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【Voice!】第7回 MF10 北川滉平選手

2023年2月、シーズン始動まもなくして右膝蓋骨骨折のため離脱。

”引退”の2文字も頭をよぎる大怪我から復帰までは半年を要した。

足にメスを入れること7回目、それでもピッチに立つことを諦めず、

懸命にリハビリに取り組んだ彼の歩みを止めない原動力とは?

福井ユナイテッドFCのNo.10 不屈の漢 北川選手に話を聞いた。

プロフィール
MF10 北川 滉平(きたがわ こうへい)
1995年4月29日生まれ 静岡県島田市出身
2022シーズンにヴェロスクロノス都農より完全移籍加入。チャンスメイクとフィニッシャーのダブル・タスクも可能にする万能型のアタッカー。
選手歴:初倉FC→ジュビロ磐田U -15→ジュビロ磐田U-18→桃山学院大学→
V・ファーレン長崎→藤枝MYFC→J.FC MIYAZAKI(現ヴェロスクロノス都農)


ー 出身地と家族構成について教えてください

出身は静岡県島田市です。 3つ上に兄貴がいて、僕、親父、お母さんの4人家族です。あと、0歳から2歳までアメリカに住んでいたので帰国子女なんです(笑)。

ー アメリカ? キコクシジョ?
マジで、これマジなんです(笑)。いつも自慢するんです。生まれてすぐに、親父の仕事の都合で、アメリカのどこかに住んでましたね。自分の記憶にはないですけど、でもうっすら残ってるんですよね。なんかアメリカのディズニーとかで、ベビーカーに乗ってる絵が浮かんだり。かっこいいでしょ。
「一応英語はペラペラ」って書いてください。…嘘です、全く喋れないです(笑)

幼少期の北川選手(右) ※本人提供

ー サッカーを始めたきっかけは?
本当は野球がやりたかったんです。けど、兄貴がサッカーをやっていたので、サッカーとソフトボールどっちも体験しに行きました。僕的にはソフトボールの方が面白いなって思って、ソフトボールをやりたいって言ったんですけど、まさかの親父が「お前は野球のセンスはないからやめときな」っ感じで(笑)。多分、兄弟バラバラの送り迎えが大変だったんでしょうね。僕も是が非でも野球がやりたいわけじゃなかったんで、サッカーも楽しかったから「サッカーやろう」ってなりました。

ー 最初の所属チームは?
初倉フットボールクラブです。地元の何ヶ所かの小学校の子が集まったクラブチームだったと思います。年長のときから始めました。

ー その後はジュビロ磐田のアカデミーに進みますが、きっかけは?
当時、静岡県内でのJリーグのアカデミーはジュビロか、エスパルス。もちろんセレクションがあって、そのとき受けたのがジュビロ磐田と常葉橘中学校と藤枝東の育成クラブで、エスパルスは受けなかったです。もう行くんだったら、ジュビロでという思いでした。ただ、その当時県のトレセンとかにも入ってはいたんですけど、落ちたりもしていたので。受かるかわかんないかぐらいの、当落線上の選手だったと思います。

ー そしてジュビロアカデミーに入団
セレクションは他も全部受かったんですけど、1番はジュビロだったので決めました。家からはちょっと遠かったですけど、電車で通っていました。家から最寄りの駅までも少し遠かったので、片道で1時間20分ぐらいはかかりました。

ー ひとりで通っていた?
最寄りの駅までは親が送ってくれて、そこからは電車に乗って、磐田駅に着いたら、クラブのバスが毎回迎えに来てくれるので、それで送り迎えをしてもらっていました。

ー ジュビロのアカデミー出身といえば、押谷選手ですが?
そうですね、大先輩です。ユースでは全然被ってはいないんですけど、もちろん知ってました。知っているというか、憧れの人でしたから。去年福井にオシくんが来たときに「ジュビロユースの後輩です」って挨拶させてもらいました。

ー ジュビロアカデミー時代の思い出について
基本、僕よりも上手い選手ばっかりだったですけど、 そのときは他の選手を上手いって認めたくなくて、死に物狂いで練習をしていました。入ったときは体も小さかったし、ユースにも上がれないだろうって、多分期待もされていなかったと思います。周りはエリートばっかりだったので、 最初はついていくのに必死でした。それと移動がキツかったですね。財布とか携帯とか、電車に色々と忘れ物をして親に叱られたり、そういう思い出もあります。

