【Voice!】第10回 MF14 奥野 将平
2020シーズン途中に、豪州のクラブから加入した経験豊富なMFは2024シーズン終了後、福井の地で現役引退を決意した。
大学卒業後、北欧ラトビアのでプロデビューを果たすと、東欧の強豪国セルビア、ポーランドのトップリーグでプレー。
豪州のセルビア系クラブではリーグMVP受賞するなど、海外4カ国6クラブで活躍しただけでなく、福井でも全国地域SCLにクラブ史上最多の4回出場など、レジェンドと言えるスタッツを残した。
まさに”俺たちの奥野将平”が、波乱万丈のキャリアを振り返る。
ー 出身地と家族構成について教えてください
出身は大阪府堺市です。父、母、二つ上の姉の4人家族です。
ー どんな子ども時代でしたか?
大阪の田舎もんですね(笑)。堺市堺区は、森永(秀紀)の地元。泉北地区は、泉北ニュータウンと言って一気に団地になったところですが、僕の住んでいたところは、ニュータウンにならなかった田舎です。 地元のだんじり祭にはサッカーを休んで行くぐらい好きでした。
ー サッカーを始めたきっかけは?
チームに入ったのは小2のときです。並行して野球もめっちゃ好きで、ソフトボールでピッチャーをやって、ウインドミルでバチバチ投げていました。いまだに投げられます。右投げ左打ちでイチローモデルを全部揃えて、リストバンドは、新庄の真似をして赤で5の刺繍を入れていました(笑)。
ー 野球は誰かの影響で始められた?
父が町内のソフトボールをやっていて、堺市で一番になるようなチームでした。父が仕事終わりにソフトボールをしに行っていたので、僕はサッカーの練習が終わって、ご飯を食べたら野球をしに行っていました。
ー サッカーと野球を並行してプレーしていた?
でも、チームに入っていたのはサッカーだけ。小学校の野球チームには、サッカーがないときに行っていました。
ー 最初の所属チームは?
ガンバ大阪堺のサッカースクールです。ガンバは大阪と堺と門真って3チームがあり、その一つでした。
ー それはセレクションを受けて入られた?
当時はセレクションはありませんでした。今は多分あると思いますけど。当時は堺市の小学生はガンバ堺か、青英学園という稲本潤一(元日本代表/現川崎育成部コーチ)を輩出したところのふたつくらいで、ガンバは家からめちゃくちゃ近かったんです。
ー そのまま中学生ではG大阪ジュニアユースに。野球は?
中学校からはサッカーだけでした。でも、だんじり祭には中3まで欠かさず行っていました(笑)。
ー 高校は興国高校に入学。その経緯について教えて下さい。
中3のときにガンバ堺のトップチームが興国高校のサッカーフェスティバルみたいなものに参加していました。そのとき、セレッソ大阪から来ているブラジル人のコーチから「今日良かった選手」に選ばれて、そこで声を掛けてもらいました。
ー 当時からC大阪とのパイプ、提携はあったんですね。
僕が学生の頃は、週1で水曜日だけセレッソのコーチが教えに来てくれていました。多分、タツヤ(和田選手)の時代は専属で来ていたと思います。今の監督(六車氏)もセレッソの下部組織でコーチや監督を務めていた方なので。
ー 和田選手は同級生に南野拓実選手(モナコ)らC大阪ユースに所属していた選手が通っていた時代と聞きましたが、奥野選手の世代ではどうでしたか?
僕は、山口蛍(長崎)と丸橋祐介(鳥栖)と一緒の代ですが、当時のC大阪ユース選手は晴明学院に通っていました。2個下の杉本健勇(大宮)あたりから、だんだんと興国高校に通うようになりました。高2の夏に武者修行的な感じで僕ともう1人の選手がセレッソユースの練習に行かされましたが、蛍とかは当時から本当に凄かったです(笑)。
ー 当時の興国高校はどんな感じですか?
