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フラメンコ学 Vol.7 フラメンコの各形式を初めて踊ったのは誰?

私が大学院の修士課程で「フラメンコ学」を学び始めてから1年が経とうとしています。この1年で数多くのフラメンコの文献に触れることができました。その中で気づいたのは、フラメンコ学は学問としての成立からまだ70年余りと月日が浅いにもかかわらず、非常に多くの研究が行われてきていたという事実です。また、アカデミックなアプローチをすることにより、文献を参照することの大切さと、現在進行形で発展し続けるフラメンコの記録を文字で残していくことの大切さを学んでいます。先人たちの積み重ねのおかげで、いま私たちはかつてのフラメンコがどのようなものだったのか、そしてどのように新たな発展を遂げてきたのかを知ることができます。一方で、こうした専門書の多くは出版と同時に絶版となり、なかなかオリジナルの本を入手することが難しいという現実もあります。なので、目についた本は基本的に全て入手していく、というスタンスで資料を買い集め、自宅のフラメンコ書庫にはまだ未開封のままの本もたくさんあります。今日は、バイレ(フラメンコの踊り)の歴史に焦点を当て、こんにちでは一般的に踊られているフラメンコの形式が、誰によって初めて踊られたのかを辿っていきます。ご存知の通り、フラメンコは細分化すると数百の形式があると言われますが、今日はその中でも主要な9つの形式のバイレの誕生にゆかりのある人物たちを深掘りしていきます。

自宅のフラメンコ書庫1
自宅のフラメンコ書庫2


バイレのレパートリー


まず、注目しておきたいのは、カンテ(歌)の種類よりもバイレ(踊り)の種類の方が圧倒的に少ないということです。現在のレパートリーとしては一般的になったシギリージャ、ファルーカ、タラントなどの踊りも、20世紀以降に生まれた比較的新しいバイレです。では、かつてはフラメンコには踊りがなかったのか?というとそういうわけでもありません。18世紀半ばごろには「アンダルシアの踊り」とか「ロマ族の踊り」といった名称でフラメンコの踊りが踊られていたことがさまざまな記録から明らかになっていますが、それは現代のバイレとはかなり異なる踊りだったようです。

例えば、民俗舞踊として知られるアラゴン地方の「ホタ」は、フラメンコのレパートリーには含めません。しかし、この踊りの確立はフラメンコのそれに先立つもので、18世紀には劇場で踊られる踊りとして確立されていました。そして、この「ホタ」の踊りが、フラメンコの「アレグリアス」の踊りの形成に大きな影響を与えたことがわかっています。

このように、民俗舞踊などが「フラメンコ化」することをスペイン語で《aflamencamiento》(アフラメンカミエント)といいます。このようなフラメンコ化の過程を辿ることで、フラメンコの発展の歴史に光を当てることができるのです。

フラメンコの各形式を初めて踊った踊り手たち


まずは今回扱う9つの形式をリストアップします。皆さんも踊ったことのある形式があるでしょうか?隣に書かれた名前が、その踊りの創始者、あるいは最古の記録に残る踊り手です。

  • シギリージャ:ビセンテ・エスクデーロ

  • マルティネーテ:グラン・アントニオ

  • ラ・カーニャ:ピラール・ロペス

  • ミラブラス:アントニオ・ガデス

  • ルンバ:アントニオ・ガデス

  • アレグリアス: エル・コロラオ、エル・ラスパオ

  • ファルーカ:ファイーコ

  • ガロティン:ファイーコ

  • タラント:カルメン・アマジャ


1.シギリージャを初めて踊ったビセンテ・エスクデーロ


ビセンテ・エスクデーロ(1888 - 1900)
写真:Wikipediaより

ビセンテ・エスクデーロは、実に多彩なアーティストでした。踊り手としても振付家としても、フラメンコに留まらない幅広いスペイン舞踊に精通する一方、画家であり文筆家でもありました。自らの生涯と踊りについて書き記した自伝「我が舞踊《Mi Baile》」は豊富な写真の他に、絵画やデッサン画、さらには踊りの動きをピクトグラムにしたものなどが多数掲載されていて、眺めているだけでも楽しい1冊です。シギリージャのバイレを創始したのがビセンテ・エスクデーロでした。

