【Voice!】第9回 DF18 尾崎瑛一郎
2021シーズン、J3沼津のレジェンドが福井ユナイテッドFCに加入。
そこから4年、ピッチの内外でクラブの先頭に立ってきた闘将は、
今季終了後に現役引退を表明している。 自身3回目となる”地決”
全国地域SCLを前にこれまでのキャリアを含め、熱い思いを聞いた。
ー 出身地と家族構成について教えてください
出身は静岡県静岡市です。駅だと用宗駅(もちむね)が最寄りです。家族は、父、母、姉2人の5人家族です。親父は早くに亡くしています。
ー 末っ子ですか?
そう、末っ子長男です。姉は9つ上と7つ上。
ー どんな子どもでしたか?
ガキ大将です、そのまんま。でも、俺は2人の姉の友達にめっちゃ可愛がってもらっていました。 プラス、ガキ大将ですね(笑)。今でも自分が帰ったときに同級生に会うと「本当にひどかったもんな」って言われます。
ー ジャイアンタイプってことですか?
ジャイアンですね完全に。だから女の子にもマジで嫌われていました。
ー そんなガキ大将がサッカーを始めたきっかけは?
小学校1年生の途中ぐらいかな。親父は野球をやっていたし、それこそまだ俺らの時代って夜ご飯のときのテレビは「プロ野球=巨人戦」。だから巨人の選手のことはめっちゃ詳しかったし、野球も好きでした。
そのなかでも『キャプテン翼』の影響でサッカーを始めました。俺が小学校1年生くらいの頃、テレビの再放送がちょうどあって。学校から家に帰った時間に放送されていました。 それと、親戚の兄貴がサッカーやってた影響も大きかったですね。
ー 最初の所属チームは?
長田南スポーツ少年団。僕の地元の少年団です。
ー 全国大会への出場は?
いや、出ていないです。でも静岡県大会で優勝したことがあります。とんでもないですよ。しかも、僕らのチームなんて1人だけ俺の同級生で、静岡FCっていう当時すごい集団の中に1人だけ入ってるやつがいたぐらいで、あとはもう普通の小学生。
ー「サッカー王国静岡」ですからそうそうたるメンバーでは?
俺の5つ上が小野伸二さんとか高原直泰さんとかのゴールデンエイジです。僕らの代でもいま現役で頑張ってる選手といえば、矢野貴章(現栃木)、菅野孝憲(現札幌)。もう引退してますけど、成岡翔、谷澤達也、菊池直哉、大井健太郎とか…。俺らの年代は本当に凄かったです。俺はそのなかに埋もれてますから。雑草どころじゃないですよ、枯れ葉(笑)。
ー 高校は日生学園第二高校に進学しました。入学の経緯は?
静岡県内って山のように良い選手がいるんですね。プロにはなっていないだけで、とんでもないくらいたくさんの良い選手がいて。その選手たちと中学校のときに試合をやっているので、俺は県外の高校に進路を変えていました。当時の静岡ってJリーグの試合見るよりも高校サッカーを見に来る観客が多いんですよ。静岡の高校サッカーは「草薙球場」っていう聖地で選手権予選の決勝戦をやるんですけど、どれだけ遠くても静岡県内から中学生が見に行きます。俺の田舎だと電車がないので、 それこそみんなで自転車で1時間以上かけて見に行っていました。選手権に出たいという目標があったので。でも、静岡なんで静岡学園、清水東、藤枝東って強豪校がめちゃくちゃあるじゃないですか。しかも上手い選手がいっぱいいたので(選手権に)出れないだろうと思って。なので県外に行った方がいいなって、中学校1年生のときから実は思っていました。それに、サッカーを頑張っていても結局引っかかんないんです。俺らのときはまだスーパー特待生とかもあったので、サッカーの成績だけで高校に行けるかもと思ったんですけど、結局その実力もなかった。普通に高校に行こうと思ったら、学力も素行も悪すぎて高校に行けないって言われてたんです。そこで、中学校のときに入っていたトレセンの監督が、俺が県外に行きたいっていうのを知っていたので「県外だったら紹介できるところがあるから行くか?」と言われたのが三重県の日生学園第二高校(現:青山高校)だったんです。そして、そのトレセンの監督の同級生が僕の恩師、内田先生なんです(笑)。
ー 恩師の内田監督は、福井県と縁のある方ですね
日生の前には昭英高校(現敦賀令和国際高校)でサッカー部の監督をしていました。丸岡高校と決勝戦をしていた時代がありましたよね。そのときの監督が俺の恩師です。先生が赴任してきたころはめっちゃくちゃ弱くて、サッカーの練習もしてなさそうな進学校とかにも負けちゃうくらい。中学時代のトレセンの森先生に声を掛けられて俺は何も知らずに第1候補で受験しました。作文書いたら入れるぞって、完全に騙されました(笑)。
ー 高校時代の逸話はフジテレビ「ジャンクSPORTS」などで披露されていますが、原点は高校時代?