大阪一のヤンキー高(笑)。入学してトイレに行ったらリーゼントかましてる人らが「こいつはどこどこの番長で、あいつはどの番長で」みたいな話をしていました。それがだんだん友達になったり、喧嘩したりみたいな。興国には岸和田の子らも多いんですよ。髪をガッツリ刈り上げているので、マジで頭髪検査に引っかからない(笑)。学校祭のときは他校から喧嘩を売りに来るので、学校の周りをパトカーが徘徊しています。入学前に願書を出しに行ったとき、外で入学志望の列に並んでいたら頭上からなにか降ってきたんですよ。うわって避けるじゃないですか。そしたら傘がゆっくり降ってくるんです。おちょくられてるんですよ、ヤンキーに。僕が入学したら窓は開けられないように頑丈にロックされていました(笑)。
ー 前回のnote(尾崎選手)でも刑務所のような高校に通っていたとの話がありましたが(笑)。サッカー部の方はどうでしたか?
そんな時代なので、僕らがサッカー部の選手を集め出した1期生なんです。だからまだゴリゴリのヤンキー高でした。
ー サッカー部の内野監督(現奈良ユース監督)は、当時から特殊なトレーニングをされていました?
はい、内野監督が2年目のときです。まだ総監督がいた頃でしたけど、ああいうトレーニングの走り出しですね。そこまで種類はなかったですが、特殊なことはやっていました。
例えば、目を瞑って基礎練習をします。二人組で基礎練のインサイドをするとき、半分ぐらいまでボールが来たときに目を瞑って、パッてボールを投げられた瞬間にどこに来るかを予測する。だから、ボレーシュートとかも上手くなりましたね。そんな練習は最初からやっていました。新しかったですし、高校で一気に伸びましたね。
ー 大学は阪南大学に進学しました。その経緯は?
内野監督が高知大学出身だったので、高知大学が関西遠征をしてるときに「行ってこい」っていきなり行かされたり、阪南大もよく行っていました。あとは、当時内野監督は高田FC(現ディアブロッサ高田FC)でプレーしていたので、夜練習に行くときに一緒に車に乗せてもらい、練習に行ったりしていました。色々経験させてもらい、その中から選びました。
ー 大学時代には総理大臣杯優勝とか、素晴らしい成績を残されていますね。
でも、入学したときはこの大学でトップチームで(試合に)出るのは無理だなって思いましたけどね。 僕は大阪でも無名中の無名高校の1期生。選手権も大阪府ベスト16までしか行けなかった。かたや選手権とかテレビで見てた選手らが沢山いる大学。でも、大学1年からトップチームには入れてもらえていました。そのときからですね、センターバックや、サイドバックでもプレーし出したのは。
ー 聞くのを忘れていました。子どもの頃のポジションは?
これが本当に今と一緒で、全部のポジションをやっていました(笑)。でも最初はFWとか前の方。ボランチよりも前だったら点を取りに行けるぞっていう小学生時代でした。センターバックでは、点はなかなか取れないなと思っていたけど、ボランチまでなら少しは点を取りに行けるなって。でも、基本はトップ下かFWでしたね。小6になるときにコンバートされて、センターバックをやりました。 当時G大阪のトップは宮本恒靖(現JFA会長)さんで、フラットスリーの真ん中、あれを真似していました。
ー 小6にして最終ラインから最前線までプレーされてた?
センターバックはその1年だけでした。中学校はトップ下かサイドハーフぐらいで、高校では、完全にボランチをやってました。ただ、毎回ポジションが変わるという訳ではなく、「今はこのポジションやな」「今はサイドやな」と思ったらまた変わったりして、ひとつのポジションを一生極められないみたいな(笑)。
ー でも、チームには欠かせない選手だと思います。
どうですかね、全部のポジションで1番ではなかったと思うので。でも、(試合に)出しとったらええやろみたいな(笑)。 調子がいいときは、そこで定着するみたいな感じでした。
ー正直そういう選手は珍しいと思います。話を戻しますが、大学時代は1年生がセンターバック?