ビセンテ・エスクデーロ著「我が舞踊」


ビセンテ・エスクデーロが描いたフラメンコのバイレの絵画


2.マルティネーテを初めて踊ったグラン・アントニオ


マルティネーテは、ご存知の通りシギリージャと同じコンパス(リズムパターン)をもつ形式ですが、最大の特徴はギター伴奏を伴わないという点です。通常、アカペラで歌われるか、または金槌を金床に打ち付ける音に合わせて歌を歌います。この形式に踊りを初めてつけたのが、グラン・アントニオです。


グラン・アントニオ (1921 – 1996)
写真:Instituto de la Cultura y las Artes de Sevilla


日本では「偉大なアントニオ」という意味のグラン・アントニオという名前で通っていますが、本名はアントニオ・ルイス・ソレールといい、スペインでは「偉大な舞踊家」という意味の「エル・バイラリン」という愛称で親しまれたセビージャ出身の踊り手でした。20世紀の前半には中南米諸国やアメリカでも活躍し、フラメンコの世界的な普及にも大きく貢献した人物です。1971年と1978年に来日しており、特に1978年には、東京、仙台、水戸、名古屋、大阪、岡山、横浜、札幌の8都市で10公演を行う大々的なツアーを行いました。そして、このツアーの最終日の札幌公演は、彼の舞踊家としての引退公演というとても重要な公演となりました。


1978年10月4日のグラン・アントニオ引退公演のチラシ


3.ラ・カーニャを初めて踊ったピラール・ロペス


ピラール・ロペス (1912 – 2008)
写真:スペイン王立歴史アカデミー


20世紀のスペイン舞踊界のレジェンド
に数えられるピラール・ロペスは、ラ・カーニャを初めて踊った人物として知られています。また彼女はフラメンコの踊り手であるだけでなく、スペイン舞踊にも精通しており、姉のラ・アルヘンティニータと共に、ファリャの「恋は魔術師」を初演した人物としても知られます。二人の姉妹はアメリカの大都市やラテンアメリカ諸国のツアーで次々に成功を収め、グラン・アントニオ同様フラメンコの世界的な普及と知名度の向上に貢献しました。1960年5月には来日公演を行なっています。この時にはまだ24歳という若さのアントニオ・ガデスも踊り手として同行しています。


4.ミラブラスとルンバに初めて振付けをしたアントニオ・ガデス


アントニオ・ガデス (1936 - 2004)
写真:アントニオ・ガデス財団

ルンバを初めて踊った、とすると少し語弊があるかもしれないので「初めて振付けをした」というのが良いかもしれません。アントニオ・ガデスは、タラントと並んで、ミラブラスルンバに思い入れがあり、この形式をとても大事に踊っていました。ルンバは、こんにちではフィエスタなどで踊られる「軽い」形式のひとつですが、ガデスの思い入れは深く、自身の音楽プロダクション事務所の名前も《Tamiru Producciones》とタラントの《Ta》、ミラブラスの《Mi》ルンバの《Ru》を組み合わせた造語にするほどでした。 
前述の通り、ピラール・ロペス舞踊団の一員として初来日を果たしますが、のちに自身の舞踊団を立ち上げ、1968年に「アントニオ・ガデス舞踊団」として来日公演を行います。1978年創立のスペイン国立バレエ団の初代監督も務めました。


ピラール・ロペスとアントニオ・ガデス


5.アレグリアスを初めて踊ったのはエル・コロラオとエル・ラスパオなのか?


