フラメンコ学 Vol.8 伝統と格式のカンテ・デ・ラス・ミナスのコンクール
2024年夏スペインのフラメンコ界が大きなニュースで沸きました。伝統あるカンテ・デ・ラス・ミナスのコンクールで、萩原淳子さんが外国人として初めてバイレ部門で優勝を果たされ「デスプランテ賞」を受賞されたのです。
1961年に第1回が開催され、もともとはカンテ(歌)を競うコンテストとしてスタートしたコンクールですが、その後ギター部門、バイレ(踊り)部門、フラメンコの楽器奏者の部門も設けられました。
今は世界的に活躍する、カンテのミゲル・ポベダや、ギターのビセンテ・アミーゴもこのコンクールでの優勝をきっかけにキャリアを大きく飛躍させたように、このコンクールは、スペインのフラメンコ界におけるひとつの登竜門とされています。今回は、このフェスティバルの歴史や変遷について深掘りしていきます。
カンテ・デ・ラス・ミナスの概要
正式名称、国際カンテ・デ・ラス・ミナス・フェスティバル (Festival Internacional del Cante de las Minas)は、コンクールと公演が一体となった、フラメンコの歴史あるフェスティバルです。まずは、このフェスティバルの概要を簡単にまとめておきます。
いつ?
毎年8月の第1週に開催されます。これに先立ち、6月からコンクールの予選が行われ、準決勝に進出する参加者が選定されます。
どこで?
このフェスティバルは、ムルシア地方のラ・ウニオン市で開催されます。1978年以降から現在に至るまで、旧公共市場 (Antiguo mercado público) という建物で開催されています。この建物は別名カンテの大聖堂 (Catedral del Cante) と呼ばれます。
コンクールのカテゴリー
カンテ部門 (初めはカンテ部門のみで始まる)
ギター部門 (1980年代に創設)
バイレ部門 (1990年代に創設)
フラメンコ楽器部門 (2009年に創設) フラメンコに関連した他の楽器(弦楽器、管楽器、打楽器、ピアノ他)による演奏が対象
各カテゴリーの最優秀賞
ランパラ・ミネラ(Lámpara Minera)
ボルドン・ミネロ(Bordón Minero)
トロフェオ・デスプランテ(Trofeo Desplante)
フィロン賞(Premio Filón)
2024年のコンクールは、第63回目のコンクールでした。このコンクールがどのように誕生し、どのような歴史を辿ってきたのか、そしてフェスティバルの名称にもなっている「カンテ・デ・ラス・ミナス」とは何か?このコンクールの選考のしくみなどを見ていきましょう。
カンテ・デ・ラス・ミナスとは?
国際カンテ・デ・ラス・ミナス・フェスティバル (Festival Internacional del Cante de las Minas)は、1961年に第1回が開催され、パンデミックのためにフェスティバルそのものが中止となった2020年を除き、ムルシア地方のラ・ウニオン市で毎年夏に開催されてきました。現在はカンテ、バイレ、ギター、楽器の4部門によるコンクールと、フラメンコのアーティストによる公演が一体となって、大きなフェスティバルとなっていますが、もともとはカンテのコンクールとして始まりました。
このフェスティバルは、19世紀にカルタヘナ=ラ・ウニオン鉱山で発展していった特有のフラメンコの一連の曲種である「カンテ・デ・ラス・ミナス」を記念したフェスティバルです。スペイン語で鉱山をラ・ミナ (la mina) といいます。これが複数形になったラス・ミナス(las minas)も、日本語にしてしまうとやはり「鉱山」ですが、ラス・ミナスというと地域に点在する鉱山の集まりを指し、主に鉱山群のある地域全体を指すニュアンスになります。
カンテ・ミネーロや、レバンテのカンテは、スペインの無形文化財にも登録されています。これらのカンテは、ムルシア地方のカルタヘナ=ラ・ウニオン鉱山だけでなく、ハエン県のラ・カロリーナ=リナーレス鉱山、アルメリア県のガドール鉱山など、南スペインに点在するたくさんの鉱山地帯における、19世紀の大規模な人口移動が誕生の引き金となりました。
現在私たちが知る「カンテ・デ・ラス・ミナス」は、こうしたアンダルシア地方の鉱夫たちが伝統的に歌っていた歌と、カルタヘナ=ラ・ウニオン鉱山に古くから伝わる民謡が融合して誕生したと考えられています。当時のスペインで人気絶頂だったカフェ・カンタンテ(今でいうタブラオのような、飲食を提供するフラメンコ劇場)で広まっていきました。カフェ・カンタンテには、当時の鉱夫たちも足繁く通ったそうで、過酷な労働に耐える鉱夫たちの苦しみや叫びの表現として歌われるのが一般的でした。