大学1年の頃はセンターバックかサイドバック。2年は1個上がってボランチ。阪南大でトップチームデビューしたのはFWでした。
ー やはり変わってますよね。普通は前線でプレーしていたけど、点が取れず中盤から後ろに下がってきて、というのが多い印象です。
僕のメカニズムでいくと、冬は体がキレキレになるんですよ。 冬から夏ぐらいまでFWをやって、そこからだんだんセンターバックに下がっていくみたいな(笑)。
ー ちょっとした季節労働みたいですが、3、4年生はボランチ?
3年はトップ下でした。1番いい年で、チームが2トップの少し縦並びな感じ。ナンバー10の場所でした。4年もFWで総理大臣杯の準決勝で決勝ゴールを取り、そのまま優勝しました。その試合を田口遼(現HARIMA)が見に来ていたみたいで、2021シーズンに田口が福井に来たら、僕がボランチをやっているから最初同一人物って分からなかったらしくて(笑)。あのイメージでしか覚えていなかったと言われました。
ー 大学卒業後はすぐに海外のクラブへ。元々海外志向でしたか?
海外志向でした。中田英寿さんに影響されていたので、小学校の卒業式で一言いうときも「海外でサッカー選手になります」と言ってました。本気で考え出したのは大学4年のとき。ネットで調べると、その当時からよく出てきていたのでオーストラリアに行きたいと思っていました。
ー 最初に所属したのがFKAuda。どうしてラトビアに?
オーストラリアを考えていたときに、大学の同じ海外志向の人とtwitterで、セレクションが開催されるのを見つけて、行ってみようみたいな。それで受かりました(笑)。
ー ラトビアは知っていました?
知りませんでした。ラトビア代表vs.日本代表の試合が長居で開催されたとき、当時ラトビアのキャプテンが昔所属してた地元チームが大阪でセレクションをするってことで行きました。東京で1回、大阪で1回開催されて、大阪の方で3人受かりました。東京で受かった2人の計5人いましたが、リーグが始まる前に3人クビになって、僕ともうひとりになりました。
ー 初海外がラトビア。寒くなかったですか?
めっちゃ寒いです、本当に。まずフィンランドでトランジット待ちをしていて、外を見ていたら雪が横に降っていました。ラトビアは、まだマシだろうなって思っていたら、着陸するとき真っ白で。ここでサッカーしていないよな、絶対って思いました。サッカーがこの地にあるのかって。
ー シーズンはいつから始まりますか?
4月くらいからです。3月上旬に行ったので4月にはもう雪が溶け出して、プレーできるくらい。人工芝がアイスリンクのようにカチカチで、僕より先に東京から来た人が居たので「取り換えとか持って来られてるんですか?」って聞いたら「スパイクはいらんぞ。まず"トレシュー(トレーニングシューズ)"がいる」って言われましたが、僕トレシューを持って行っていなくて。でも、グラウンドに行ったら、その意味がわかりました(笑)。練習でも分厚いダウン着てニット帽被って、寒すぎて皮膚を出したらダメなレベル。
ー 凄い環境下でプレーしましたね。他にもエピソードはありますか?
洗濯物を外に干していたら横向きで固まっていました。朝起きたらバキバキで5枚ぐらい横に、鯉のぼりみたいになっていました(笑)。
ー ラトビアからセルビアへの移籍の経緯は?
僕はセレクションでラトビアに行きましたが、ポーランドでプレーしていた大学の1個上の先輩のエージェントが、ラトビアでも選手を抱えていました。 で、先輩にエージェントに繋いでくださいとお願いして、夜10時ぐらいにバスに乗って、首都まで行きました。帰ることも考えず、その人に会いに行って、この人を捕まえな始まらんわって、それが始まりでした。「どこの国でも行くので面倒見てください」って。
ー そこからすぐにセルビアに移籍?