あそこは日生学園第2刑務所ですよ。高校じゃないですからね(笑)。でも、後にも先にもあんな生活はもうしないと思います。あれで俺の全てが作られたと思うので、そこが原点です。高校生のときに親父が亡くなったのもあるし、3年間共に過ごした仲間との生活は、多分普通の高校に3年間通ってる人とは次元が違いますね。人のことを考えたり、仲間のことを思ったりできるのはあの生活があったからです。 また、恩師の内田先生がそういうのをすごく重んじてる人でした。
ー 高校3年生では名門の四日市中央工業高校に勝利し、選手権に出場しました
四中工(四日市中央工業高校)もそのときはとんでもないメンツで、当時高円宮杯で全国3位でした。四中工でそのときプロになった選手が2人いましたけど、プロになれなかった選手でも凄くレベルが高かったし、 俺の1個下の千葉和彦(現新潟)の代の四中工は、多分3人ぐらいプロになってたと思います。高校3年生のインターハイ予選では俺らも頑張って決勝まで行けたんですけど、0-5とかで大敗しているので。
ー 春に大敗していたチームが、わずか半年で勝利した?
インターハイで負けて、マジで悔しくて。正直俺らはやれると思ってたけどボコボコにされたので。インターハイ予選後、韓国遠征をして韓国でスーパーな相手と練習試合したんです。たまたま2個下に在日韓国人の後輩がいて、その後輩の両親も凄く良い人で、韓国遠征+日韓ワールドカップを見るツアーみたいなのを企画してくれたんです。そのおかげもあって一気に伸びました。それはめっちゃ覚えてますね。
ー 目標の高校選手権出場。そこからプロへ進むことになりました
俺、実は京都サンガに内定を貰っていたんです。当時は松井大輔さん、パク・チソンさんら、めっちゃ良い選手がいた時代です。夏に京都に練習参加に行っていて、入れる予定だったんですけど結局ダメになって。そこから俺は、就職に切り替えました。本当は大学に行って教員免許を取りたかったんですけど、行こうとしていた大学がバイト禁止で。経済的な余裕もないし、じゃあ就職するってなって、大阪の会社に内定を貰っていました。
ー 就職内定をもらっていたのに、プロの道へ?
これを話したらめちゃめちゃドラマなんですけど(笑)。就職内定を貰った後に、新潟から3日間の練習参加の話が来たんです。高校の監督には「練習参加だからこれに受からなかったらもちろん入れない。でも、練習参加をしたいんなら就職の内定を辞退しろ」って言われたんです。え?って感じでしょ。でも、内定を貰っているという保険をかけるな、みたいな意味で、どっちか選べってことでした。
ー 厳しい選択ですね
そうですね。でも、俺はやっぱりプロになりたかったので「練習参加を受けます」って言って新潟に練習参加に行きました。その前に、内田監督と内定を頂いていた企業さんに謝りに行ったんです。記憶が曖昧ですが、先方の社長と人事のトップの人が同席していて、人事の方が「そんなチャンスがある子がうちに来たらアカン」って。ただ、「もし(新潟が)ダメだったときはまたこっちに来てくれたらいいから」って感じで言ってくださって、練習参加に行くことになりました。
ー 練習参加したときの手応えは?
