ディスコミュニケーションの愛おしさ
今週はダウナーな気持ちで仕事をしている時間が多かった。就活前に、今まで学生で3〜4年スパンで環境変わってたのに、40年は働くんでしょ?! とか言っていた時の気持ち思い出して、ついでに『こころ』の一番好きな文も思い出した。最後の方の暗いやつ。
もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。
絶望感を表現するにあたって素晴らしすぎると思う。労働が私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を照らしました、と思った。40年先まで照らされた気持ちになった。
全然、実際には40年先とかそれまでに何が起こるかなんてわからないし、気分の上下が激しいのでその気持ちの到来から2時間後とかにはそこそこ元気になってるんだけれど。
「歳をとると時の経つのが早い」とか「話を聞いてくれる人はありがたい」とか、世の中で100万回はもう言われているよ、という陳腐なことが、自分のチャンネルにあった瞬間、こ、これ!これだ…!と腹落ちしたり、ありありと身に迫ってきたりすることがある。ちょうどそういう感じで、40年働くということが質量のあるものとして感じられてびっくりしたのだ。
この話題から展開するのはいささか強引な気がしなくもないけれど、ちょうど今日観にいった演劇では、わかる、わからないということが一つのテーマだったと思う。さらに言えば腹落ちしてわかると頭でわかるのふたつだなぁ、とぼんやり考えた。
観たのは、鳥公園という劇団の『終わりにする、一人と一人が丘』という演劇。まだ買った戯曲など諸々は読み途中だけれど、読んだところまでと、観たものの中で考えたこと。
一緒に観に行った友達と、セリフがね、抜群によかったよね、ってなった。これは主観だと思うけれど、劇団のままごととか、脚本家の坂元裕二さんみたいな言葉遣いな気がする。
なんだか発話されるとしっくりくる言葉って感じで、戯曲上で文字として読むと、発話されていた時と何か違う。
戯曲と抱き合わせで読める「長いちらし」の中でも、劇中でも触れられている「散文の異常さ」というキーワードと関係があると思う。
理路整然としていて誰の目から見てもわかりやすい形のもの(しかしそのような視点で世界を見る人はいない)としての散文と、ぐちゃぐちゃで何を言っているんだかわからないけれど、確かにその視点で世界を見た人がいる詩という2つのものの話。
紙の上に書いてあるものと、発話されるものを比べた時、紙の上では意味不明のやりとりが、発話されると急にわかるということがある。
わたしは、『ゴドーを待ちながら』を紙で読んだ後に上演されたものを観て、なるほど……何が書いてあったのかやっとわかった……!と思ったことがあった。戯曲って読みにくいなぁって思っていたけど、読むためのものじゃないんだなってその時に思った。
逆のこととして挙げるとすれば、漫才を紙に書き起こしてみたら、全然何が面白いのかわからない、みたいなことだと思う。
紙の上のものは、理路整然が結構得意で(この点に関しては異論はめちゃくちゃありそうだけど)、散文的。頭ではわかってるに近いわかる。そして、発話されるものや目の前の現実は詩的で腹落ち的に分かるもの、と一旦分けられるんじゃないか……?と思う。
目の前の人間が発話するという演劇は詩的(↔︎散文的)なことをするのにすごく向いているよね、ということだ。
舞台の上で、語順がめちゃくちゃだったり、話題が脈絡なく飛んだり、会話が噛み合っていないのにうまく進行している時、あぁ、リアルだなぁって思うことは結構ある。腹落ちする分かるって感じ。
(よろめき、とか、転ぶっていう身体性ってすごくいいよなぁ〜〜って思うことがあるけど、もしかしたら詩的なわかるに近いのかもしれない)。
そして『終わりにする、一人と一人が丘』は、その特性を生かした表現の方向を向いていたんだな、と思う。
例えば、舞台上をただ横切るとか(つまりその身体が舞台の上にあるとか)、食べ物を実際に食べるシーンが多いとか、服を脱ぎ着するとか、詩的なわかるの領域のものをたっぷり使っていたんだと思う。空間を共有しないとわからないことが、目の前で起きていた感じ。
音楽とかなくても、発話と生きている身体だけがその場をめちゃくちゃ支配していた。作中のストリッパーの肉体がストリップの劇場の場の主導権を握っているって話のように。
そういう、わけがわからないはずなのに、理路整然としていないはずなのに、その状況への納得感というものがあって、その納得感って良いものなのかもしれないってわかってきた気がする。
今年の3月に、贅沢貧乏の『わかろうとはおもっているけど』を観たとき、ディスコミュニケーションの辛さで頭がいっぱいで(その時のnote)、アフタートークでの山田さんの「ディスコミュニケーションが成立していることが愛おしいと思うし、そういうことを描きたい」的な発言は、その時はちょっと分からなかった。
一人と一人が丘では、他人の気持ちなんてわかるわけがない、という前提が強調される。それで、分かり合えないとわかりながら、それでも人と人とが関わる。でもその時、理路整然としていないし、すれ違っている会話が、その場では成立しているという場面は、なんか希望なのかもしれない、とおもった。ディスコミュニケーションの成立が愛おしいってそういうことか〜〜って思った。
それに関しても「長いちらし」にたくさん書いてあって読めば読むほど面白いけど、読んだ方が面白いので割愛。
丁度『エルサレムのアイヒマン』を読んでいて
アイヒマンとはコミュニケーションが不可能だった。それは彼が嘘をつくからではない。言葉と他人の存在に対する、したがって現実そのものに対する最も確実な防壁〔すなわち想像力の完全な欠如という防壁(独)〕で取り囲まれていたからである。
この文章とか読みながら震えていたので、こういうこと、ずっと考えていく必要があるなぁと思う。
それで、こういうこと考えている人の存在を考えていたら、なんか別にわたしの全生涯照らし出されてないよね、って気持ちになれるので、良かったなと思う。
でも、そういう身体的な衝撃って暴力的でもあるし、使い方難しいので、まだまだ、いろいろ考える余地があるから、ゆっくり考えたいなぁと思う。