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『怖え劇』をみた
今日は劇団スポーツの『怖え劇』を観てきた。
観終わったあとに、人と別れて電車に乗って、本を開いてみたはいいものの、自分の中にうずうずと出口を探すような興奮があって、落ち着かなくて、本を閉じてノートに感想をとにかく書き始めた。携帯の充電があんまりにもなくて、紙のノートにペンでどんどん書いた。
(それをもとにnoteの方もどんどん書いたのですが、全然読み直していないので、誤字がたくさんある予感)。
もしも、さらっと短い言葉で説明するならば、演劇特有のメタな方法でかき乱しながら、コメディーからシリアスにじりじりと進んで、最終的には春にたどり着く話だった。観ていて体力は使うけれど、面白いだけじゃなくてなんか、ぼんやり元気になれて嬉しくなった。観てよかった。
これ以降ネタバレの備忘録なので、観ていない人はここで踵を返して、20日と21日の残りのチケットを取ってくれたらいいな、と思う。自分の好きなものが広がれば広がるほど嬉しい人間なので。
ナタリーの記事に「ハラスメントコメディ」と銘打たれていたが本当にそうで(Twitterにも同じことを言っている人がいた)、キリキリと、ジリジリと劇場に縛りつけられる心地、久々だった。笑えると笑えないの淵をふるふると震えるような足取りで、前半は笑えるのに、だんだん笑えなくなってくる。しかもそれはすごい、滑らかなグラデーションで、だんだん笑えなくなる。どこで立ち止まれたのかわからないくらいゆっくりだった。
これが最初に作られたのは2020年なんだよな、ということを思い出すとあの時の前に進んでも後ろに進んでも地獄と言わんばかりの閉塞感を思い出す。誰が悪いのだろうか、なんでうまくいかないのだろうか、本当はこうしたいということがわかっているはずなのに、できない、というにっちもさっちもいかなさが辛い。
勤怠切られたあとに働かされるバイト、バイトのミスで材料のないガパオが発注されてしまう店長、はやくひき肉を届けないといけないし早く退勤したいのに先輩に足止めされるバイト、そのせいでウーバーの配達員に急かされる店長、困るウーバー配達員、あげたらキリはなくて、誰かのどうしようもないことが相手を苦しめ、その苦しみでさらに苦しみだけが搾り取られていくのが、作中の現実なのか作中作品の稽古の中身なのかわからないという、不思議なループの中で強固になって、だんだんギチギチと膠着していく。部屋に入ってくるだけで空気をギン、と凍らせる尾上さんのボルテージが上がっていけばいくほど、どうにもならない。矢野さんも「どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ」と言う。
そして、店長がウーバー配達員に土下座を求め声を荒げていっても土下座をしない凍りついた場の、その後ろでふっと尾上さんが立ち上がり美波を睨め付けたときから、作中現実と作中作がギチっとそこで止まってしまう。
最初は、真隈くんが稽古場で延々とその場で家に帰ったり、バイトの世界に戻っていくことや、めちゃくちゃ大きなエビフライを笑うことができる。あまりにもあり得なくて、そんなのあり得ないとフィクションとして馬鹿にできる。実際真隈の行動は金丸さんにずっとツッコまれている。
でも、作中現実では、もうこれはどう考えたっておかしいということを、おかしいと指摘できないところまで転がっていく。その代わり、尾上さんの、もっとリアルにさ!!とか、もっと自然に!!とか、ここは壁だから、ちゃんとドアから出て行って!というフィクションの中に対するリアリティへのツッコミ、脅迫感は膨れていく。
現実のおかしさは、紛れもなく彼らにとっての現実として彼らの眼前に存在しているのにどうにもできない。フィクションじゃないのに(というか、から)ツッコミが入れられない。ツッコミをかろうじて入れられそうなのは真隈だけだった。現実とフィクションが逆転してしまう。
真隈の告発も諦められ、作中作公演当日にまで転がってきて、そして、膠着が内側からぶち壊されていってフィクションがいかに自由かを謳歌するラストになだれ込んでいく。
あんなに滑稽だった真隈の家への帰宅が、舞台の上では成立した世界になって、できなかった花見も、間に合わないガパオライスも、全部舞台のフィクションの中に飲み込まれて、舞台の上のリアリティをばりばりと食い破って壊していく。
何やってるの?本番なんだけど、とキレる尾上さんに、本番だから、と言いながら突っ走っていくところは爽快感と解放感に満ちている。英語版のよくわからない蛍の光、笑った。そうしてそのまま尾上さんもフィクションに飲み込まれていく。
最後、あれほど何度もここは壁だって!と怒られたカーペットの境目のばってん印を超えて向こう側に消えていく真隈で幕は閉じる。
そういえば今日、最近コロナになってから花見してないですよね、って会話したばっかりだったなぁと観ながら思った。だから、フィクションのアクロバットな跳躍が嬉しかった。花見もできる。
フィクションの結末が、それはなんでもできるフィクションだからできることじゃん、現実はどうすればいいのよ、という内容であることに落胆する時期があったけれど(例えば結局これをみても現実の私はマスクなしの大規模花見宴会はできない)、今日の劇団スポーツの結末は、それでもフィクションにしかできないことをできるからこそフィクションは愛しいんだった、ということを肯定できる気持ちになれて嬉しかった。
一緒に観に行った人が、会場を出るなりはっきりとした声で「よかったですね、すごくよかった、今日観に来てよかった」と言っていて、もっと嬉しくなった。結局のところ、こういう風にフィクションを一緒に喜びあえる人がいたり、こういうフィクションを作る人がいるということ自体が、現実の自分を支えてくれる面があるにはあって、どうにもならないな、ということともなんとかやっていけるかもという気持ちのきっかけになるからだ。
観劇中ずっと、真隈という名前は幕間という文字に変換されていたけれど、真隈くんは確かにずっと幕間みたいな存在だったなぁと思った。劇と劇の間の現実の時間みたいな、境界線上の人だった。壁を突き破るように動いたり、舞台上でバイト先から稽古場、稽古場から自宅、稽古場からスーパーとあらゆる場所への移動の境目にいたのは真隈くんだった。そもそも最初に王子小劇場にいる観客への注意喚起をしながら『怖え劇』の中に移動していく存在でもあったし。
彼によって、作中作は現実に縛られた状態を内側から食い破られることになるのだ。
今日は、朝から伊坂幸太郎の『3652』というエッセイ集を読んでいて、伊坂の語る小説の現実離れさにしみじみしていたので、とてもタイムリーなのもあった。
フィクションをもっと、荒唐無稽なものとして楽しんでいきたいな、と思った。フィクションは現実離れに跳躍して行った先に、フィクションの果実があるなぁってとてもいい気分になった一日だった。