まさかの3日間中、2日間は大雪だったんですよ(笑)。1月に練習参加したのでチームはすでに始動していました。雪で屋外での練習が出来なかったので、当時、新潟駅の目の前にあったフットサル場で練習をしていました。俺は感覚的に「もう終わった」と思ったんですよ。フットサル場では、アピールするにも大した練習ができないまま、3日間が終わりました。それで、帰ろうとしたらチームから「荷物は家に送るから」みたいな感じで言われたんですよ。えっ?それどういうことだ?と思っていたら、実はもうこの練習参加は、俺へのオファーだったんですよ。獲得するっていう前提で話はついていたみたいで。
ー だから練習参加するなら内定を断れってことだった?
内田監督は俺の覚悟を見たかったんでしょうね。 僕が「練習参加に行きたいです」って言ったから多分そこで話をまとめてくれていて。新潟からはとりあえず3日間合流してくれみたいな感じで。でも、俺は全然知らなくて必死でやるわけじゃないですか、フットサル場だろうとなんだろうと。でも、雪で何もできなくて地獄だと思ってたら、練習着とか諸々全部家に送るからって言われて。「この日に加入のリリースを出すから」みたいな感じで言われて衝撃でした。 今でも覚えているのは、俺が実家に帰ったら家にめっちゃ大きい段ボールが届いて、そこにクラブから支給される練習着とかが全部入っていました。そのときに「選手って凄いな」って思って。それは凄く覚えています。そのときはめちゃ嬉しかった。これがプロかみたいな。そこまでが俺がプロになれた経緯です。僕は内田先生と出会って、こういう風になりたいって思ったので教員の道に進みたかったんですけど。
ー 以前のインタビューにもサッカー選手になれなかったら?という質問に「教員」と答えていましたね
本当に教員になりたくて、そのためには大学を出てプロになりたいなって思っていました。京都がダメになった時点で、やっぱりダメかなというのはあったと思います。でも、この京都から新潟に行った話も凄いんですよ。
ー 京都の破談から新潟はどうして?
俺の代の選手権決勝って、市立船橋高校と国見高校が決勝だったんですよ。
ー 市船と言えばの小川佳純さんの伝説のロングシュートですね
そう。国見高校に渡邉大剛っていう選手がいたんですよ。Jリーグでも大宮とかで長くプレーしていた。その選手が選手権で活躍したことで、京都が彼を獲得することになり、俺の話はなくなったんです。でも、当時の京都のゲルト・エンゲルス監督はめっちゃくちゃ俺を評価してくれていたんです。そのゲルトと新潟のフィジカルコーチ、エルシオは横浜フリューゲルス時代に一緒だったんですよ。それで多分話が出たんですよね。あとは、選手権かなにかの映像を見て決めてくれたらしいんですけど。あとは、上野優作さん(元岐阜監督)が俺が練習参加に行った年は京都で、その翌年に俺と同じタイミングで新潟に加入しました。新潟の強化の方が、優作さんに京都に練習参加していたときの俺の評価を聞いてたみたいで。多分、優作さんが「そいつ良いっすよ」みたいに言ってくれたんですかね。今でも俺に「新潟に入れたのは俺のおかげだからな」って言ってきます(笑)。だから、新潟からしたら全然目につけていた選手でもないし、それ言われたから「どんな選手なの?」みたいな感じになって加入が決まったという奇跡です。俺のプロ入りまでの経緯は、奇跡がとんでもないぐらい重なって生まれたんです。
ー いつからサイドバックになったんです?