「夏の移籍マーケットでどこか連れていくよ」みたいな感じで。最初は7月になったらブルガリアへ行こうと言われていたので、その気になっていたら急にブルガリアはなくなったって。でも、僕は 6月の最後の試合で監督に「辞めます」と言っていたので、チームの練習にも行けないし、ひとりでラトビアの街を走り回っていました。そこで、練習は毎日せんでもやれるなってメンタルになりましたね(笑)。朝走って、夕方からは学校の人工芝グラウンドに潜り込んで、ひたすらイメージでドリブルしていました。そこから2週間ぐらいしてセルビアに飛びました。
ー 在留邦人が少ない国だと「自分=日本代表」じゃないけど、"日本人として"という意識はありましたか?
相手からはそう見られますよね。僕の行動全てが日本のイメージになりそうなので、気を付けていましたけど、特別に気を付けるとこもなかったですけどね(笑)。「気にせず思い切りやったれ、契約がなくなったら帰らなあかんねんから」みたいな感じです。
ー 当然チームでは外国籍選手としての扱いになるので、外国籍選手としての意識とかはありました?
選手はみんな家族のためにプレーして稼いでいるので。だからぬるくないというか、はっきりしてました。僕のモチベーションは、結果を出してもっといい国に行こうみたいな感じ。この国には少ししかおらんぞって言いきかせるようにプレーしていました。
ー ステップアップを狙ってやってきましたが、クラブ規模が大きかったのはどこですか?セルビアかポーランド?
ポーランド1部の方が規模は大きかったです。EURO2012の開催国でしたから全部改修されていて、スタジアムは多分J1クラスだと思います。向こうは国技なのでサッカーが1番。バスとかスタジアムは凄いですけど、セルビアリーグの方がサッカーは上手な印象です。
ー セルビアといえば、サポーターの激しさも印象的ですね。
色々なものが飛んでいるし、爆竹でナイターの照明が飛んで真っ暗になったこともあります。バーンって銃声みたいな音が鳴った瞬間、照明が全部消えて、審判の笛だけ聞こえて試合が中断しました(笑)。
ー 日本では体験できないですね。
パルチザンとレッドスターと対戦するときは、街中に警察が沢山います。スタジアム入る前に、透明の防護シールドを持った警備隊が、100人ぐらいいる光景は初めて見ました。これを経験できたことは面白かったですね。「ここで1点取ったら世界が変わるぞ」ぐらいのモチベーションでした。
ー ワールドクラスのタレントも多かったのでは?
確かパルチザンのサイドハーフ、ミロシュ・ヨイッチは次の移籍でボルシア・ドルトムントへ行き、香川真司と一緒にプレーしていました。レベルが違いましたね。2024年7月にセルビア代表を引退したサイドハーフのドゥシャン・ダディッチ/フェネルバフチェSK)も居たし、2018年のロシアW杯のときのGK、ヴラディミル・ストイコビッチは当時対戦していました。確か日本代表が来てセルビアとの親善試合がありました。(2013.10.11 セルビア代表2-0日本代表)。チームメイトに「代表戦を見に行く」みたいな話をしているときに、勝敗予想をするじゃないですか。僕が「日本やろ」と言ったら全員に笑われました。向こうでは日本はそんな見方なんだなって思いましたね。
ー 日本代表もタレント豊富でしたが、セルビアは宝庫でしたね。
ザックジャパンのとき、デヤン・スタンコビッチというインテルで活躍したレジェンド選手の引退試合がありました。そこに、ブラニスラヴ・イバノビッチとかネマニャ・マティッチとかが居たのが衝撃でした。日本のボランチのイメージじゃない。「技術いらんやん、止めて蹴れてたらいいんや」と思うくらいボール奪取の強さが凄かったです。
ー 先程、爆竹で停電したという強烈なエピソードがありましたがその他にも印象的な思い出はありますか?