しかし、20世紀初頭から1950年代にかけてラ・ウニオンは鉱業危機が訪れます。そして当然のように、こうした鉱夫たちのカンテも衰退の一途を辿ることとなります。もはやフラメンコの重要な形式の一角を成すようになっていた「カンテ・デ・ラス・ミナス」という豊かな遺産を守るべく立ち上がったのが、人気絶頂だったカンタオール、フアニート・バルデラマでした。1961年、彼はラ・ウニオン市を訪れ、このカンテの重要性を訴えると、地元住民やラ・ウニオン市役所がこの呼びかけに応える形で「第1回・カンテ・デ・ラス・ミナス全国フェスティバル」が開催されました。
現代では、カンテ・デ・ラス・ミナス国際フェスティバルは、フラメンコの最高峰を目指す音楽家たちにとっての登竜門となっており、ここで注目を集めることはその後のキャリアにとって大きな意味を持ちます。
歴代受賞者たち
カンテ部門では、ミゲル・ポベダ、マイテ・マルティン、ロシオ・マルケス、ダビ・ラゴス、ギター部門では、ビセンテ・アミーゴ、ホセ・アントニオ・ロドリゲス、オスカル・エレーロ、パコ・セラーノ、バイレ部門では、ハビエル・ラトーレ、イスラエル・ガルバンなど。
ざっと見るだけでも、フラメンコ界の超大物アーティストたちの名前がずらっと並んでいるのがわかります。
コンクールのしくみ
コンクール出場者は、4つの部門(カンテ、ギター、バイレ、楽器)に応じて、特定のフラメンコの曲種を披露します。このコンクールでは、カンテ・ミネーロと、レバンテのカンテの伝統を守ること、また、フラメンコの主要な曲種をどれだけ深く知っているかが大きく評価されます。
4つの部門のうち最も歴史があり、重要と考えられているカンテ部門では、特に規定も厳しく、カンテ・ミネーロまたは、レバンテのカンテを歌うことが必須です。それ以外の伝統的な曲種も任意で歌うことができます。最重要のランパラ・ミネーラの受賞対象になるためには、幅広いカンテの知識を披露することが大事なので、伝統的な曲種もやはり必須といって良いでしょう。カンテ・ミネーロと、レバンテのカンテというのは、下記の曲種を指します。
ミネーラ(Minera)
タランタ(Tarantas)
カルタヘネラ(Cartageneras)
ムルシアーナ(Murcianas)
レバンテ(Levantes)
そして、任意で歌うことのできる伝統的な曲種とは、
ソレア(Soleá)
セギリージャ(Seguiriya)
アレグリアス(Alegrías)
ティエントス(Tientos)
ファンダンゴス(Fandangos)
ブレリアス(Bulerías)
タランタ(必須範囲外のもの)
などを指します。
ギター部門では、ソロ演奏とカンテ伴奏をそれぞれ披露する必要があります。カンテ伴奏については、カンテ・ミネーロと、レバンテのカンテへの伴奏をします。また、トケ・ソリスタと呼ばれるソロ演奏では、ギターテクニック、リズム、音楽性が求められ、さまざまな角度から評価されます。
バイレ部門でも、カンテ・ミネーロと、レバンテのカンテを踊り用にアレンジしたものが重要です。タランタ (Tarantas) やミネーラ (Minera) などがよく踊られます。そして、審査の基準となるのは、コンパス感、リズム感、表現力、フラメンコとしての独自性が重要です。
楽器部門の設立には、古くからの愛好家は否定的な立場でした。実際に、フラメンコの伝統には属さない楽器が演奏されることもあります。いずれの場合も、フラメンコの本質を損なわないことが条件です。
コンクールは、予選、準決勝、決勝に分かれており、予選を通過した者だけが、アンティグオ・メルカド・プブリコの晴れ舞台に立つことができます。「カンテ・ミネーロ=レバンティーノ」の伝統に重きをおいているかどうかが、このコンクールのもっとも重要な審査ポイントです。
日本人とカンテ・デ・ラス・ミナス音楽祭の関係
2003年、踊り手の平富恵さんと南風野香さんが、日本人として初めてとなるセミファイナル(準決勝)への出場を果たされました。
2014年には、カンテ・デ・ラスミナス財団 (Fundación Cante de la Minas) と、日本フラメンコ協会がタッグを組み、日本でセミファイナルのための予選会が開かれました。具体的には2014年の夏に東京で開催された新人公演が、翌年2015年夏にラ・ウニオン市で開催されるコンクールの予選会を兼ねる、という斬新なアイデアで、第1回・日本カンテ・デ・ラス・ミナス音楽祭と名付けられました。
