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2025年 どう生きるか

2025年が始まった。
今年1年は、「私はどう生きるか」をつねに自問できる自分でありたいな。

2024年は自分の人生観、世界観に小さなパラダイムシフトが起こった年だったなと感じている。小さな小さなコペルニクス的転回。それを踏まえたうえで「私はどう生きるか」をいつも自問していたい。当たり前のことだけど、当たり前をちゃんとやりたい。

1. 人生を運ぶ指針になる考え方

2024年、人生観における転回を振り返ってみる。
「人生観」というと大げさだけど「人生を運ぶ指針になる考え方」の変化。

私はずっと「新しいものを求める欲求」を原動力にして動いてきたと思っているのだが「同じ場所で同じことを日々重ねる、築く、調和をつくることの凄み」を実感したのが2024年だった。

2月、16年ぶりに家族5人で暮らした1年間の生活が終わろうとしていた。ある日の仕事帰りに「この生活の時間は、皆の胸の中に一生残るであろう幸福や満ちたような空気を残すのだろう」と感じて、それを書き残したくてファストフード店に駆け込んでノートに書いた。書きながら浮かんだのは母が日々コツコツと同じ毎日を繰り返して家族の健康や調和をつくろうと努めていたこと、その凄さ。大人になって「家族と暮らす母」と暮らしてはじめて、明るさや光をつくる、幸せをつくる、というのは努力の賜物であると知った。私がよくやる、「コツコツを放棄すること」は光のほうへ存在し続けることと逆へ向かう行為だと反省。このときから、日々を重ねて光のほうへ向かっていくことを最優先にしたいと思うようになった。「新しいもの・ことを求めてつねに動くこと」ではなく「同じことを続ける、築くこと」に重きをおきたい、と感じた初めてのとき、だったかも。

10月、デンマークのアシュラムAnanda Gaoriiを訪れたときも、そのときとおなじ、温かい風が吹いた気がする。毎朝、毎夕、「キルタン」と瞑想を重ねて、人々が個々の豊かさと平穏をもちながらつながる場所だった。
「キルタン」とは、マントラ(心を落ち着かせるための言葉)を唱えながら両手を挙げて、左右のつま先を交互に床につくダンスをしながら歌うヨガ。「なぜ両手を挙げるのかというと。両手を挙げて悲しい気持ちになるひとはいないでしょう」と教わったとき、そっか、難しいことではないんだ、という気持ちになった。唱える言葉は「Baba Nam Kevalam(愛はどこにでもあり、すべてのものの本質である)」。

Ananda Gaoriiのことは初回の記事にも書いた。  

ほかに好きだったのは、リビングルームのミラーボールと、キッチンに立ち上る温かい料理の湯気。
そのミラーボールに気づいたのは夜で、「こんなところにミラーボールなんて、ミスマッチだな」と思ったのだが、朝。朝陽がミラーボールに反射して、小さな光の粒になって壁に揺れているのをみたときにその意味を理解した。ここに存在する、幸福のムードを可視化しているんだ、と納得。私のもつ「幸福」のイメージってまさにこれで、光の粒が自分の周りに満ちている感覚、のことだったから、とつぜん目の前に具現化したそれになんだか感動してしまった。

料理の湯気もまた、幸福に見えた。きっと伝わるから、写真だけ。


ミラーボールや、料理の湯気の幸福感とは、この場所で歳月が築かれてきたなかでうまれた調和なのだろう。

下記は、私の好きな小説『アムリタ』(吉本ばなな)から、主人公・朔美の母の台詞。実家で過ごした日々で母の凄さを思った日も、Ananda Gaoriiで過ごした数日間も、いつもこれを思い出していた(2年前にまた別の文脈で、この部分にワーーーッと衝撃をうけたことがあり、以来、わりといつも持ち歩いている・・・)。

「あんたは理屈っぽすぎるのよ。考えすぎなの、右住左往してタイミングをのがしてはすり減るだけ。どーんとそこにいて、美しく圧倒的にぴかーっと光ってればいいの。愛っていうのは、甘い言葉でもなくって、理想でもなくって、そういう野生のありかたを言うの。」

「人間が自分や他人にしてやれることの話よ。それが、愛、でしょ?どこまで信じされるか、でしょ?でもそれをやろうとすることのほうが、考えたり話し合うよりどれだけ大変か。どれだけエネルギーを使い、不安か。」

「あんたたちを見てると、何となく集中力が足りないっていう感じがする。足が止まってるときが多い。何となく。何よりもただがむしゃらに生きたらいいのにって思う。」

「毎日、寝る前に目を閉じて『本気で』きくのよ。だめな日が何日続いてもたずね続ければいいの。その普通の勇気が、ある中心を作り始めるの。宗教みたいだけど、生きていくうえでひとつくらいは、そういうのが必要なのかもね。」

吉本ばなな『アムリタ(上)』(新潮文庫)

これまで新しいほうへ、新しいことを、と「知らないこと」への楽しみだけを原動力にして動くということが最優先で、コツコツ同じ日々を重ねることとは、私にとって少しつまらない、退屈なことだった。難しかった。だけど今は、心から素直に、その凄みを知って、尊敬している。自分もそういう生き方ができるようになりたい。