セルビアはそこまでないですが、ポーランドでは、普通に街で殺されそうになったのでダッシュで逃げました。
ー 強盗ですか?
ポーランド1部に移籍して、1個上の大学の先輩と同じチームに入りました。夜ご飯を食べに歩いていたら男三人組に絡まれたんです。僕らが日本人って分かったらそのうちの1人が「空手か?」みたいな感じの構えをして迫ってきました。鬱陶しいなと思いましたが、先輩は止まって話を全部聞いていました。向こうの連れ2人が止めてくれて「お前ら行け」みたいに助けてくれたので、僕らもご飯を食べて帰ってきたら、また、通りにいたんですよ。で、 またその男が僕らに気づいて、連れの2人が止めてくれてたんですけど、急に男が胸ポケットからメリケンサックを出してつけ出したんですよ。「これはヤバい」と思って、僕ら2人はそこから立ち去りましたが、「タッタッタッ」って聞こえてきて、パッと振り返ったら、連れの2人を振り切った男が後ろに来ていました。まず僕のところに殴りかかってきて、今度はそのまま先輩の方に。先輩も後ろにかわして「将平逃げろ!」って。200mぐらい振り返らずダッシュしました。あれが当たっていたら死んでます(笑)。
ー 強烈ですね。その後オーストラリアに移籍し、樽谷選手に出会う?
誠司(樽谷選手)も色々あって、オーストラリアで人生を変えようとしていた頃でした。僕はヨーロッパを諦めてオーストラリアに行こうと思ったのが2016年。そこで同じチームのセレクションのエージェントが一緒でした。練習参加に行く車に乗っていたら、もうひとり乗ってくるって聞いて、そこで助手席に乗ってきたのが、誠司です。「お●%&#$!(おはようございます)」って(笑)。もうギラッギラの敵対心むき出しの誠司(爆笑)。
ー 強烈な初対面ですね。
最初はエスティマかなにか、7人乗りの車に全員乗ってセレクションに行っていましたが、だんだん絞られていって、最終は僕か、誠司か、チリ人か、3人で1枠を争う戦いになりました(笑)。最後はチリ人が選ばれましたが、その頃から仲良くなり、一緒にご飯を食べに行ったりするようになりました。
僕が契約したチームは車も準備してくれたので、誠司とは世界遺産とか山とかに行っていました。観光スポットじゃないもっと絶景なところ探して、命綱もないようなガードもないような崖を2人で行ったときに、僕の帽子が飛んで。それを取ろうとする誠司に「あーお前死ぬぞ」みたいな(笑)。
色々ありましたね。誠司は1年で日本に帰って、テゲバジャーロ宮崎に移籍しました。
ー 奥野選手はその後?
2年オーストラリアにいました。オーストラリアはAリーグとは別に、日本で言う地域リーグのような、ナショナルプレミアリーグというのが1部から4部ぐらいまであります。ただ、そこには所属せず僕はイラワラ地域という独立リーグでプレーしました。そこにセルビア系オーストラリア人のチームがあって、セルビアのときのプレー動画を見せただけで、練習参加いらないぐらいの感じで決まりました。
ー 色んな民族にルーツを持ったチームがあるんですかね?
全部あります、マセドニア系とかギリシャ系とか。誠司はレバノン系かなにかの中東のチーム(笑)。みんなオーストラリアの国籍ですが人間自体は移民なので、元々のルーツのスタイルで面白いです。
ー そんななか、Youはなぜ日本に?(笑)
そこで1回引退です。海外でやりきったと思ったし、日本でやる気はなかった。大卒で海外行ったときにこっちの道で行こうと決めていたので。日本に帰ってきて普通に就職しました。そのとき結婚もしたので、安い給料でサッカーやるくらいなら、と思い就職しました。
ー 就職後はどんなお仕事を?