新潟のときからです。当時の新潟の反町監督と初めての面談があって。ソリさんって基本的にあんまり会話しないんですよ。どこかぶっきらぼうっていうか、よくわかんない感じですよね。 それなのに、俺との面談でいきなり言われたのが「お前の親父さんはなんで亡くなったんだ?」って。「えっ?」って面食らったみたいになるじゃないですか。サッカーの話と関係ないよな、みたいな。色々話をしたら「じゃあお前あれだな。試合に出て活躍して頑張らなアカンな」みたいな感じで結構人情っぽい感じの話をされて。俺めっちゃ覚えてるんですけど、そこから「お前試合に出るなら、選手を長く続けたいなら今のポディションじゃ無理や。今のままなら試合も出られへん。でも、サイドバックやったら生きていける」みたいに言われたんです。高校生まではボランチとか右サイドハーフとかをやっていたので「お前はサイドをやった方がいい」みたいな。キックもあるからそれをサイドバックで活かせばいい、みたいな感じで言われてサイドバックに。ブラジル遠征でもずっとサイドバックの練習をしていました。
ー やったことないポジション?
サイドバックは三重県の国体メンバーに選ばれたときに1、2回やっただけです。 元々サイドハーフをやっていたので、サイドバックもできるんじゃないかみたいな感じで。ちなみに三重国体のときの監督は、この前全社で対戦したアルテリーヴォ和歌山の海津監督でした。海津さんが三重県の暁高校の監督で、なんなら海津さんが1番最初に俺をサイドバックにした人です(笑)。
ー とはいえ、高卒1年目でポジションを獲得するのは大変では?
僕と同じポジションには三田光さんっていうアテネ五輪の代表候補にずっと入っているような選手がいました。あと、僕の一個上で東福岡で選手権を優勝している山形辰徳さん。その人も両サイドやっていたので、ポジション争いは凄かったです。だから、俺は絶対試合に出れないだろうと思ってのに、開幕戦でスタメン予定でした。だけど、新潟に行ってめっちゃ太っちゃったんです。福井と一緒で、新潟は米が美味すぎて(笑)。新潟のフィジカルコーチは、体脂肪率10%を切らないとどんな選手でも試合に出してもらえなくて。そこから2ヶ月間ぐらい試合に出られなかったんですけど、体脂肪率が落ちたら見事に使ってもらえました。
ー プロ入り後はずっとサイドバックですか?
ずっとですね。シンガポールでは最後ボランチとか、それこそ前のポジションもやってましたけど。でも結局はサイドバックが1番多かったです。沼津のときはスリーバックの真ん中とかは少しやってましたけど。でも、そこでサイドバックでやろうって腹を括りました。サイドバックが楽しかったので。
俺は新潟のときにスーパーな人たちがたくさんいたので、使われる側の方が俺にはいいと思っていました。よく走れていたし、それを活かしてもらえるポジションの方がいいんだろうなと思って。でも、沼津に入ってからぐらいからかな。徐々に自分が出し手のサイドバックに変わっていきました。それまでは使われる側でしたけど、周りを使い出したのは沼津のときから。だから、自分で言うのもあれですけど、沼津に行ってからよりサッカーが上手くなりました。 当時の監督の吉田謙さん(現秋田監督)の存在が大きかったです。それもあって、選手寿命が長くなったと思います。 自分も使われはするけど、使い手の方にもなれたので。
ー 尾崎選手といえば「声」が強く印象に残っています。声が通るのはもちろん、声でプレーできるというか、そのあたりについて教えてください
声を出せるようになったのは、もちろん歳を重ねてからですけど、新潟の1年目のときにめちゃくちゃ言われました。「喋れ」って。喋れないやつはサッカーできないみたいな。
ー 1年目は喋れなかった?
