゃったんだけど何かあなたなら信頼できるからって言って、声かけてくれるんですよね。で、ここも、その空いた時に買わないか。ってタッさんに声がかかって、

で、もう直近まで住んでたので、全然普通に住めるぐらいの家だったんですけど、金額もそんなに、他のね、都心とかと比べたら全然安い金額だし、そもそも壊すだけですごいお金がかかるので、それだったら買ってほしいっていう感じで。タッさんも、じゃあ買おうかってなって、みんなで相談して買おうかってなって買ったんですよ、ここの物件を。

で、しばらくは賃貸に出して普通に住んでたんですけど、人が。その住んでた人も結局出てっちゃってってなった時に、 私がさっき言ったその問い直す書店の活動を1年、2年ぐらいやってたのかなっていうタイミングで、なんかその場所を持ちたいなというか。元々、C村、○○堂とかもそういう地域の拠点みたいなところだったし、将来的に就職するときも、いきなり自分が拠点持っても、そこで何ができるとか、その先何ができるかってわかんないなって思った時に、広くいろんな仕事をしてから最終的に拠点を持つみたいな方がいいな、って元々思ってたっていうのもあるので、なんか、そのタイミングが巡ってきたというか、ちょうどいいなって思って、

で、じゃあ私が使いたいって言って、それで、こういう使い方で、こういう感じのリノベをしたいっていうのを、なんかこう、わーっとプランを書いて、で、Eに設計を頼んで、全然、もっとよく設計をしてくれて。で、みんなでリノベをして、オープンしたのが去年の5月なんですよね。ここが。っていう感じ。

で、だから、その問室は、その、問い直す書店の活動の延長にあるというか、 延長にあるし、かつ、その、横須賀のこの街づくりの中にあるものなので、なんか、そのレイヤーがこう被さったところに、この場所を作ったっていう感じですかね。

うん、それで、お疲れ様です。(地元のアーティストの方がいらっしゃる)

そう、それで。元々、その問い直す書店をやってたので、その問い直す書店が、 結構その展示するスタイルだったから、その展示ができるように作ってほしいっていうので、ここが照明の点く展示台になったりとかしてるんですけど、ていうので、あと、なんか、そのイベントとかできるように広い空間を作りたいっていう感じで、結構、そういうリノベしてもらったりとか、 設計プランを作ってもらったりとかして、で、だからその、作ってる段階から、なんかこういう展示やりたいなとか、なんかこういう人と一緒にやれたらいいなとか思っていて。

で、そのうちの1人がIさん(先ほどいらっしゃった方)でもあるんですけど。そう(笑)
で、無用之用(神保町の古本屋)さんで、そのIさんも展示をやってるのずっと知ってて、で、すごい素敵だなって思っていたし、そのコンセプトとか、その本を題材にしてるっていうのも、もちろんそうなんですけど、問室ができたら、なんか一緒にできたらいいなっていうの、ずっと思っていて。

で、そのちょうど問室がオープンしたぐらいに、どこかでなんかIさんに声かけに行きたいなって思ってたら、 無用之用さんの、移転した時のオープニングだったのかな。そう、移転した時のオープニング。私は行けなかったんですけど、たまこ(多賀=神保町の生活史メンバーの渾名)とEが行ってて、そこにIさんもいて。
で、たまことEが横須賀でこんなのを作ってるんですと問室を、最近なんかオープンして、なんかIさん、一緒にやりませんかみたいなことを私より先に声かけてて(笑)

そうそう(笑)で、Eから、なんかIさんって知ってる?みたいな
知ってるっていうか、なんか一緒にやりたいなって思ってたみたいな。
なんか一緒にできるかも。みたいなやり取りが、もうすぐそこに、そこで、行われて。なんか本当にね、Iさんとの、なんか縁をね、繋いでくれたのも、無用之用さん(神保町の古本屋)なんですけど、っていうので、今、そう、最初はね、これ(フライヤーを指しながら)に戻ると。今度、8月から、そう、まだね、これ、仮刷りなんですけど
そうそう、8月から、Iさんの展示が始まるんですけど、Iさんがずっと展示だけじゃなくて、せっかくだからこう時間をかけてリサーチしながらやりたいっていうふうに言ってくれたので。
で、私たちもやっぱその街づくりとして色々やってる中で、地域のリサーチをやりたいって思いはずっとあって、それがなかなかできてなかったんですけど、 なんかうまくマッチして、じゃ、一緒にそのフィールドをちょっと歩きながら、それを今3回やって、もう1回目を、最後の1回を8月にやるんですけど、そのフィールドを歩くっていうのをみんなでやって、それを踏まえての制作、公開制作っていうのがIさんの今回の展示になるんですけど、そんなご縁で今ここに、はい、来ていると(笑)

はい、という感じです。大丈夫かな(笑)ていう感じです。

__面白かったです。

なんかずっとしゃべってたから大丈夫ですか。ほんとに。

__その方がありがたいですけど(笑)

めっちゃしゃべるやん、みたいな感じ(笑)

2024.07.15 月 午後 4:24
聞き手  :足立大育、多賀麻里子
書き起こし:足立大育
語り手  :藤原香奈


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