大阪の施工管理の会社で、神戸の芦屋とか家にエレベーターがあるような高級住宅街で家を建てるような会社。2018年の2月に就職して、1年ぐらい勤めていました。
僕が日本に帰って来た頃、誠司がJFLで試合に出ていたので大阪とか三重とかに来たら見に行っていました。7月15日のFC大阪戦* で誠司のプレーを観て、火をつけられました。
ー それで再び現役復帰を?
「仕事先になんて言って辞めたらいいんや」みたいに思いながら、仕事しててもやっぱりサッカーに関わりたいって思っていて。でも入社して半年で「辞める」とは言えず、悩みました。どうせ復帰するならオーストラリアに戻ろうかなって。前より良いとこで絶対やろうって思ったので、マッカビハコア・シドニーシティイーストFCで1年プレーしました。次の年で最後にしようと思い、最後は前所属していたチーム、アルビオン・パークホワイトイーグルスと契約しました。そしたら丁度コロナになって。そのとき子どもが生まれるのは決まっていたので、嫁は年内で日本に帰り、僕だけもう1回オーストラリアに戻りました。
ー コロナ禍でプレーはできましたか?
オーストラリアのロックダウンのルールが半端なくて、車の助手席に乗ったらアウト。ソーシャルディスタンスで同じ車に乗ったらダメとか、めちゃくちゃ厳しかったです。結局リーグは始まらず、ひたすらオーストラリアのビーチを走っていました。そんなとき、もうそろそろ国から出られなくなる、飛行機もなくなるぞっていう日本政府の情報が流れててきて、日本に戻ることを決めました。僕以外、人が乗ってないんじゃないかと思うくらいの飛行機で帰ってきました。空港にも誰もいなかったです。
ー そこから福井へ加入した経緯は?
テラさん(寺峰輝/前福井U監督)が、小学校時代のガンバ大阪堺のコーチで。僕が小2か小3ぐらいのときに、テラさんは小6の1番上のコーチでした。
だから直接指導を受けたのは1回か2回ぐらいなので、多分テラさんは覚えていないと思います(笑)。テラさんの繋がりがある方からの紹介で練習参加しました。それまではずっとビーチを走っていて、半年以上サッカーはしていなかったので怪我だけせんようにプレーしましたね。練習参加のくせに(笑)。
ー 久しぶりの日本でのサッカーはどうでしたか?
監督やコーチの指示が日本語で、チームメイトも日本語で新鮮すぎました。こんなに声で状況を教えてくれるんだって(笑)。向こうやと、ターンか相手が来てるぐらいしか分からないので。
ー 2020年6月に福井へ加入し、5シーズン在籍。安川選手と同じく在籍年数はチーム最長ですが、ここまで続けてこれたのはなぜですか?
まずJFLに上がりたい、昇格を味わいたいというのが一番でした。昇格して、JFLで1年ぐらいやれたらいいなって気持ちでずっとやっています。
ー5年前とはクラブ規模も選手も色々と変わりましたが、奥野選手から見てどう感じていますか?
まず、加入した当時とは練習環境がめちゃくちゃ違います。最初はテラさんとコーチ2人だけで練習を見ていて。社会人ってこんな環境なんだなって、ある意味衝撃でした。
ー 海外とは全く違う環境に戸惑いはありましたか?
練習に行ったら、他の選手達は練習1時間前とかに来て、マットを引いて
ストレッチとかセルフアップみたいなのをめっちゃしてるんですよ。最初は「これなんなんや?」と思いましたね。外国人ってアップしない選手は、全くしないんですよ。クラブハウスとか暖かいところでコーヒーを飲んで、それで身体を温めてるみたいな。そのまま、グラウンドに出てきた瞬間弾丸でボール蹴ったりして。怪我するでって思っていました(笑)。身体のこととかもやっぱり自分でやらないとダメだなって、日本に帰って来て思いました。あと、海外は環境がいいとモチベーションは勝手に上がる。 チャンスが多いというか、試合で結果が出たらビッククラブへの移籍のチャンスがすぐ掴める。日本は海を渡らなないとだめですけど、向こうは(陸が)繋がっているし言葉も似ている。横の移動が普通なので勝手にモチベーションは保たれます。日本では、J1とかでプレーしないと海外へのチャンスが多くない印象ですが、ヨーロッパは僕みたいに無名の選手でも、この世界に入ってしまったら一気に道は見えてくる。だから、マインドがプロになりやすいです。
ー その意味では、地域リーグの難しさはありましたか?