喋れなかったですね。高校生のときももちろん喋っていたんですけど、やっぱりプロなって、自分がそんなレベルに追いつけていないのも分かっていたので消極的になるじゃないですか。新潟で喋れって言われましたけど、鳥取のときもやっぱりまだ自分がそんなレベルではなかったというか。もちろん空気を良くするための声は喋れるけど、サッカーに対して喋れるかっていったらまだそんなにだったと思います。でも、やっぱり喋れないとサッカーできない。自分は上手いと思っていないから、声を出すことで自分に負担がかからなくなったりすることは全然あります。そうやって無駄な力を使わないように余力を残すのはあることなので。喋れない人は基本的にダメだっていう風に、俺は言われてきてたので。
ー 当時の新潟は元日本代表の山口素弘さんら錚々たるメンバーですね
栗原圭介さん、上野優作さん、船橋優蔵さん…あのとき新潟にいた人はみんなそうですね。自分が何個年上だろうが関係なく、喋ってコーチングして伝えろみたいな感じ。当時の新潟はホームで3〜4万人入っていたので、喋っても聞こえないぐらいなんですよ。だけど、それでもやっぱり喋れないやつは使えないですから。喋らずにできるほど上手くはないし、分かってないよって感じでした。意思疎通でできるレベルじゃない、だったら喋れってずっと言われてきました。
だから、今でもそう思います。黙ってサッカーやれるほど、連携良くうちのチーム(福井)も出来ているわけじゃないし、だったら喋った方がいいなって。 若い選手には「喋れ」とよく言います。俺も新潟でずっと言われてたんで。本当に毎日めちゃくちゃボロカスに言われたので衝撃でした。いまの時代はアウトですけど、コーチ陣も凄かったので(笑)。
ー もう20年前ですから、そういう時代でしたね
俺が新潟のときのコーチ陣にもたまに練習試合とかで会う機会があるんですけど、めちゃくちゃ優しくなっていて「人変わってんじゃん!」って言ったりすると「まあ、そりゃ変わるよ」なんて言われます(笑)。昔は厳しかったですよね。でも、厳しいなかでやっていく方が自分には絶対合っていたので良かったと思います。
だから喋らないと。喋らないと俺はできないレベルだなと思ってたので。 喋ることで、声で仲間を助けることもできる。僕の場合、9割5分ぐらい追い込んでますけどね(笑)。それ、ちゃんと書いてくださいよ。
ー 尾崎選手の「声」はプロ1年目の教えから続いているんですね
やっぱ1 年目の衝撃は凄かったですね。1年目にあんな良い思いしちゃったからっていう風にも捉えてますけど。でも、あの思いをしたからこそ、そこに戻りたいっていう気持ちはずっとありました。もう1回、4万人のスタジアム、あそこでプレーしたいっていうのはずっと思っていました。僕にとっては衝撃で、凄く大きかったんです。しかも新潟に在籍していたその1年で、 良いも悪いも全部経験できました。最後、僕は骨折して試合に出れなくて、それでシンガポールに移籍したので。
ー 天国と地獄の両方を1年で味わい、濃密なシーズンだったんですね
最終戦、しかも最後は出してもらえる予定だったんですよ。でも最終戦の3日前に骨折してしまって。それで、シンガポールに移籍することになりました。いったら、そこでサッカー人生のキャリアはある意味下降したんです。もちろん、日生高校のときの原点があるんですけど、「プロって素晴らしい、最高だな」っていうのは、新潟の1年目のときにめちゃくちゃ経験しました。全部っていうぐらい。サイン会に出ててサポーターに水をかけられることもあったし、城彰二さんみたいね。4万人の前でプレーする、ファン・サポーターの人が列を作って練習場に並んでるのも経験したし、反対にその厳しさも経験した。俺、最初のブラジル遠征で、当時キャプテンの山口素弘さんに、腰に手をついてただけで「お前試合中に手ついてんじゃねえよ」みたいな感じで言われて。そのシーンが、新潟がJ1昇格した特集全部に使われていました。 丸坊主の俺が練習中に素さんに怒られてる映像が毎回使われるんです。素さんには、もう高校生じゃねえんだよ。みたいな感じでブラジル遠征のキャンプ中にめちゃめちゃ言われましたね。あの人は本当に厳しかったです。自分から喋りかけられないですよ、高卒なんでね。だけどそれが良かったなと思います。本当に良い人も、すごく優しい先輩も、厳しい人も、ムカつくやつもいた。いや凄かった、本当に怖かったです。でも、ほんと分かりやすくて、試合に出て結果出すと認めてくれた。
ー 諸先輩方はプロっぽいプロというか、職人気質的な人が多かった?
プロっぽいプロだし、人間味がすごいっていうか。人情味も癖もすごい人が多かった。ていうか癖しかないみたいな(笑)。
ー でも、そういう厳しい環境でキャプテンもずっと務めてきた?
