舞台を観るのは負荷がでかい
こんなタイトルですけど、負荷がでかいからいいこともあるし悪いこともあるよね、諸刃の剣だね、という気持ちです。
負荷の話にたどり着くまでには、こういう前段がある。たまたま、劇場に行けない人(疾患とか、様々な理由で、このご時世に限らず)のためのリモート演劇があったらいいじゃん、という言葉をみて、映像で演劇を観ることと、演劇を生で見ることの間には、大きな隔たりがあるのは事実だけれど、その主張もわかるなぁと思ったのだ。それで、まず生だと何が違うのか、をしばらく考えてみた。
それで演劇って、高い負荷がかかるから、大きな感動を得られる、みたいな面があるなぁと思ったのだ。
苦しい練習をしたからこそ、得られた優勝は最高です、とか、空腹は最高のスパイスです、みたいなことだ(ちょっと違うかも)。
テレビドラマや映画を見るよりも、演劇を観る時が一番ハラハラするし、不快になってしまうことも多い。その分、ものすごく感動することも多い。正と負のどちらに針が振れるかはわからないけど、とにかく振れ幅は大きい、という感じだ。
この振れ幅のでかさは、とにかく目の前にいるのが生身の人間であるということに、かなり影響を受けていると思う。
映画なら、1日に3本くらい映画館をはしごして観ても平気なのだけれど、演劇は1日に1本までがいいな……と思いがちだ。作品によるけど、演劇の方が重たい。鑑賞の負荷がでかいのだ。
まず、私は人と映画館に行った時に作中の表現を見て、うわぁこれ、一緒に見てる人どう思うかな……とかで気が散ってしまうことが結構ある。『ミッドサマー』をカップルで観るとか、濃厚なベッドシーンを家族が居合わせる場で観ちゃった、みたいな気まずさがもっと些細なことで頻発する。
それが、演劇となるとその気にしてしまう範囲が観客から舞台上の俳優にまで広がってしまう。
どういうことかというと、例えば携帯の電源をうっかり切り忘れてバイブがなった、という時、映画だと周りの人にうわぁごめんなさい…と思うが、演劇だと舞台上まで聞こえたりするので、そのうわぁ……が半端なくなる。バイブじゃなくても、ここで私が「わー!」と叫んだら全てがぶち壊し、舞台上に影響を与え、観客全てに影響が出る、という可能性自体が私を緊張させるのだ。
そして、自分の友達以外の観客にまで気になりが出てしまうタイミングは、誰かが笑う時が多い。作品鑑賞の真っ只中で、観客がする意思表示は、泣く・笑うがかなりでかいと思うが、特に声を出して笑うことは他の人に察知される意思表示なので、ちょっとヒヤヒヤする。
この作品、明らかに女性差別を扱っているのに、女性を下に見るようなフレーズで笑っている人がいる、みたいな時、もう、心がもたない。これ、舞台上にいる人に聞こえてるよね……。ね、ね? それは嫌だな〜〜うわぁ〜〜って、ヒヤヒヤするのだ。「わー!」って叫んでぶち壊してるのに近いですよ……!たぶん…って、自分自身でもないのにハラハラする。
舞台作品はそういう、双方向性独特の緊張が空間に満ち満ちている。
電車の中で赤の他人に大声を上げて怒っている人がいる時、その怒りをぶつけられている当事者ではなくても、その車両にいる全員がピンとアンテナを立て、さっと緊張するように、舞台の上の出来事を眺めていてもショッキングなことが起きると場がキーンっと張り詰める。
カフェで上演のスタイルで、カフェにいるという設定の登場人物たちが急に刺し殺しあうという作品を観たことがあって、その時はめちゃくちゃに怖かった。映画なら、全然見られるくらいの出来事でも、半端でなく怖い。
小学生の頃、事故に遭うとこうなるんだよ、と人形が車に吹っ飛ばされるのを観た時みたいな、ショッキングさ。
あと、映画やドラマでは服を脱ぐシーンなんか、全然平気で見られるけれど、舞台だと男の人が上半身裸になるだけでも、一瞬キッと身に緊張が走る。だって目の前にいるから。
よく、「海外のホラーはいいんですけどね〜〜、日本のホラーは怖くて、ダメなんですよ。家に帰っても怖いじゃないですか」とか言うが、というか私が言っているが、それもまた現実とフィクションに双方向性が生まれるから怖いのだ。もはや家はフィクションと切り離された安全な場所ではないので怖い。
