いろんなものが見えてしまう
シラカンの『ぞう騒々』の感想なのですが、上演からかなり経ってしまって、私の記憶もだんだんと曖昧になっているので、ふわふわとした形でしか語ることはできない状態です。ですが、みえないものを観ようとする営みについてとか、いろいろ考えたことをぱらぱらとゆるく書いていきたいと思います。
観た後、感想を話したり、他の演劇をみたりした中で思ったのは、同じ空間にいる肉体を伴った人間が、普段はあまりしないであろう動きをしていると、それは結構な不安であるということだ。
たとえば、電車内でそういうぴりりとした緊張が生じた瞬間に居合わせたことは、大抵の人が経験したことがあるのではないかと思う。キンッと空気が凍る。そして、乗客同士のちょっとした腹の探り合いのようなことが生じることもある。演劇の面白いところのある一点として、そういう電車の中の緊張感みたいなものがあるかもしれない、と思った。
シラカン『ぞう騒々』では、かなり冒頭の段階で、奇妙な肉塊を抱えた人が「僕の家族なんです!! 助けてください!!」と動物病院に転がり込んでくる。明らかに、命を取り戻しはしなさそうな肉塊(元犬)、どれだけ獣医に無理と言われても引き下がらない飼い主(彼は綱吉さんという)。そしてその獣医(はなの先生)に恋するワーウルフ(狼8割、人間2割の生物だと主張している)、つまり狼男もいる。彼は結構優しいので、はなの先生に無碍に断られた綱吉さんのためにか、肉塊をぺろぺろ舐めて癒そうとする。
なにが、なにが起きているのだ、という混乱状態である。観客は、電車内の腹の探り合い状態と言っても過言ではない。なにを基準になにをみようかという腹の探り合い。
ちょっと話はそれるのだけれど、1年とちょっと前くらいか、小さな会場でオムニバス形式で様々な作品を観たことがあった。その日はたまたま、お子様デー的なもので、会場にそこそこな人数のちびっこがいた(そのときのnoteの記録はこちら)。
そのときに面白かったのは、子ども向けにという配慮からか、舞台上の人が客席に向かって「ぼく、〇〇なんだ〜、これから〇〇するね〜」みたいに話しかけてくるスタイルで上演していたことだ。
すると、ちょっと年上の男の子が、「〇〇とかおかしい!へん!」と、舞台上で展開する虚構にばりばりツッコミを入れ始めたのである。サンタは実在するんだからね、みたいなちょっと鼻にかけた様子の指摘である。でも演者が話しかけてこない作品のときは、彼はずーーっと黙って観ているのだ。おとなしい。
対して、このツッコミボーイより年下の女の子は、演者が話しかけてこないときはずっと不安そうにしていた。
ツッコミボーイは、舞台と客席は隔てられていて、舞台上で起きていることは現実ではなく虚構、という暗黙のルールのことを、なんとなく会得していて、だから演者が話しかけてきたときだけ、ここぞとばかりに舞台上の虚構に対して、それ嘘じゃん〜〜と、ツッコミを入れまくっているのだろう。向こうが舞台と客席を隔てて、虚構を成立させるルールを破ったんだからね、それならぼくも現実で応答するよ、ということである(そんなこと思ってないだろうけど)。
対して、女の子が不安そうにしていたのは、きっとそのルールを会得する前だったからで、男の子は客席、にいたのに対して、女の子は舞台上にいる人と同じ部屋、にいて、なぜこの人たちは私を無視していろいろしているのだろう、という怖い気持ちになったのだと思う。
舞台上と観客の間には言葉による会話が発生しない、舞台上の人は客席に向かって何かをする、という想定で観客は足を運び、その作品が観客に向けて発されているということで、会話ではないが広義のコミュニケーションとして、それを受容している。
だから観客は、なにを伝えたいのかな、とか、この舞台上ではどういうルールの虚構が進行しているんだろう……?と考えながら、その世界を把握し、舞台上で進行する物事をよくみよう、感じよう、わかろうとする。
たとえば、ワーウルフ、と聞いたら、「あー、ワーウルフがいるって世界線なのか〜」と思う。ワーウルフ自身が、さも当たり前のように自信をもって、ワーウルフだ!と宣言するので、観客は、そういうルールね〜と思うわけだ。
しかし、そこではなの先生がそんなのいるわけないじゃんの態度をとる。「あー、ってことは、ワーウルフはそういう変わったことを言い張る人で、この世界線にはワーウルフはいないのね〜」と、観客は認識を改める。というように、観客は舞台上で起きていることをどのように理解して、どのように観るのかを探るのである。
そういう風に『ぞう騒々』という作品は、こういう話なんだよ〜と思わせたり、別にそんなことではないんですけどね、という風に思わせたり、観客を揺さぶっていくのである。
観客は、舞台上の狂気じみた行為を常識として捉えるように観ることもできれば、舞台上の狂気じみた行為を狂気として捉えることもできる。
我々は蕎麦屋で、扇子を出されたらえっ?ってなるだろうし、蕎麦屋に入った瞬間自分以外のお客さんが、扇子で蕎麦を啜るふりをしていたら、怖すぎてドッキリか夢か……と思うかもしれないが、落語家が舞台上で扇子を使って蕎麦をずぞぞーとしていたら、なんの疑問もなしに、蕎麦ですね〜と思うように、舞台上では「これはこういう風なものに見えるというルールです」という魔法が効くようになっている。
しかし、舞台上の人々の振る舞いによっては、扇子で蕎麦食べるなんて変なの!というのを舞台上で指摘し、観客も舞台を見ながらあの人扇子で蕎麦食べてる変なの〜、と思うことができる。
