読書しにきたんだからさ
目覚めると午前10時半だった。うわ、よりによってなんでブランチの時間なんだ。アラームをかけ損ねた鏡の中の自分にちょっとだけメンチを切る。そんなことしてもどうしようもないから顔を洗ってタオルに包まれている。
しまった、今日は「ここで唐揚げ弁当を食べないでください」の発売日だ。ご飯も食べずに身支度をし、仮面ライダーのように身軽に自転車へ乗り込んだ。ハードル走みたいに後ろ足が引っかかり、小指がほんのりジンジンしてしんどかった。
なかった。確かに今日が発売日である。愛媛が首都圏より本が届くのが遅いのか、はたまた1時間そこらで売り切れたのか。がっかりしたけど、このまま帰るわけにもいかない。気づけば同じ著者の「これが生活なのかしらん」を購入していた。順番は違えど読みたかった本ではあるので、それはそれでよかったのかもしらん。
帰りにコンビニでおにぎりを買った。家で読むぞと思っていたけど、どうも「家で読むぞ」という気になれなかった。数日前に研修先の班が一緒だった女の子に教えてもらった下灘と双海がパッと頭に浮かんだ。外出しよう。気づけば駅へ向かう電車に乗り込んでいた。
初めて行った駅のホームで外国の方に話しかけられたけど、時間がなかったので駅員さんにバトンタッチした。あまりにもスムーズすぎて体育祭のリレーみたいだった。この街は本当にのどかで、時計の秒針もだるそうに動いている。のんびりしている心地よい電車の揺れが、読書欲をさらに刺激してくれた。
面白すぎる。日常の羽毛のような部分にも気がつき言葉にできる小原晩さんは素敵だ。ゆっくり湯船に浸かっているような気にもなるし、いきなりスカイダイビングをさせられているような気にもなった。ふわんふわんと流れていくような日常にだって、どうしたってその人の色がそこらかしこに染まっていくものなのかもしれない。
電車は一人また一人と追い出していき、目的地の下灘駅で追い出された。まだ読んでる途中だったのにと思ってムカついたけど、降り立ったこの場所はあまりにも綺麗だった。
空が薄くて海が淡い。青以外の色が光として透けているような不思議な感覚だった。ああ来てよかった、なんて思ってたけどあまりにも人が多すぎた。静かに読書したくて家から逃げてきたのに、そこらかしこに人がおるもんだから。アイスコーヒーもちょいと溢してしまった。近くの道の駅双海へ行こうとすぐに決心できた。
近くといっても片道6キロ。しんどいかもと思ったけど、毎日10キロ走ってたことを考えれば楽な気もしてきた。人間は数字の大小よりも、実体験の有無のほうが重要なのかもしれない。
車やバイクが行き交う中で、自分しかいない歩道を歩いている。海鳥が水面ギリギリを飛んでいてかもめのジョナサンみたいだなって思ったり、みかん畑からの甘酸っぱい香りと潮風の匂いが交互に鼻を通過してきてもうそれだけで十分だった。あと何キロという数字を見たくなかったから携帯を一度も見ずに歩いていた。全てが綺麗だったけど、あまりにもでかい蜘蛛があちらこちらにいて少しだけ疲れた。
平日のせいか、道の駅は人が少なかった。ソフトクリームとアップルジュースを購入し、海が見えるベンチに座って読書をしていた。どの話も面白くてどんどんページが進んでいった。けど視界の端に映るカップルが波打ち際で濡れないようにはしゃいでいたり、屈んで頭ポンポンしてるのが見えてしんどくなった。読書のために一人で来たとはいえ、海の反射もあってかあまりにも眩しすぎた。いっつもキラキラしている。あなたたちのおかげで世界はちょっとだけ光を帯びているように感じるからありがとねって言いたくなった。
また電車へ乗るために1時間かけて歩いてきた道を戻る。どうせ誰もいないのなら歌っちゃえと思って好きな曲を片っ端から歌っていた。なんか上白石萌歌のCMってこんな感じだったなって思ったし、開放感があってよかった。と同時に、あんなにせまいカラオケボックスで歌ってるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。なんで採点にこだわってたんだろう。点数よりも大事なものってあったりするよなって思わされた。
下灘駅から見える夕焼けが一番綺麗と書かれていたけど、別に見なくていいやと思っていたからゆっくり歩いていた。でも特別感というものは恐ろしいものでもあるなと思った。もう2度とここには来ないかもしれないと思った瞬間に無性に夕日を見たくなった。絶対汗かくから嫌だなと思っていたけど、気づけば夕日に間に合うように走り出していた。なんか青春ってこんな感じなのかもと思って悔しくなった。
ギリギリ間にあい夕日を見ることができた。山と海の境目に夕日が喰われるように沈んでいくから、この辺りは日喰と呼ばれているらしい。意味がある地名って素敵だよねって思う。言葉ほど伝わるものはないんじゃないかな。
すっかり暗くなった外と電車の中の明るさに違和感を感じている。世界っていっつもこうだよなと思いながら自転車を止めた駅に着いた。自転車は夜風に晒されて冷たかったけど、これが自分らしいなとも思ったり。ワイワイというよりは一人でふらっと風を感じているほうが幸せだったりもして。今日は何も作りたくなかったから、スーパーでサラダとお惣菜を買って帰った。
「あんたは見ていて面白いし友達としては最高なんだけど、自分の彼氏って枠に当てはめると途端に大変そうだなって思うよ」と言われた。いっつもイメージの額縁に飾られてるのにまた額縁かよと思ったけど、他人からはこう思われてるんだろうなって諦めもついてきた。
何もかも勝手にさせてよと思う。友達と恋人という関係に上下はないし、特別感もありゃしない。どこいったって自分とあなたの関係でしかなくて、関係性に名前をつけてしまうからその額縁が檻のように思えてしんどくなっちゃうんだろうなって思った。
綺麗なものを見慣れていないからこそ、より綺麗だったのかなって思ったりする。もう一度会いたいなと思った「あの人」は本当は「あの人」ではなくて、「あの時のあの人」だったということに気付いた時にだけ聞こえる音があったりする。どう生きたって今を更新し続けていくだけだから、その時に動いてみないとわからなかったりする。だから日々勉強だし、失敗を重ねていくからこそ自分という人間が輝きだすのかもしれない。
ただ家で読むんじゃなくて、絶景の中で読んだという思い出込みで幸せだったりするんだから。もういいから。勝手に幸せでいさせてくれよ。あんたも勝手に幸せでいなよ。意外と楽しかったりするんだからさ。