だから俺、この間ふと思ったんですよ。小学校からずっと、小中高キャプテン。プロになって新潟はもちろん高卒1年目だからできないけど、シンガポールでもキャプテン。鳥取だけ唯一やっていないですけど、それ以外は沼津、福井と全部(キャプテンを)やってます。あと、今はこんなキャラでですけど、俺本当はめちゃくちゃいじられキャラなんです。先輩たちから可愛がられるキャラ。
ー 今の尾崎選手からは意外に思えます
だからキャプテンという立場もやれるんだと思います。いまみたいな雰囲気を持ち出しても、その場にいればそっち側でいいって生きられる。俺がサッカー選手を続けてこられたのも、先輩方に可愛がってもらって、いろんな繋がりがあったからだと思います。鳥取時代はこんなキャラじゃないです。もうとんでもないお調子者で、先輩たちのいじられキャラ(笑)。なんなら、遅刻はめっちゃするし、最終戦の前日の練習に遅刻したこともありました(笑)。
ー 今ではあり得ないですね(笑)
それでお前は大物だって言われても「ですよね〜」って、そんな感じでした。今では想像もつかないでしょ。俺も相当いじられてましたからね。でも、先輩に喰ってかかるときは喰ってかかるんで。「うるせえ馬鹿野郎」とか、そういうことは言えていました(笑)。
ー では、今の尾崎さんのキャプテン像は沼津に行ってから?
完全にそうです。むしろそれで後悔しました。 鳥取時代のお調子者のキャラはそれでいいじゃないですか。でも、自分は結構遠慮していたんです。 先輩方もいるし、中堅どころも色々Jリーグから来ていて経験もあるし。それについていけばいいかぐらいにしか思っていなかった。そんななか、2013年に鳥取がJ3に降格したんです。自分も契約更新の話を頂いていたんですけど、断りました。鳥取も凄く応援してもらっていたし、めちゃくちゃ良いチームだったんですよ。でも、なんでこのチームでもっとできなかったかなって。先輩後輩関係なしに、ちゃんとサッカーのところは言わなきゃダメだったよなって。その後悔はもうしたくないなと思いました。
ー では、沼津へ移籍した経緯は?
これまた長くなりますよ(笑)。鳥取を退団したあと、海外に行くつもりでした。鳥取の前監督ビタヤさんから良いオファーをもらったので準備していたら「監督がクビになったら、新しい監督は(俺を)いらない」って言われて移籍話は白紙、路頭に迷います。ビタヤさんも「大丈夫、どっか決まるから」と探してくれたんですが、結局決まらず4か月ぐらい浪人です。
ー 海外移籍あるあるですが、そこからどうして沼津に?
日本に帰ってきて、横浜FCの練習参加に行く予定になったんです。当時横浜FCの強化部長だった奥大介さんが僕のことを良いって思っていてくれたみたいで、練習参加に行くための練習がしたくて沼津に行きました。日本に帰ってきても無所属でサッカーの練習ができなかったのですが、知人が吉田謙さん(現秋田監督)と繋がっていて、「アスルクラロってところに行ったら練習参加させてくれるらしいぞ」って聞きました。でも、実はアスルクラロ沼津を俺は知らなくて。「それどこ?」って。当時、Jリーグ以外のチームで知っていたのは、静岡FC(藤枝MYFCの前身)くらいだったので。
ー 当時の沼津はどのリーグカテゴリーだったんですか?
JFL1年目だったんですよ。そこで、3日間くらい練習参加に行って、最後の日に大学チームとの練習試合がありました。その試合に出たんですけど、当時は吉田謙さんがコーチで、監督は望月さん(元福井監督)だったんです。練習試合の後に強化もやっていた吉田謙さんにめっちゃ口説かれて「Jリーグに上がる夢があります」みたいな夢も熱く語られたんですよ。けど、選手は全員仕事しながらなんで条件面は…って話でした。俺は「横浜FCの練習参加に行くし」みたいな感じでした。実は鳥取を退団した理由に繋がるんですけど。鳥取はオファーを出してくれましたが、クラブから本当に必要な思いが伝わってこなかった。だから、最終的に条件の良いタイ行こうって思い、退団を決めました。本当は鳥取に残りたかったんですけど。でも、吉田謙さんはその俺の乾ききってた部分に、全力で来てくれたんですよね。俺はそれに響いちゃったんですよ。この人はこんなに夢を持っていて、この力になりたいって。結局横浜FCの練習参加は行かずに、次の日に沼津に決めました。しかもとんでもない条件なのにですよ(笑)。
ー 横浜FCならカズさん(三浦知良)と共闘の可能性もあったのに?
