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狭間に止まる余裕を

4月になったけど式典がないと時の流れが感じられないだの、ハレの日がこないだの、わーわー言っていたが、今日偶然ひとのハレの日に居合わせ、とても楽しかった。やっぱりこういう、祭りみたいなものでしか得られない、場にたちのぼる多幸感がある。自分自身の日常を区切るためのハレの日ではないが、勝手にひとのハレの日をお祝いして、浮かれながら帰った。

以上は、記録しておきたかったただのわたしの日記で、今日書こうかなと思っていたのは、自分が他人に対面する時の、他人の捉え方についてだった。全然違う話です。

最近、自分が肌で理解することのできない他人の感じ方や行動や意見のことを考える機会が多く、何故これほど色々検討してみても、その人の考えをしっくり掴んだという感覚に至らぬか……と思いながら、うんうんと考えを巡らせたり、質問をしたりすることに明け暮れていた。諦めの悪さと、底意地のわるい好奇心など、いろいろな感情がわたしを引き留め、考えることをやめさせてくれないという気分で、半ば楽しみつつ、半ばしんどいような気もしていた。

自分の知らない他者の考えを知るのは純粋に楽しさが勝るが、自分には納得のできない考えとなると、わかろうとすることは、苦しいような、楽しいような体験になる。わたしの考えていることが、この人には伝わりそうにもないという悔しさ(いまだにこの感情とは決着がつかない)みたいなものに苛まれるし、これを怠ると、わたしは稀にみる世紀の頑固なおばあさんになるのではないかという恐れもある。

薄々感じていたことだが、年々、自分が自分に対して行う言い訳が巧妙になっている気がする。納得のできない考えを前にしたとき、恐る恐るうっすらと目を開けて、自分自身を見つめてみると、そのような気持ちになる。思ったより意固地だな……という感じだ。そんなにもう、自分自身を守る必要もなさそうなのにね、という気持ちにもなる。

学校に通うような年代の時に、日々感じていた不安定な気持ちが、もうここ2年くらいお目見えしていないのは、そのおかげでもあるのかもしれない。気持ちの揺らぎからの立ち直りも早いし、開き直ることも得意になっている。悪いことではないような気もするが、良いことではないような気もする。葛藤の渦中にいないということは、何かを決めつけていることの裏返しだからだ。

精神の安定は生きるために比較的必要なことと感じる日々なので、そういう巧妙な言い訳も健やかなわたしの毎日に彩りを添えてくれてはいるのですが。
それでもやはり、元々気質が頑固な自分自身を、ぶち壊したり、組み立て直したりすることを、もっともっと意識してできると良いんだろうなぁ、と思う。前から思ってはいるので、心地の良い人以外とも、交流は持つことを試行錯誤している。

そういう中で、先述の辛さが出てくるのだが、これでは……? と思っている方法が一つある。それは、他人という存在の捉え方を変えてみるのがいいのではないか? ということだ。
わたしは、他人とみるとこの人はどんな人だろうか、というその人自身の中身のことが気になり、わたしとその人との関係性がどのようになるのかというのは、その関心事の後ろからやってくる。

でももしかすると、他人を前にすると、自分はこの人と何をするだろうか、と考える人の方が多いのかもしれない、と思った。その人の中身を知り合うのではなく、その人との間に出来上がる物事を楽しむのである。

書きながら、当たり前なのではないか?!という気もしてきているし、わたしの人との向き合い方は、知っているつもりだったが改めて考えると至極失礼なものだ。でも事実なのでしょうがないとは思う。
一緒に何かをするというマインドで、他人と関わり合いながら、少しずつしかその人のことを知ることができない、ということが大事なのだろうと思う。
感覚が近しくない人とだからこそ、何かを介して親しくなる必要があるのである。肝に銘じようと思う。

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