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【短編】カマキリ・ブローチ(3)

 10月の半ばの夜に優司が水絵の部屋にやってきた。
「ちょっと話があるんだ。水絵のお母さんから電話があって、仕事でしばらくアメリカに行くそうだ。ニューヨークだ。それで立つ前にきみに会いたいというので、承知しておいた。いいね。今週の土曜日だ。駅前の喫茶店に2時だ。お父さんがつれていくけど、ふたりでゆっくり話すといい」
 水絵が返事をする前に優司は出ていった。
 土曜日、水絵はベージュのコットンパンツに紺のスウェットセーターで部屋から出てきた。優司はそれを見て、眉をひそめた。
「ちょっとスポーティすぎないか。スカートとか」
「スカートはイヤだ」
 水絵は優司が髪を結えないので、いつもショートカットだった。中学になったら髪を伸ばそうと水絵はひそかに決めていたが、優司は外では、うちのセシールがとかジーン・セバーグがとか言って、娘のショートカットを気に入っていた。
 喫茶店に着くと、すでに母の朝子はきていた。ふたりがくるとすっと立ち上がった。モカブラウンのセーターにグレーのスカートだった。
「じゃあ、1時間くらいしたら迎えにくるから」と優司が言うと、朝子は「1時間はあまりに短いわ、2時間にして」と言った。母の声は低くてハスキーだった。
「では2時間後に」
 優司はそそくさと出ていった。
「水ちゃん、大きくなったわね。街ですれ違ってもわからないわね」
 朝子の質問に水絵は「はい」とか「いいえ」とかこたえるのがやっとだった。
「ニューヨークに行くことにしたの。前の会社の上司の紹介でニューヨークの出版社で翻訳の仕事をね。日本語から英語に翻訳する仕事なの。しばらく帰らないと思うわ。水ちゃん、写真なんて持ってきてないわよね。あなたの最近の写真がほしいんだけど」
 水絵はあっと小さく言うと、持ってきたバッグから手帳を取り出し、はさんでいた写真を見せた。直清が撮ってくれたあのカマキリと水絵の写真だった。朝子はかすかに笑って
「すてきな写真だわ。もらっていいの?」
 水絵はうなづいた。
「ネガがあるから」
「あら、これは何?」
 朝子が水絵の胸ポケットに止まっているカマキリを指さした。水絵はカマキリのことを話した。そのときはなぜか素直にすらすらと話せた。朝子はうれしそうに水絵の話に聞き入った。
「朝、起きて探したけどどこにもいなかった。お父さんも岬くんも探してくれたけど」
「そうなの。つらかったわね」
「今でもベランダに出ると、つい探しちゃうの」
「そう、でもこの写真のようにカマキリはあなたの胸のポケットにずっといるわよ」
「お父さんも同じことを言ってた」
 それからはつかえがとれたように、ふたりの口はなめらかになり、水絵は学校のことや友だちのことなどを話した。
 優司が店の入り口に姿を見せた。朝子ははじかれたように立ち上がった。
「手紙を出すわね。お返事くれる?」
 水絵はうなづいた。
「ニューヨークからクリスマスプレゼントを送るわ」
 水絵も立ち上がり、自分でも驚いたがふいに右手を差し出した。朝子は水絵の手をしっかりと握りしめた。ドアの前で優司と二言三言話すと、去りぎわに水絵を振り返って見た。その目には大つぶの涙があふれ、振り切るように朝子は走って立ち去った。
 それからニューヨークの朝子から手紙が届くようになり、文通が続いた。水絵は6年生になり、背も伸びて髪の毛もショートカットから少しずつ伸びて、優司をガッカリさせた。「ジーン・セバーグからアンナ・カリーナになっちゃったよ」と周囲にぼやいた。ときどきは直清がやってきて、ふたりで勉強をしたり、ゲームをやったり、庭でバドミントンをしたりして遊んだ。
 卒業祝いに来年の3月には、ニューヨークにこないか、という朝子の手紙が届き、水絵を喜ばせた。そうやって朝子と水絵は4年間の空白を少しずつ埋めていった。
(つづく)

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