飯田将茂監督・最上和子氏主演「HIRUKO」を見る
先日は飯田将茂監督・最上和子さん主演「HIRUKO」へ。
此方へ木を捧げる人びとの所作や静かに伏せた眼、そして白い枝の境界に、この身体では未だ体験していないはずの遠い自分の死の記憶が蘇る。弔いの眼差しと炎に肉を清められたときの記憶。私は生者たちの佇む場から遠ざかる。すると私の身体において何ものかが、生者たちに慈愛を注ぐのがわかる。そこには、生れてしまってどうしようもないすべての生命(「私」もまたそのうちのひとつだ)、柔らかい肉を着て生きて死ぬ運命にある者たちへの哀しみと慈しみ、そして静かなる畏怖が重なり合っている。
最上さんの纏う装束が水面のかたちにうごめき、皮膚に貼りついた鱗さながらの影を落す。どう見ても、この世のひとりの人の動きではない。仮面を外してもなお、あらわれる顔はひとりの人の顔のように見えない。幾人もの顔が重なったヒトガタの表情に見える。胎児のようだと感じたのも、生まれる前の場所、死んだあとの場所に揺らめく無数の人の表情や姿を思わせたからだろう。そこにいるのが誰なのかわからない。むしろ彼女の舞いは彼方から流れてくる水のようだ(水に対して「誰か」と問うことはできない)。それは存在の渇きを潤し、満たされた者は自らもまた水のひとしずくになって、その流れに誘われ流れて行きそうになる。そこへ身を預けるのは静かな恍惚で、死者の視点から鎮魂というものを垣間見たような気がした。
最上さんの眼は彼方を見ている。
私には未だ共同体がわからないけれど、もし共同体というものがあるとするならば、それは誰もがいずれ向う彼方、彼岸において成るものなのかもしれない。そして彼女のいうユリシーズの航海とは、生者のひしめく場にそのエッセンスを獲得してくるという、途方もない苦しみと恍惚に満ちた旅路のことなのかもしれない。
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