新人公演の奨励賞受賞者は再度出場することができないという規定があります。しかし、この年に限っては、カンテ・デ・ラス・ミナス挑戦のために、過去の受賞者にも挑戦していただきました。新人公演は選考対象外という条件付きでしたが、こうして門戸を開いたことで日本人のプロの踊り手が集結する素晴らしいイベントとなりました。そして、翌年2015年3月に開催されたCAFフラメンコ・コンクールも同じように予選会となりました。CAFコンクールも新人公演同様、過去の優勝者は出場できない決まりですが、この年は過去優勝者にも挑戦の道が開かれる形となりました。
そしてその結果、2014年の新人公演からは、石川慶子さん(バイレ)、堀越かおりさん(バイレ)、大森暢子さん(カンテ)の3名が選出。2015年のCAFフラメンコ・コンクールからは、田村陽子さん(バイレ)が選出され、2015年夏のラ・ウニオンのステージに立たれました。残念ながら決勝には進出されませんでしたが、カンテ・デ・ラス・ミナスの歴史の1ページを刻むこととなる意義ある試みでした。
また、その翌年2016年6月に東京で開催された新人公演は、第2回・日本カンテ・デ・ラス・ミナス音楽祭という位置付けでしたが、第1回のように準決勝進出のための予選会ではなく、ゲストアーティスト招聘者の選考会と趣旨が変更されました。この第2回音楽祭で優勝された屋良有子さんは、同年8月にラ・ウニオンで素晴らしい踊りを披露され、スペインのメディアでも大きく取り上げられました。
私自身、この2回の日本カンテ・デ・ラス・ミナス音楽祭の開催のための仲介役を任せていただいておりました。当時のラ・ウニオン市長をはじめ多くのスペインの関係者が、日本のフラメンコの隆盛ぶりに目を見張り、こうした企画をもちかけてくれたことをとても素晴らしいと感じましたし、日本で育ったフラメンコを、スペインが自国に「逆輸入」するようなイメージがありました。
一方で、スペインと日本の文化的な考え方の違いや、仕事の進め方におけるギャップは、調整が難しい部分もありました。しかし、これらの経験を通じて、両国の文化をつなぐ活動の可能性と課題を深く理解することができたのも事実です。第3回以降の開催には至りませんでしたが、2回の音楽祭を通じて、日本人アーティストのフラメンコへの情熱や技術がスペインの関係者にも大きな感動を与えたことは確かです。この経験を未来への糧とし、新たな形で両国の交流を深めていける可能性を探っていきたいと思っています。
楽器部門でも日本人が大活躍
2022年には、ベーシストの森田悠介さんが、楽器部門の準決勝進出を果たされています。
楽器部門は、これまで伝統的にフラメンコでは用いられてこなかった、新たな楽器によるフラメンコの演奏の拡大を目指しており、最優秀の演奏者に贈られるフィロン賞は、フラメンコの新たな可能性を探求する楽器奏者にとって、重要な登竜門となっています。決勝進出は叶いませんでしたが、森田さんのタランタとブレリアスの演奏は、確実にスペイン人の心を掴んでいました。
萩原淳子さんの「デスプランテ賞」の意義
2024年の国際カンテ・デ・ラス・ミナス・フェスティバルは、再び日本が注目される、とても嬉しいニュースで溢れました。スペインのセビーリャに在住の萩原淳子さんが、バイレ部門の最高賞である「デスプランテ賞」を受賞されるという快挙をなしとげられました。60年を超えるカンテ・デ・ラス・ミナスの歴史の中で、日本人としてだけでなく、外国人がこの賞を受賞したのは初めてのことで、とても大きな話題となりました。
これまでの歴史の中で、日本はスペインに次ぐフラメンコ大国という位置付けが確立しています。そして、萩原淳子さんをはじめたくさんの日本人のご活躍が、その名声を数だけでなく質でも裏づけはじめたのは、まさに日本のフラメンコ新時代の幕開けといって良いかもしれません。
【参考】萩原淳子さんの受賞に関する、スペインの主要なメディア報道
カンテ・デ・ラス・ミナス
エル・ムンド紙・El Mundo (2024.8.12)
エル・パイス紙・El País (2024.8.24)
ディアリオ・デ・セビーリャ(2024.8.39)
エル・ムンド (2024.9.12)
リベルター・ディヒタル(2024.8.31)
小倉真理子さんによる「スペイン語」や「スペイン文化」に関する発信は、「まりこのスペイン語」YouTube https://www.youtube.com/@MarikoSpanish/about
X (旧・Twitter) https://x.com/MarikoSpanish
から最新情報をご覧いただけます。
#スペイン #フラメンコ #Flamenco #日本フラメンコ協会 #anif #小倉真理子