それもありましたね。横浜FCは練習参加しなきゃ入れるかどうかわからなかったですけど。でも、沼津に決めちゃったんです。ただ、仕事もしなきゃいけない。そしたら、クラブは俺のためにポジションを1個作ってくれて俺をクラブで雇うと。それがいまの手塚(福井主務)の仕事、マネージャーの仕事です。俺は選手をやりながら1年半マネージャーの仕事やって、その後からクラブの営業をやりました。そのときの覚悟が全てに繋がっています。これだけやるんだったら、頑張んなきゃなって。
ー 今取り組まれている地域貢献活動も沼津から?
いや、その大事さは鳥取で学びました。だけど、それは岡野雅行さん(現鳥取代表取締役GM)の存在が大きいです。鳥取としてチームでも地域貢献活動をやっていたし、 岡野さんも個別でやっていたので、色んなところに連れていってくれて、一緒に参加させて貰っていました。 特に、岡野さんはトークショーがあるときは絶対俺を連れていくんですよ。そこで、俺のことをボロクソにイジって、それで俺の返しが面白いのを引き出す。お前はその返しだけしていればいいからって。だから僕が変にカッコつけたり、色気を出そうとするとめっちゃキレるんです(笑)。
ー めんどくさいキャラですか?(笑)
めんどくさいですよ。でも、それもめっちゃ可愛いと思う。それこそ俺が浦和レッズのOBとか、元日本代表の人たちと繋がっているのはみんな岡野さんからですから。
ー 今も続けられている「夢教室」も鳥取時代から?
そうですね。鳥取からやってますけど、本格的にこの活動がめちゃくちゃ大事だなって目の当たりにしたのは、沼津のときかもしれないですね。自分達から地域に出て行動しないと知ってもらえない環境でしたから。鳥取のときは、むしろ勘違いできるぐらいみんな知っていたんですよ。街を歩いていても声を掛けられるし。街と言っても福井より小さい街なんですけど、ちょっとショッピングに行ったら声を掛けてくれてくれる、選手が勘違いしちゃうような環境だったんです。どこへ行ってもよくしていただいていたので。鳥取の場合はそれに対してちょっと甘えてた部分があったと思います。でも、沼津は俺は静岡市出身だけど、静岡東部なので俺のことなんて誰1人知らなかった。もちろん、静岡でも俺は有名ではないですけど、沼津へ行ったら尚更静岡出身だろうがなんだろうが知られていないので。最初は衝撃でしたよ、アスルクラロって言える人も少ないし。ただ、チームや俺のことを知らないからむしろ良いと思いました。ここからマジで知ってもらえるように頑張ろうみたいな。だから、今の俺を本当に作ったって言ったら、やっぱり沼津かな。在籍した期間も長いし、正直沼津で引退したかった。
ー 衝撃エピソードは多いと思いますが、ひとつ挙げるとすれば?