私の大学院のバイレ・フラメンコの授業の中で、アレグリアスを初めて踊ったのはエル・コロラオエル・ラスパオという踊り手だと触れられていました。二人に関する資料は乏しく、カディス生まれの類い稀な踊り手というくらいしかわかっていません。冒頭に確認した通り、アレグリアスがアラゴンの民俗舞踊「ホタ」に起源を持つことは間違いありませんが、フラメンコとしての「アレグリアス」の踊りをはじめに踊った人物ではないだろうかとする根拠は、ファウスティーノ・ヌニェス氏の研究に依ります。彼の「発見」した1869年6月3日のカディスの新聞「エル・コメルシオ・デ・カディス」に掲載された古い記事が、この踊りを踊った人物として最も古いというのが現在までにわかっている史実です。

当時は、「アレグリアスは女性の踊り、サパテアードは男性の踊り」と認識されていたことを鑑みると、女性の踊りのはずのアレグリアスのバイレの創始者として、二人の男性の踊り手の名前が上がっているのはやや奇妙な感じもあります。とはいえ、このように実際に確認できる史料を元に仮説を立て、それを検証していくのがフラメンコ学の研究です。気の遠くなるような膨大な新聞、雑誌などの資料の中からこうしたフラメンコに関連した古い記述を見つけ出すため、ファウスティーノ氏も、数年間カディスに滞在して研究を続けられました。とても根気のいる作業です。


写真:1869年6月3日のカディスの新聞「エル・コメルシオ」
ファウスティーノ・ヌニェス氏の研究より
https://flamenco.plus/flamencopolis/index.php?id_palo=alegrias


ところでアレグリアスは、19世紀後半ごろまではフィエスタのカンテという位置付けでした。それが20世紀になると、タンゴスやブレリアスなどにとって代わられたというのは興味深い変遷です。19世紀ごろの踊りの種類や流行りについては、さらなる研究成果も待たれるところです。

6.ファルーカとガロティンを踊ったファイーコ


ファルーカ、ガロティンの踊りを創始したのは、ファイーコ(Faíco)という踊り手でした。本名フランシスコ・メンドーサ・リオス。セビージャ出身のファイーコは若くしてキャリアをスタートさせ、マドリードの有名なカフェ・カンタンテ「カフェ・デ・ラ・マリーナ」で、ラモン・モントージャと共にファルーカやガロティンの踊りのスタイルを確立し、大きな反響を呼んだといいます。1907年1月26日の新聞「ラ・コレスポンデンシア・デ・エスパーニャ」の記事が、これを報じる最も古い記事とされています。


ファイーコ (1880 – 1938)
写真:© Paul Haviland / ポール・ハビランド

さて、カフェ・カンタンテというのは、今でいうタブラオのような施設です。フラメンコの歴史を辿ると、こうした酒場を中心にフラメンコが商業的に大きく発展していった時期があり、その時代を「カフェ・カンタンテの時代」と呼びます。スペイン各地に登場したカフェ・カンタンテは都市ごとに特徴的で、出演したアーティストやエピソードも、とても興味深い記述がたくさん残っています。これについては、次回深掘りしていきましょう。


カフェ・デ・ラ・マリーナの様子
画像:スペイン国立図書館


7.タラントに振りをつけて踊ったカルメン・アマジャ


カルメン・アマジャは20世紀を代表するバイラオーラといってよいでしょう。冒頭にも登場したビセンテ・エスクデーロは、カルメン・アマジャの踊りを一目見た時「彼女は将来フラメンコの革新者になるだろう」と予言したというエピソードが残されています。

カルメン・アマジャ(1918 – 1963)

カルメン・アマジャといえば、若きアントニオ・ガデスと共演した映画「バルセロナ物語」がとても有名です。この映画のスペイン語タイトルは《Los Tarantos》といいますが、これはフラメンコの形式の「タラント」の複数形ではなく「タラント家」という意味です。スペイン語で「○○家」という時は、男性系の定冠詞をつけ名字を複数形にして表します。例えば、私の名字小倉から小倉家といいたい時は、《Los Oguras》となります。この物語は、ロミオとジュリエットにインスピレーションを受けた、敵同士であるタラント家とソロンゴ家に生まれた若い二人の悲劇のラブストーリーです。


映画「バルセロナ物語」のポスター


いかがだったでしょうか。
普段なにげなく踊っているフラメンコの形式も、ゆかりのある人物やエピソードを知ることで理解が深まるかもしれません。こうした偉大な踊り手たちが、古くから日本公演を行なっていたこと、そしてそれが日本のフラメンコの歴史を確実に豊かなものにしているのはとても感慨深いです。




小倉真理子さんによる「スペイン語」や「スペイン文化」に関する発信は、「まりこのスペイン語」YouTube
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