伴田良輔監督『passacaglia 道』
人が当たり前のように見ている世界から、人の眼を外してしまったらどうなるか。草木や鳥や帽子や幾何学図形たちは人の眼に見られることをやめてはじめて、別のところにある生を、本来の生を生きはじめるだろう。それはときに、各々の生であると同時にすべてのものの生でもあり、そしてすべてのものの死でもある。生と死が、存在と不在が睦み合い、重なりたわむれながら、ついには同じものとなってしまう。
見る者もまた、映画の冒頭からすでに、それと気がつかず変容してしまっている。闇のなかで決壊しつつある壁の隙間から差し込む光のように、囁きかけてくる声たち。天も地もなく、あわいだけが永遠に続くような水中への潜行……。
草木のなかで歩行する最上さんの身体は途方もなくうつろだ。不在が歩いている。やがて、歩いている、だけが残される。誰が歩いているのか? 現実はだんだんと関節を外しはじめる。写っているのは間違いなく最上さんの歩行と呼ぶべきものであるはずが、本当には何が写っているのか、もうわからなくなっている。わからなくなっているのは誰なのか。私と私の間にも、もはやうつろがあるばかりだ。さっきまで私だったものは今や、映画館にぽっかり空いたうつわになってしまった。
お茶会では、帽子屋が数と幾何学の秘密を明かしてくれる。不在の蛇、正方形を割ることで立ち上がる幾何学の謎。それはたちまち魔術となり、映画のなかのすべてのものに、映画を見る私にさえ取り憑いてしまう。すべてのものは幾何学の法則の支配下にあるのではないか? 幾何学が椅子を着ている。幾何学が蝶を、蜥蜴を、鳥を、草を、光を、影を、かつて私と呼ばれたものを着ている。比喩を知らない数の魔は、それだけ切実さをもって認識にぴったりと貼りついてくる。
同時に、映画全体をゆっくりと流れているのは水の気配だ。光で満ちた空気と水は互いに透明な揺らぎのうちにあり、どこか決定的なずれを含んだパラレルの世界をうつしだす。空気の世界で死に、水中へ墜落した虫は、水の世界でふたたび浮遊する。とすれば空気のなかを泳いでいる虫は、水の世界から空気中へ墜落した虫なのかもしれない。
バレリーナが水中で踊る。渦の中で重なり合うその姿は、デュシャンの《階段を降りる裸体》を思わせる。きっと生命とは、宇宙から見ればこんな幾何学的ブレの一瞬にすぎないのだろう。バレリーナはいつのまにかアンデルセンの切り絵モビールに変身して、アラベスクのまま幾何学的回転を繰り返す。切り絵のくっきりとした輪郭は光を受けて、トウシューズの爪先から幾重にもほどけた影を伸ばす。影は絶え間なく揺らぎながら、水の気配を立ち昇らせる。水は空気の影なのだろうか? 水は死んだ空気なのだろうか? 空気は死んだ水なのだろうか? 問いは次第にアリスの世界めいて彷徨いはじめる。ところがそのとき、バレリーナの切り絵は呆気なくぱたりと倒れ、影と重なる……。
passacagliaとは、反復される低音と変奏を繰り返す上音の構造から成る、踊りのための音楽なのだという。寄せて返し絶えず流れ続けるものが底にあり、その上を、生命の踊りが幾重にも変奏しながら渡って行く。映画を見る者は、裁くための眼を忘れて、ただ無心に踊りに加わる。そんな音楽的構造が、豊かな哲学を抱いて、映画のかたちを結実させていることに驚異するばかりだ。
人がいつの日かはぐれてしまった〈存在そのもの〉がたちこめてくる。映画が終わるとき、はぐれてしまった私はいつしか半分しかない身を果てしなく開かれて、世界のもう半分をひたすらに待っている。
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