ジュビロ磐田アカデミー時代 ※本人提供

ー 片道1時間半の移動は疲れますよね
中学生ですから、忘れ物もしちゃいますよね。本当によく叱られてました。「何回するんだ」って(笑)。

ー ジュビロアカデミー出身には、森下龍矢選手、伊藤洋樹選手ら日本代表に名を連ねる有名人もいます
デカリュウヤ(森下選手)は僕の2個下で、ヒロキ(伊藤選手)は僕がユースのときジュニアユースに入ってきて。ヒロキはエリートでかなり期待されていたから、僕らの年代でも知っていました。
同期だと梅村晴貴(旧姓、元富山)。今Jリーグでやっている選手だと、中野誠也(現沼津)、鈴木拳士郎(現沼津)とかかな。僕らの代は結構強いって言われていたんですが、蓋を開けると2個下は凄まじいですね。Jリーグでも活躍している選手が多いんで、僕らが弱かった世代だったんだなっていう感じです。

ー では、アカデミー時代の思い出はエリートの中で必死に頑張った思い出が強い?
とにかくうまい選手が多かったですね。下の代も上の代も。そこでどうやって生き残っていくかっていうのは、中学生ながらに学びましたし、ここで試合に出られなかったら終わりみたいな感覚もありました。だから、なんとかしてでも試合に出て、中心選手になってユースに上がってやるっていう気持ちでしたね。

ー 2011年に山口国体で優勝しました
優勝してますね。唯一の輝きです(笑)。 静岡はサッカー王国って言われているけど、ずっと国体で優勝できてないみたいなことを、すごく叩き込まれて。監督もなんとしても優勝しようって言ってたんですけど、 メンツ的に見たら、弱くて弱くて(笑)。チーム内でも「全然強くないよね」みたいな話をしていたんです。しかも予選のときに、千葉県選抜に0-5で負けて、 練習試合でも無理じゃんみたいな雰囲気になっていたんですけど、試合を重ねるごとに、 チームの結束力みたいなのがすごく湧いてきて。実力はそこまで高くなかったかもしれないですけど、チームの一体感があって優勝できた感じでした。しかも、めちゃくちゃ楽しかったし、1週間ぐらいでしたけど、そのときのメンバーと一緒に過ごした時間は、すごく濃い時間でした。

ー その後、桃山学院大学を中退し、V・ファーレン長崎に加入しました
ユースの頃から「プロになりたい」って言っていたんですけど、 トップに上がれないことが決まったので、他のクラブの練習参加に行く話になりました。ただ、練習参加の2週間前とかに足首を骨折して手術することになって。全治4ヶ月だと練習参加もできないし、 進学しかないってところで、桃山学院大学に行きました。ただ、僕自身はどこかのタイミングで練習参加に行って、 Jクラブに入りたいって思っていました。

ー V・ファーレン長崎へ加入した経緯は?
たまたま兄貴が長崎大学の学生で長崎に住んでいたんです。大学1年のときに怪我も治って、コンディションもちょっと良くなっきたタイミングで、知り合いにV・ファーレン長崎の人がいると話を聞いたので、兄貴に繋いでもらったのがきっかけです。当時の長崎の強化部長が服部さん(現福井U社長)でした。

ー 珍しいつながりですね。念願のプロ選手となって、どうでしたか?
バチバチに鍛えられましたね。もうメンタル潰れるんじゃないかってぐらいまで。これがサッカー界の愛なんだって思いながら(笑)。

ー プロの世界は違った?
プロ1年目だったので、ちょっと落としのパスとかワンタッチダイレクトの落としをミスったら「外で見とけ、練習来なくていいよ」みたいに言われましたし、怖かったですね。でも、厳しさだったり、求めているところの高さだったり、学ぶことがすごく多かったです。1年目の最初の方は、もう戦力外みたいな感じだったんですけど、その時間から学ぶ部分もありました。でも、シンプルに厳しかったですね(笑)。