特に映画の『リング』なんかは底意地が悪い。画面を通して見ているから平気だもんね、とあぐらをかいた気持ちで見ている我々を、観た人は死ぬという呪いのビデオという悪魔のようなアイテムで、びびりまくらせる。えっ、観ちゃったし! えっ!って、その瞬間、現実の中にフィクションがどろっと溶け出すのが怖い(原作の書籍を映像化しようと思った人、天才だ)。
これを書きながら、私はここ1週間くらいのうちに観にいったゆうめいの『弟兄』と『俺』という演劇作品を頭の隅っこに思い浮かべている(ここから、ゆうめいのはなしになります、観てない人すみません)。
なぜ思い浮かぶのかというと、ゆうめいの作品は現実を基にしつつ(それを観客に存分に伝えており)、でもフィクションであり、その境目が曖昧だからだ。
役者による前説だと思って聞いていたら、ぬるりと演劇が始まっていて、あれ? さっきの役者さんの個人的なエピソードだと思って聴いていたこと、役と被ってない……? どこまでが役かよくわからないな……。という、状況になる(実際私は、『姿』を観てから今回の座標軸まで、中村亮太さんのことを、池田さんだと誤認していた)。
この2つの作品の感想を観ていると、自分の個人的な感情をぐうっと握られてゆさゆさと揺さぶられた、とか、生な感情を発露させている人が多い。それはこれらの作品では、フィクションが現実と地続きになるように作られていて、フィクションとして距離を置いて、感覚をある程度遮断して観ることをさせにくく作られているからなのだと思う。
実話を基にした映画が、オープニングやエンドロールで「これは○○○○年に実際に起きたことを基にしている」みたいな表記をするのと少し似ているかもしれない。
『弟兄』だけを観ると、上演されたものが全て真実として見せられた気持ちで帰るが、『俺』を観ると、ある部分は脚色されフィクションになり、ある部分は真実を基にしているということが分かり、少し作品と距離を置ける。
ここは同じだったけど、ここは違ったな、というところをみつけて、現実だけではなくてフィクションも練りこまれているということに自覚的になれる。
『俺』の中で、アニメの中に入りたいという願望を解決するために、アニメに俺を登場させるのみならず、実在の監督や声優まで登場させる、という考えがあるのは、ちょっとゆうめいの作品が観客に与える影響を思わせて面白い。
まさかそんなことじゃ、アニメの中には行けないよ、とか思うが、ゆうめいの作品が引き起こす現実とフィクションの撹乱の影響はめちゃくちゃに受けてしまう。
私は『姿』の夢のシーンが印象的で忘れられなかったのだが、『弟兄』を観て、これっ!となった。あっこれ夢だな……?ってゆっくり気づいていく感じ。ありえないことなのにものすごく説得力がある奇妙なちぐはぐ感を表現するのが抜群にうまいと思ったのだ。
フィクションと現実の垣根が壊れる恐怖って、結構誰もが夢の中で感じたことがあるのではないかと思う。夢日記をつけると、夢と現実の区別がつかなくなってしまう、なんていうのはそういう恐ろしさからだろう。
知っている道を進むと全然知らないところに接続されていたり、どう考えても自分の家なのに赤の他人が違和感なくいるとか、そういう既知と未知の溶け合うギョッとする感覚だ。
ゆうめいの作品を観たときに感じる疲労感は、あぁ、現実に肉薄した夢を見たときの疲労感なのだ……、と思った。
これは夢! これは夢!って叫んでも、怖い夢は怖いように、フィクションと現実が溶け合っていて、あくまでフィクション、とわかっていても緊張感はあるし、それがその作品の良さなのだろうと思う。
ゆうめいのような作品ではなくても、まずもって舞台には本物の人間が立っているから、舞台というのはフィクションと現実が混ざり合いやすい場だ。
作品にもよるだろうけれど、舞台を生で観るというのは、嘘だけど本当、のことに身を晒すということなのだろうなぁと思った。
(でも、だからこそ緊張にさらされる劇場には観にこれないという人がいると思うし、舞台の良さがそれだけというわけでもないので、リモートで見られる舞台はあっても良いよねと思う)