ああ、どんどんつながっていくのだけど、星野源『仲間はずれ』もずっと心にありました。というかこれこそが私の思う抱負かもしれない。
ほんと、いい、です、ね・・・

上を目指す鬼ども  宝島はしょぼいもの
幸福は2秒前の 温もりに隠れる
生活の波間で 輝く羨みに背を向け
心の愛の舵を取れ 自分の視線に唾を吐け
未開の闇に舵を切る 独りになる
そこに座り 灯りとなる

星野源『仲間はずれ』

「長く椅子に座れぬ 同じ場所じゃ壊れる」人が「幸福は2秒前の温もりに隠れる」ことを知り、ながらやはり「独りになる」。それは両立する。というか、そうでしかない、のかもしれない。
そして、「そこに座り 灯りとなる」こと、よ・・・
私はこの流れ、運びがすき。本当に。
星野源の作品の根底にあるこの哲学を信じているな。


2. 世界をどうみるか

つぎに2024年、世界観における転回。
「世界観」というと大げさだけど(2回目)、「世界をどうみるか」の変化。

9月からデンマークのAvnø HøjskloleでCommunity Education、とくにエコビレッジデザイン(EDE - Ecovillage Design Education)を勉強したのだが、その核のひとつに”World view”という分野があった。小難しく言うと「全体論的世界観」。私的な解釈で言うと、二元的ではなく、多元的に世界をみる視点。包括的なそれをもつこと、自らで耕していける力を養うこと。

地球規模でいうと、人間主体で地球をみるのではなくて、地球、環境、自然、動物、人間、、あらゆるものが相関的につながりあってそれを構築していると知ること。皆、地球の一部であると知ること。私にとって「全体論的世界観」とは、まず、地球儀を国旗の集合体として捉える視点を手放すことから始まった。

身近な規模でいっても同じこと。
私は大人になってからずっと自分を取り巻く環境の、というか、自分自身が内包する「二元的な価値観」にがんじがらめで苦しんでいたのだけど、そうではなくてやはり多元的に、あらゆる要素の関わりあいをもって社会や生活をとらえ、デザインしていくことが「全体論的世界観」だと解釈した。

パーマカルチャーもEDEの重要な要素だった。
パーマカルチャーには3つの倫理(Earth Care、People Care、Fair Share)があり、12の原則がある。これらを学び、庭や畑づくりだけでなく生活や社会デザインの視点に活かすこともまた「全体論的世界観」をもちながら生きていくことのひとつだろう。

Avnøでセッションを受けて考えるだけではなくて、ほかのエコビレッジを訪れてネイティブアメリカンのストーリーテリングを教わって感想をシェアしたり。先述したAnanda Gaoriiでヨガや瞑想をならい、人がそれぞれのConsciousness(意識)をもつとはどういうことか、と語り合ったり。
これまで自分がもっていた世界観を疑って手放し、もっと包括的な世界観をもつ、耕す機会がいくつもあった。
また、そうして誰かとつながっていくこともまた、土壌を柔らかくすることだった。「全体は部分の総和以上である」とセッションで習ったその言葉を、身体で覚えていく。

そんな折に、友人たちと、宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』を観た。
まさに世界の、地球の捉え方を、”生きる”ことをどう築いていくかを問う作品だった。真人はどうやって世界を築いていくのか。大叔父さんからそれを託されたのは真人だけではなく、ドアを開けてこの世界に生まれてきた皆、私たちもまた託されているのだと思った。

世界は、悪意で築くものではない。
ではどうやって築くのか。
私たちは、世界を、地球を、どうやってみていくか、捉えていくか。
それは「君たちはどう生きるか」を自問することと同義であると思う。


3. 私はどう生きるか

今、私が私を見る視点もまた、包括的、多元的になってきたなと思う。私とは○○、という定義はなくて、経験によってどんどん変わっている。
だからつねに観察していたい。
同時に、一つのものをコツコツと重ねることの凄みも知った。それらは両立できることだと思う。すごくタフで骨の折れることだと思うし、予想のつくことなんてひとつもないかもしれないけど、怖いけど、やってみたい。

いつか歳月をかけてなにかを世界のためになることを、小さくても光になることを築けているように「私はどう生きるか」、いつも観察して自問しながら行動できる自分でありたい。

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最後に。
昨年2月、新宿南口、パレスチナへの連帯を示しその自由を訴えるデモに参加した。
衣食住が満たされた自分がこんなことを言うのはおかしいし、毎朝通る場所、通勤定期で行ける場所なのに、一人で新宿南口へ行き、そこに立つことは、とても勇気のいることだった。

その夜ラジオで、好きなパーソナリティーが流したOasis "Whatever"を聴きながら、そのままの自分で布団に沈んで眠った。

10月、私たちにネイティブアメリカンのストーリーテリングを教えてくれたのは、パレスチナ出身の女性だった。
地球は誰のものでもない、ましてや人間のものではないのに、どうして土地を奪うための侵略が起こっているのか。長い歳月をかけて築いてきたもの、生活、継がれてきたもの、なにより、人の命が暴力的に壊されているのはなぜか。

2月以来、自分の身体をもってそれを表明したことがなかったのは自分の勇気のなさと怠慢だった。けど、私はどう生きるかと問うたらやはり、私は、私ができることを、と思う。
”I'm free to be whatever I
 Whatever I choose and I'll sing the blues if I want”
と思うし、当然、パレスチナの人々、子どもたちもそうでなくちゃいけないと思うから。

まず、関心をもつこと、知ること、情報を求めること、そして話を始めるところから。

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