ー 長崎で2年半過ごし、藤枝に移籍しました。その経緯は?
長崎では出場機会がなかなかなくて。 チームを探していたところに、藤枝がオファーくれたっていう感じです。

ー 藤枝は実家からも比較的近い?
車で20分ぐらいですね。実家から通えてたので、それも決め手のひとつでした。だから、地元に帰って「やるぞ!」っていう気持ちは強かったんですけど、それが逆に良くない方向に行ったというか。2年半所属していましたけど、2年間は肉離れの繰り返しの連続で、怪我しかしてなかったですね。最初の半年は怪我せずプレーできたんですけど、次のシーズン開幕スタメンで出て、2試合もスタメンで出て、ここからだぞっていうときに、半月板を損傷して手術に。そこからしっかりプレーできなかったのでメンタル的にもキツかったです。リハビリ三昧でしたね。

ー ここまで振り返っても、怪我に苦しんだ時間が長いですね
左足首3回、半月板3回、膝蓋骨で合計7回手術しています。ジュビロユース時代も1年半ぐらいは怪我で参加できていないので。もうボロボロですね。自分でもよくサッカーできてるなって思います。

ー 藤枝も怪我でなかなか試合に絡めず、J.FC MIYAZAKI(現ヴェロスクロノス都農)に移籍しました
藤枝ではシーズン最後にギリギリ復帰したんですけど、満了になってトライアウトを受けました。そのタイミングで福井に自分から売り込んでいたんですけど、タイミングとかもうまく行かなくて、そのときは決まらなかったです。

ー J.FC MIYAZAKI時代、2020シーズンの全国地域SCLでは福井と対戦しています。そのときの印象はありますか?
当時はなんかプロっぽいクラブだなって思っていました。サポーターの熱も凄かったし、弾幕の数も凄かった。サッカーはあんまり覚えてないですけど、でも「サポーターの熱さ」のイメージが凄く記憶に残っています。福井凄いなって思ったんですよ。地域リーグっぽくないなと思いました。

J.FC MIYAZAKI時代の北川選手(中央)。2020シーズンの全国地域SCLでは1次ラウンドで対戦

ー そして2年越しに福井へ加入しました
今回は環境を変えたくて、九州リーグでも得点王を取ったり、ベスト11を取ったりしたんですけど、リーグ自体のレベルも高くなかったし、環境を変えて新たなところでやりたいっていう気持ちがあったので移籍を決めました。都農とも契約延長の話はしていましたけど、福井で服部さんと話して、福井に行くことを決めました。

ー 街やサッカーも含めて、福井全体の印象は?
正直、福井に来たときちょっとミスっちゃったって思いました。宮崎いれば良かったって(笑)。

ー それはなぜ?
2022年は大雪で。福井に着いた日に、駐車場の雪掻きからスタートしました。なんか空がどんよりしてるし、宮崎とは真逆だったので。あと、寒いところは初めてなんですよ。静岡、長崎、宮崎って雪に縁がない地域ばかりだったので。

ー サッカーの方はどうでしたか?
サポーターの感じとかも凄いイメージ通りだったし、クラブのイメージも、クラブ規模も、そういう熱さとかは本当に見たままだったので、そこに関しては来て良かったなって思いました。チームは監督が藤吉さんに変わって、後ろから繋いでいくサッカーは、僕もやりたいサッカーだったし、本当にサッカーに関して来て良かったなって思っています。

ー 福井に来て1年目終盤から昨年にかけて怪我で苦しんだ時期もありました
2022シーズン、ハットトリックを達成した富山新庄クラブ戦で、腓骨骨折をしてしまい、翌年2月のシーズン初戦のトレーニングマッチ、復帰戦で別の箇所を怪我しました。服部さんには折れた音、割れた音というか、乾いた音を聞いたって言われたんですけど、「折れてない。打撲っぽいです、大丈夫です」ってちょっと強がっていたら、帰りのバスの中で腫れて、象の足みたいになって。焦って救急外来に連れていってもらいました。

第48回HFL1部第12節の富山新庄クラブ戦は前半だけ3得点を記録したが、怪我により途中退場

ー この怪我が1番長かった?
長引きましたね。思い出したくないですけど、6か月かからないぐらいでした。これまでの怪我も 6ヶ月っていうのはあったんですけど、1番しんどい怪我でしたね。メンタル的にも、家族の反応とかもあるし、立て続けのオペっていうのはキツかったです。

