KAAT バッコスの信女 仮の感想
今日は『バッコスの信女 ホルスタインの雌』を観てきた。のだけれど、まだ咀嚼しきれていない。観ながら、いろんなことが頭をよぎり、さまざまなことを想起せずにはいられない状況にずっとあったからか、原作に対する知識が足りなかったからか、作品と距離がうまくとれなくて、全体としてどういう方向に伸びていく物語だったかということを、観ている間に捉えることが出来なかった。
いろいろな細々とした表現に引っ掻かれた傷口の数々や、その空間の緊張にぶるぶるし通しだったので、食らったという感覚が強い。そのつもりで観にいったので、これを受け取りにきました、とも思ったけれど、でもやっぱずっしりぐったりきたなと思った。
この作品の批評をいくつか読んでみたけれど、それらの説明を読んでもまだ、喉の奥に骨が引っかかるような感覚が残っているので、早いとこ戯曲を買って、納得がいくまで紐解いていきたいなと思っている。ゆっくりと腹に落としていきたい。
この作品に対してまだわたしの結論は出せないけれど、帰り道の電車に揺られながら劇場にいて居心地が悪くなる作品について考えていた。
わたしは物語に触れるとき、自分がゆさぶられることを期待しているので、後味が悪いかもしれない、居心地が悪いかもしれない、と思う作品も積極的に観にいくことが多い。
演劇は特に目の前の表現に息をのむような体験をすることが多くて、その居心地の悪さやえぐられ具合は、さまざまな表現の中でも一番大きいだろうなと思う。
ちょっとそのことは前のnoteにも書いた。
特に暴力がテーマの演劇(≒性的なことを扱った演劇)は、食らったな…と思ってぐったりしながら帰途につくことが多い。一緒に観に行った人がめちゃくちゃ食らってグロッキーになるのが怖いので、というか、気まずい緊張に満ちたシーンの中で一緒に来た人が今どう感じているのかをすごく考えてしまうので、一人で観にいくことも多い。
暴力がテーマだから、舞台上で暴力的なことが再現され、だから疲弊するというのはまあ当たり前かもしれない。大きな声で高圧的に喋る人がいたら、別にその人に悪意があろうとなかろうと、疲弊するくらいなのだから、そんなの疲れるに決まっているよと思うし、それを期待して観にいったんでしょ? と自分自身に思うこともあるが、作品によって傷つくということとどう向き合えばいいんだろうという気持ちになることもある。
コミュニケーションは、表現は人を傷つけるものであるのは確かでありつつ、では、人を傷つける可能性がある物事を表現をする時に、どういう方法が取られ得るのだろうかということを、自分で何か作るわけでもないわりに、考えることがある。
もちろん、過激な表現を全て規制した中で良いものが生まれるとは思わないし、蓋をする事が良いとは思わないが、それについて考えることには価値があるのかなと思う。
こういう表現は過激だからやめるべきというわけではなく、ただ、何によって自分が食らわされたのか、という確認作業をしたい。
KAATで観たバッコスの信女で印象的だったのは、客電がついている時間が長かったことだ。
ファンタジーにおいて、現実とどういう距離を構築するのかということはかなり重要なことだと思う。ファンタジーの中に紛れる現実は、その物語に緊張感をもたらす。観客は作品と自分を切り離すことが出来なくなるからだ。怪談話を実話のように語ることで、ファンタジーと、現実世界の自分が接続されてしまって、これは物語だからさ、と距離が取れなくなるやつ。
バッコスの中で、主婦やその他の登場人物は客席のわたしたちに語りかけるわけだが、舞台上から客席に語りかけるというだけでも、ちょっとわたしは居心地が悪い。フィクションを観ている最中に、それを観ているわたしが自分の意識の中に登場されては困るのだ。
舞台から語り掛けられることで、観客は物語を観るが、物語とは接続していないわたしという安全圏から引きずり出されてしまう。そして、客電はそれを強化する。否応なしに私たちの存在が目立たされる。
今回一番きつかったのは、わたしたち観客は見る立場に居続けないといけないということかもしれない。
暴力について語るとき、視線について語ることはよくあることだ。
今回の作品でいえば、性的な暴力と見ることは作品の中で明らかに結びつけて表現されていた。2回目のハプニングバーのシーンで、小窓から見つめる男たちと、AVを演じる女たち。牛の性欲を飼いならせない獣人に、エロ本で教育する主婦が「エロ本は現実と違うの!」と叫ぶこと。こういう台詞の価値観に貫かれる作品の中で、観客としてたまに客電で照らされながら、何もできずにただ観客として見ることしかできない、ということは、かなりずっと苦しい状態に置かれることだ。
しかも、見るだけで他のことは何もできない。信女も犬も獣人も主婦も踊る中で、一緒に踊ることは出来ないし、できることと言ったらせいぜい笑うことくらい。でも、笑うのも違うような、という気でいるので、逆に笑っている人に気を揉んで観たりしている始末だし。
そういうしくみこそが、この作品が観客に対してメッセージを力強く伝えることのできる理由であるとわかりつつ、見つづけざるを得なかったことにヘトヘトにもなる。
わたしは、あまりホラーが得意でないにも関わらず、たまに映画館でホラーを観るのだけれど、いつも予告が始まった瞬間に、ごくり、と唾を飲み込んで、もう逃げられないぞ……という恐怖にまず震える。
そんな感じで、わたしたちは観客であることを意識させられながら、自分が見ることによる加害性を持つという意識も持たされ、観客であることを降りさせてもらえないという苦しさがある。
2回目のハプニングバーのシーンで、部屋の中をカメラで映し、それを大きなスクリーンにも写すという演出があったが、そういえば昨年芸劇で観た『暴力の歴史』にも、似た演出があったなと思い出した(暴力の歴史の感想note)。
わたしは、こちらも同じくカメラで撮る側の暴力性の表現と捉えたし、観る者観客の存在もまた意識させられる作品だったと記憶している。それに揺さぶられたし、ヘビーだったなとも思ったけれど、(それが作品を良いと評価させるのか、悪いと評価させるのかは置いておいて)もう少し観賞後元気だった気がする。
それは撮る側と撮られる側の入れ替わりがあったことや、加害の属性と被害の属性が同じ人間の中に存在し、単純な二項対立から離れていたことで、誰しもが加害をしているということが存分に示されていたからかもしれないし、最後に観客が物語に見返され、反撃を喰らう形で、単なる加害者として終わらないからかもしれない。
と、書きつつ、加害と被害の状況はバッコスでも入り組んでいたし、観客自身が自分の加害性がキャンセルされた、という感覚が得られる演出がなかったと思うが、被害者は打ちのめされたままではなかった気もする。
あんまり、作品について掘り下げられていないので、これから掘り下げる予定なのだけれど、今日はとにかく自分の座席から逃げられなくて苦しいなと思いながら観たということでした。
そういう感情にさせることを意図して作られたのだと思うし、だから作品についてもっと考えたくなっちゃうという作られ方をしていたと思う。それにわたしはまんまとはまっていて、だからもっと作品を大きな視点できっちり掴んで、その上で果たしてそれが自分にとってどういう体験だったのかちゃんと考えたいと思う。