僕なんかは海外で色々見てきたので、自分がどうこうより若い選手が難しい環境にいるなっていうのを感じました。JFLに上がらないと見てもらえないとか、 個人で目立つにも見てもらえる環境じゃないとか。日本に帰ってきたときは、ここで若い選手らが1、2年やるくらいなら、1回日本から出てでも 2、3年後にまたここでプレーできるよって思ったり、今年本当に昇格するぞっていうチームの雰囲気がないと、昇格できなかったらサッカーを引退して就職する風潮がやっぱりありました。
ー 実際に経験がある奥野選手から見たら、海外でプレーすることはそこまでハードルは高くない?
元からスタイルが違うので、違いを出さなくても逆に目立てると思います。その代わり、フィジカルとかには最初は慣れないとダメ。これは逃げるとか、当たり方とか。
ー その5年間でこのチームも含め、環境や福井全体で変わったと感じることはありますか?
サポーターの熱量とか、応援してくれる人は増えたと思います。ファミリー感がめちゃくちゃ出てきた。でも、僕が加入した1年目とかは平均観客動員は1,000人を超えていましたし、坂井フェニックスとのダービーは坂井のサポーターも多かったのを覚えてます。あとは、リーグの選手層も厚くなったと思いますし、練習環境も良くなった。スポンサーやパートナー企業数も増えました。それと、一般のサポーターが増えたからクラブとして大きくなったなと思います。前は子どもはスクール生しかいなかったような感じだったけど、今は違う。この5年でクラブとして大きくなったなと感じますね。
ー 1番それがわかりやすかったシーンはありますか?
全国地域SCL決勝ラウンド。初日のジェイリースFC戦、僕はメンバー外だったのでスタンドから試合を観戦していました。平日なので、最後のVONDS市原FC戦と比べるとサポーターの人数は多くなかったですが、いつも応援に来てくれている皆さんの熱が凄かった。Jリーグのサポーターの応援みたいでしたよね。
ー 現役引退というのはいつ頃決めましたか?
V市原に負けて試合が終わった瞬間は「また来年か」と思っていました。
引退を決めたのは、告げる2日前ぐらいですかね。気持ちがグラグラしながら、返事をする締め切りもあったのでめちゃくちゃ考えていました。
気持ちがグラグラしているときは最後のV市原戦の後、ピッチでのザキさん(尾崎選手)のミーティングを思い出したりして。テレビとかではカットされていましたけど(笑)。みんなが泣いたりしているときにザキさんが「後ろを見てみろ」って。「あの人たちを喜ばせろよ」て話をされたときに、ホンマに喜ばせたいなって思いました。ただ、それと同時にあの応援見て「もう大丈夫かな」って。この5年でこんなにクラブが大きくなったんだなって。じゃあ、これからも応援してもらえるだろうなって思ったことを、服部社長との面談で伝えました。
ー 最後にサポーターへのメッセージ含め、印象的なエピソードはありますか?
1番は昇格させられなくて申し訳ない気持ちですかね。
でも、全国地域SCLの最終戦後、試合に負けたのにスタンドにいるサポーターが応援を続けてくれていました。本当は1番落ち込むところだと思いますが、あの声で救われた。あれを見て引退するって決断した選手もいると思うし、もう1年頑張ろうって思った選手もいると思うけど、あの光景は本当に凄かった。あの段階ではまだ来季の監督は決まっていないし、社長もどうなるか分からないけど、こんなに素晴らしいサポーターがいるからチームは無くならないなって思いました。
(ライター/細道徹)