肉塊(ココロという名を持つ)は結局のところ、はなの先生が綱吉さんからココロへの輸血を手伝うことで、動くようになるのだが、その瞬間に舞台奥にある「どうぶつ」と書かれた看板がぴかーっとひかるのである。「ぶつ」だけが光っていたところ、ココロが動いた瞬間に「どう」も光って「どうぶつ」となるのである。
それをみて観客は、はあ〜ん、無生物が動くようになるんだね〜生き返ったんだ〜と思うなどする。
そして、生き返ったから犬としてみればいいのかな……と怪しげな肉塊のまま動くココロを生きた犬として観ていると、なんと日に日に臭くなっているらしく、え、いきてるんじゃないの、腐ってるの……?などと、混乱の渦に巻き込まれる。
綱吉さんも、はなの先生も犬だっていうから、そういうことだと思ってみていたら、それは舞台上の狂気で、舞台上の現実から照らしてみると、観客もまた狂気をもつ存在であることになるのだ(裏切られた!)。そういうことが何度も起こる。
作中に、綱吉さんが、はなの先生の白衣を着たワーウルフのことを、はなの先生だ、と思うシーンがある。白衣を着ている人=はなの先生というわけだ。それをみてると、やっぱ綱吉さんやべえ人だ……と思うのだが、実は観客も同じことをやっている。
はなの先生役の俳優の方は1人で2役やっており、はなの先生はいつもワンピースに白衣だが、もう1人の心という役は緑色のワンピースに赤いカチューシャの出で立ちなのである。演技もあるので服だけ、というわけではないが、観客も同じ人を違う人だと思って、ストーリーを追うことは自然にやっている。
終盤、狂気は加速、加速、加速して、輸血を介してどんどん登場人物が変身していく。そして、はなの先生は、象になる。
さすがに、真面目な顔して象のふりをしたはなの先生が、草をたべていると、めちゃくちゃ面白い。笑う。
ツッコミは客席の感情をタイミングも感情も代弁したときに笑いが起きるとよく耳にするが、あまり腑に落ちていなかった。しかし、この作品のことを思い返して人が笑っていたところとか、自分が笑っていた瞬間を思い出すとわかる。
このやばいやつ、笑っていいんですかね……よくわからんのですけど……おたおたしているところで、ツッコミがこいつやべえよ!って保証をしてくれると「あ、やっぱり!」と安心するから笑うのだ。だよね〜〜みたいな。
緊張と緩和、というのはボケのやばすぎる動きに対する「なんやこれどうやって処理しよう……」という緊張と、ツッコミによる観客の感性の保証による緩和ってことか〜〜となった。
ちょっと話がずれた。つまり、はなの先生が真面目な顔して象のふりをしていることが、あまりに突飛すぎて、ツッコミなしでももうそれだけで「やばすぎますから!」と、観客が心の中で自信をもってツッコめるので、それはボケとして成立して、めちゃくちゃ笑ってしまうのだ。象のふりをした人が手を鼻のように動かして草を食べてるときみんな笑っていた。
全然違うシーンなのだけれど、ワーウルフがフリスビーをやるシーンというのがあり、ワーウルフは犬科の血が騒ぐ(らしい)ので、フリスビーを投げられてはとってきてをしている。そのフリスビー、黒い持ち手が付いている。
ワーウルフは、その黒い持ち手をもって、わ〜〜〜っっとフリスビーを自分の前に浮かせつつも、一生懸命自分で取ろうとする。(現実では)自分で持ってるくせに(ワーウルフとしては)自分の前をとぶフリスビーのため、1人で追いかけっこのような奇妙な絵面になる。
ここにフリスビーを持つ黒子がいればそこまで笑わないと思うが、フリスビーに夢中なはずのワーウルフが自分で黒子役をしているので、もうそれは見え見えの嘘すぎるのだ。
そういう見え見えの嘘を笑うわりに、同時に明らかに犬ではない肉塊を犬として扱いながら、演劇を観ているのだけれど。
そしてこの作品では、登場人物はみんな恋をしており、めちゃくちゃ視野が狭い。恋は盲目を体現している。
例えば、はなの先生は綱吉さんにメロメロなのだが、そんな彼女の目からみれば、肉塊に執着するサイコな綱吉さんは「犬にとても優しいから優しい人」となる。
あれ、そういうことを冷静な目線のつもりで見て笑ったりして、虚構として見るけれど、現実でもたまに「優しい人がすき」みたいなこと、言っている人いるし、恋愛をしているとき盲目になったこともあれば、なっている人も周囲にいるだろう。
笑いながら、我々は舞台上とは違って現実だからね、みたいな顔もできれば、舞台上の誰かが激しく信じているおかしなものを観客も信じて観ることができ、実はそのおかしなものを信じる行為は劇場外の現実でもたまに起きていることがある、という状況なのだ。
舞台と、観客を隔てる壁はぐちゃぐちゃに壊されていく。
『ぞう騒々』はそうやって舞台上のルールをめちゃくちゃにするので、わかりやすい見方というのはなく、なんかみたぞ!!という感じで劇場を後にした。
みた後にたくさん話して、そうか、ああいうことがあの場で起きていたのか……と、じわじわ理解されてきた。観た直後に、友達とこれはどんな話だったか、ワーウルフはこうだよね、はなの先生はああだよね、みたいなことをあれこれ話しながら帰ったのだが、そこに我々が観ていた『ぞう騒々』にも私たちが観たいものが委託されているかもしれない。
振り返れば振り返るほど、楽しい観劇体験でした。
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