1年目に沼津で1番流行ってる祭りのトークショーに行ったら、お客さんが3人しかいなかった。3人のうちは2人は子供で1人はその親御さん。壇上は選手4人と司会者。こっちの方が多いって、そんな時代でしたから(笑)。でも、クラブには来年またこの同じ祭りのトークショーに絶対申し込んでって、来年絶対増やすからって、伝えました。それで次の年はすごい数のお客さんが来ましたからね。 先日も俺、沼津時代にお世話になった方のお通夜に行ってて、沼津時代の奴らと会ってたんですけど、選手みんなが自発的に広報をやっていました。それを多分、キャプテンの俺が1番やっていたからなのかもしれないけど、それぐらいの覚悟があって、その思いが皆さんに伝わっていったからか、日に日に応援する人が増えてきたんです。沼津の街が1日1日盛り上がっていくのが、自分の目で見て分かりました。この人たちが応援してくれている、この人も、この人たちもって。最初は、駅でチラシ配りをしても全然受け取って貰えなかったのが、貰ってくれるようになったんです。あと、沼津の駅でも、清水エスパルスがチラシ配りやるくらいなんです。
ー 静岡東部で清水エスパルスがビラ配りされているのは驚きです
俺はその当時からなんで清水がいるんだよじゃなくて、清水の人たちでさえ、あんなビッグクラブでさえここまでチラシを配ってんだぞ、みたいな衝撃を受けました。それも、清水の人たちはサポーターの方たちの自主的な活動なんです。その方々はとんでもないくらい東部でも激アツでした。そのなかにいた1人が、俺のチラシをもらってくれたんです。 そこで、俺も「清水のチラシをください、色々勉強したいし」って言って貰った人が、いまも福井まで応援に来てくれてる町田さん(サポーター)なんです。俺に興味を持ってくれて、練習を見に来てくれるようになりました。当時、俺はポンコツ車に乗っていたんですけど、それを見て「だめだよこんな車、30過ぎの選手がこんな車乗ったらいかん」みたいな感じで言うから「じゃあ車買ってくださいよ」っていう話から、車は買えないから他のことなんでもサポートしてあげるよって。清水のサポーターの人が色々と差し入れして下さったり、試合を見に来てくれるようになって、清水のサポーターの方達も沼津を応援してくれるようになったんです。
ー 清水のサポーターさんってスゴイですね
凄いですよ。サポーターだけじゃなく、清水の営業担当が東部の街にいるんです。俺はそれを見てクラブ(沼津)にめっちゃ言いました。「清水ですら街を通り越してこんなに来てるのに」って。それこそ金沢が福井にまで来てるみたいな距離ですよ。なんでこんなとこまで来るんだよって思う反面、凄いな思って。だから俺、沼津のときは逆にめちゃくちゃ勉強しに行ってましたね。清水駅から歩いてサポーターの人と一緒に試合見に行ったり。
ー 最後にひとつ。いよいよ全国地域SCLが始まります。尾崎選手としては3回目となるこの大会に向けての思いを教えてください。
取材とかで多分そういうの聞かれると思うから用意してるわけではないんですけど、毎年、毎回、ほんとに変わらないです。自分が現役最後だからとかはあんまりない。この大会に懸ける思いは毎年、それこそ3年前とも変わらないです。ただ、やっぱり思うのは今シーズンのメンバーだけでなくて、自分が福井に加入してから一緒にプレーした選手や、前身のサウルコス福井で戦ってきた選手の思いもある。そういう色んな思いをもって頑張ってきた選手がたくさんいます。沼津で一緒にプレーした選手も、この福井でJFL昇格を懸けて戦い、逃してきている。この前の全国社会人サッカー選手権大会の会場で再会した選手のなかにも、過去に福井で戦っていた選手がたくさんいました。自分が最後綺麗に終わりたいとかじゃなくて、その選手達の思いも全部ひっくるめて、JFL昇格という形で恩返ししたいと思います。それこそ応援してくれているファン・サポーターの方達の想い、もういい加減って思いがあるから、そっちですね。自分が良い思いをしたいとかじゃない、皆さんの思いを叶えて終わりたい。
ー 昨シーズンの報告会で「結果はもちろんだけど、熱量とか熱さを見せて欲しい」との言葉もありました
それもよく分かります。むしろ、何か記憶に残ったりするのってそっちだと思うんです。だけど、やっぱり目に見えるカタチで結果を出さない限り変わらないものもある。だから、そこはやっぱりこだわりたいなって思います。俺がこんなん言うのもあれですけど、その熱さの部分を伝えられるまでまだこのチームは成熟してないと思うから。まだまだ、もっとやらないとね。
(ライター/細道 徹)