ー 今回の怪我もそうですが、ドクターから難しいって言われたことはありますか?
ドクターストップはないですけど、膝蓋骨を怪我したときは「復帰までどのぐらいかかるかわからない」って言われました。全治的に、もしかしたら年単位かかるかもしれないし、 うまくいけば半年とかでいくかもしれないけどって。今回、凄く珍しい骨折の仕方をしちゃって。膝蓋骨が卵みたいな形なんですけど、卵の下のところの破片っていうか、殻がちょっとピラって割れちゃって。それをくっつけるのがあんまり症例にないらしくて、珍しい術式でオペをしていただきました。 普通だったら、膝蓋骨は丸いんでテンションワイヤーっていうバンドみたいなのでくくってつけちゃうんですけど、それをサッカー選手がしちゃうと、筋力が戻らなかったり、その後に影響がでてしまうそうなんです。

ー そうだったんですね。執刀医は春江病院の岡野先生に?
春江病院の岡野先生にしてもらいました。僕はジュビロのドクターとかにもたくさんオペをしてもらっていたんで、どのオペが良いかとかも相談していただいたりと、岡野先生には感謝しかないですね。しかも、骨折と診断されてメンタルがボロボロの夜に、岡野先生が直接電話をくれて。普通だったらそんなことはしてくれないと思うんですけど、 多分僕のメンタル状況とか、そういうのを踏まえてすぐ電話してくれたんですよね。三重遠征中の怪我だったので「福井に帰ってきたらすぐ病院の日程とかについて話そうか」って言ってくれて。あとは、人と一緒にいたくなかったんで、そのときは宿泊先に1人部屋を急遽作ってもらったんですけど、1人でいたらちょっと訳わからなくなりそうだったから、 当時のトレーナーの山本にずっと一緒にいてもらってました。

ー 度重なる怪我を乗り越えてきた原動力は?
やっぱ1番は「サッカー好きだから」ですかね。怪我をした瞬間、もう引退やなっていうのは毎回頭をよぎります。特に藤枝時代や福井に来てからの怪我は、 もう引退かなってちょっと思ったりもしましたし、それは周りの人も含めて、あいつ終わっちゃうなって見られていたと思うんでけど、家族の存在は大きいですね。子供も生まれて、家族のために頑張ろうって思いますし。僕、奥さんとは高校生からの付き合いなんですが、僕が怪我をしてる姿しか見ていなくて、いい景色を見せてあげられてないんですね。だから、その奥さんのためにも今年こそ、良い景色を見せてあげたいなって思っています。昔は自分のためにサッカーをやっていましたけど、今は自分のためもありますけど、人のためっていうところが少し変わってきましたね。家族のためにとか。僕の親もサッカーがすごい好きで、 ほぼ毎試合見に来てるんで、両親にも良い景色を見せてあげたいんです。

ー 凄くいい話ですね
でしょ。カットしないでくださいね(笑)。

ー 精神面で言うと怪我とは違うんですが、PKを蹴り続けるそのメンタルについても教えてください
いや、それめっちゃ言われます。あんなに外すのによく蹴れるねって。これ褒められてます?(笑)。

ー 褒めています。PKを外した後も、迷わずボールを取りに行くのは凄いと思います
ただ点を取りたいっていう純粋な気持ちはあります。PKはどれだけ外しても、 いや、外すのは良くないですけど(笑)。ただ、外した悔しさってのは決めないと払拭されないと思うんで、 外しても何回でも蹴り続けたいなって思います。自分がPKを取ったら絶対譲らないですし、でもPK練習とかを見てると、全然僕より上手いなって思う人はいるんで、ちょっと譲ろうかなって思うときもあります。ツグくん(大石選手)とかメッチャ上手いんですよ。だから、この前練習で僕がPKを取ったんすけど、ツグくんに「蹴る?」て聞かれたんで「蹴ってください」って言っちゃいました(笑)。でも、これからも蹴りますよ。

ー 先程インタビュー中に服部社長も見えましたが(笑)自身のキャリアに影響を与えた人について教えてください。
今はもう連絡は取ったりしてないですけど、小学校の頃の監督は僕を上手く扱ってくれて、上手にさせてくれた方の1人なので。あの方がいなかったら、多分ここまで続けてこれなかったと思いますね。いまはもう初倉FCにはいないですけど、中村監督って方です。

