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彼女たち

絵を描いているとき、トンネルになってあっちの人たちをこっちに通してきている感じがするけれど、もしかして人間の死も同じなのではないか?

私は彼女たちをうまく通してやれないといつも落込む。トンネルになるべく障害物を置かないようにし、長い滑り台を滑るようにして彼女たちが紙の上にすとんと落着けるように気を配る。

彼女たちは私とは関係ない。ただ彼女たちは、私の頭の周波数が彼女たちの世界と近いので、移動するのに使いやすいと考えて、私の頭と手を経由することに決めたのだという。彼女たちは私よりもずっと強くて偉くて、植物と生物、生物と無生物のあいだにあり、全員だいたい同じ垂れ目と高い鼻と小さな唇をしていて(顔がない時もあり)、情念のようななまぐさいものがまったくない。かわいい襟のついたフリフリのドレスを身につけて、あるいは衣服など着ていなくて、宇宙のことなどもうぜんぶ知っている。
私がヴォイニッチ手稿に興味をもちだしたあたりから、彼女たちは植物に身をひたして自分たちの生命をわけてやることを思いだし、ときにはじぶんの目も唇も植物にくれてしまって簡単にのっぺらぼうになる。そうすると、その辺の植物をちぎってじぶんの顔のところにぺたっと貼付ける。そして何食わぬ顔、のない顔で、唇をくれてやった植物が歌いだすのにあわせてアコーディオンを弾いたり、輪まわしをして遊んだり、人間の髄液でレースを染めて服を作る作業に戻ったりする。
彼女たちのうちのひとりが声を出そうと口をひらくと隣の彼女の喉から声が出てくる。私にはわからない言葉を喋っている。こっちの世界では、鯨とイワシの群れにその言葉が通じるのだという。傍らでは、足の何本もあるけものがその声に耳を傾けている。

彼女たちにとっては、異次元間の移動など簡単なことだ。おもむろに私の頭へやってきて、手から紙へ出ていくことなど朝飯前。私の都合など一切考えてはくれない。どういう原理でものを考えているのかわからない。なにかしらの社会は作っているようだがそこに秩序が見いだせない。だんだんと昆虫の観察をしているような気分になる(この前、大学院のコース誌の合評会で、エッセーも創作も昆虫とかアワビとかの観察みたいといわれてちょっとうれしかった)。

うまく通してやれずに落込むくらいなら絵を描くのをやめてしまったほうが精神衛生上よいのではないか、と考えたことは一度や二度ではない。これは自暴自棄になっているとかではなくて、私なりに前向きに考えている。絵以外にもやってみたいことはたくさんあるのだから。けれども、彼女たちはそういうのを一切聞いてくれない。感情がない種族なので、こちらのそういう都合がわからないそうなのだ。気づいたときにはもう、私は金欠なのにホワイトワトソンを買ってきてそこにペン先を走らせている。

なるほど、そういうことなら、と私は考えた。人間の死というのもそうなのかもしれない。描いてくれる人が見つかれば、トンネルをくぐり、滑り台のように滑っていってどこかの紙の上に降りていけるのかもしれない。私は周波数の近い描き手がまだ見つかっていない気がするけれど、ほんとうはいまもその人(?)は絵の具えらびの真っ最中で、私はトンネルをくぐりつづけているのかもしれない。あるいは宗教があるのは、多くの人の頭の周波数をなるだけ一定の場所に集めておいて、めいめいに都合のよい描き手を見つけやすくすることが目的なのかもしれない。

この世の出来事はだいたいぜんぶフラクタルだと思っている。自然を見ているとそう思う。だから私が絵を描くことだって、どこかにもっと大きなスケールで同じ運動が見つけられるはずなのだ。

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