ー 印象に残っている指導方法やエピソードはありますか?
指導方法とかは特に覚えてないんですけど、1人の人間として上手く扱ってくれました。当時の僕は一匹狼みたいな感じで、周りに文句ばかり言って、1人でドリブルして、好き放題のプレーをしてたいんですけど、 それでも「お前はそれでいいんだ」みたいな。凄く僕のことを尊重をしてくれたし、「ピッチの中では自分が1番上手いと思え。でも、ピッチの外では誰よりも謙虚に、練習し続けろ」って言われたんです。その言葉がずっと僕の心の中に残ってます。強い相手やカテゴリーが上の相手と対戦しても、自分が上手いと思ったら勝手にプレーは良くなってくると思うんです。メンタルで負けたらサッカーって上手くいかないスポーツだと思うので。小学校でサッカーはメンタルスポーツだっていうのを教えられた気がして、凄く感謝しています。あとは、やっぱり手術をしてくれた岡野先生。って書いてくださいね(笑)。

初倉FC所属当時の写真 ※本人提供

ー 確かに怪我からの復帰には、メディカルのスタッフのチカラ、サポートは欠かせないですよね
正直、膝蓋骨をやったときはもう引退やなって思っていました。ただ、岡野先生がすぐに治療方針決めようって、「引退」の二文字を言い出す暇もなくしてくれたっていうのは大きかったです。本当に親身になってサポートしてくれましたし、自分のこともリスペクトというか、僕の気持ちも理解してやってくれたので、本当に感謝しています。

ー 福井加入3シーズン目、今年は怪我もなくフルで走れています
そうですね、まずは怪我しないってところでは今のところ、大きな怪我なく1年間走れています。 ただ、ここまで走れていても、最後のとこで躓いてしまったら全く意味がないので。この地域リーグっていうのは、11月の全国地域SCLが1番大切で、そこで結果を出せないとダメなので。福井に来て、1番良いパフォーマンスを出せるようにしたいです。

ー 去年の全国地域SCL 1次ラウンドでは負けなかったけど、決勝リーグに進めませんでした
去年は凄く良いチームでしたけど、上がれなかったっていうのは、あれが僕らの実力だと思いますし、それは去年いた選手は十分感じていると思います。だからこそ、今年はそこにプラスアルファで上積みしてきてると思うので。負けないっていうのも大事ですけど、しっかり3連勝しないと上がれない世界だと思うので、3連勝できるように頑張りたいなと思います。

全国地域SCL2023 1次ラウンドは、3試合出場1得点、チームは総得点1の差で1次ラウンド敗退

ー 最後にオフのことについて伺いたいんですが、趣味は?
娘のパパ嫌いが凄くて。僕は(育児を)やりたい気持ち満々なんすけど、寝かしつけもさせてくれないんです。 で、その寝かしつけができないことで、家庭の立ち位置がどんどん悪くなってくるので、サッカーと一緒ですね。なんとかして挽回したいと考えています(笑)。娘が手足口病になったときがあって。そのときは奥さんよりも看病して、娘のポイントを稼いだろって考えてました。

ー 子育ては簡単ではないですね
子育て難しいですね。こんなに子供を育てるの大変なんだって実感しています。可愛いですけど、 こんなきついんだなって。でも、僕が家に帰ったら「パパ」って一応来てくれます。毎回じゃない、機嫌がいいときだけですけど、めっちゃ癒されます。そういう癒しがあるのが、頑張れる源ですね。

ー チーム内でのパパトークは?
パパ多いですよね。2歳ぐらいの子が多くて。ツグくん家もそうだし、ケンジ(北脇選手)くん家も1個下でいるし、 将平くん(奥野選手)家もいるしね。ウチはこうなんだよとか、それは奥さんの機嫌取らなだめですねとか、そういうのはあります。

ー 先輩パパからのアドバイスとかは?
そこに関してはスギちゃん(杉本選手)とかが多いですね。スギちゃんとは家族ぐるみで一緒にご飯食べたりするんですけど、まあ相談っていうか、愚痴を聞いてもらってる感じかも(笑)。

ー マイブームのコーヒーについて、こだわりはありますか?
特にないです(笑)。 ただコーヒーを飲むっていうしかない。でも、カメイ珈琲店さんには、たまに買いに行きます。今度アイスコーヒー買いに行こうかなと思ってるんです。 凄いコーヒーも美味しいし、なかでもバナナプレッソが1番美味しいです。

(ライター/細道 徹)