ヨシナを推す怪文書vol.3
流行り病によってライフスタイルの変更を強いられてはや1年。友人と酒を飲み交わしたり遊びに出る事は不道徳とされ、遠方の家族に会いに行く事も忌避され、恋人も病を恐れて逢瀬を避けた。――――いや、他の男でも出来たか?そもそも1年も顔を見ていないのだ、恋人なんてものは妄想の産物で、この辛い生活の中で自分を慰めるために生み出した、この世に存在しない者なのかもしれない。
放っておけば思考はどんどん暗い方向へとひた走る。ストレスに長期間曝されるとはそういう事だ。光を失った灰色の街がそれを加速させる。
慰めだ、必要なのは慰めだ。お前はそう考えて1人で場末のバーへとやって来た。国は会食を避けろと言う。なら1人でグラスを傾けるのは咎められる筋合いもなかろう。そうして倫理観を理屈で武装しながら、地下にあるそのバーへと降りてゆく。階段を1段降りるごとに胸ポケットにしまったそれが小さく揺れる。物理的な武装。お前の仕事道具だ。今日の仕事はとびきりハードで、不快だった。
必要なのは慰めだ。酒の慰めが欲しい、そんな気分だった。喉の乾きで焦れるように扉を開けると、夜の街よりなお薄暗い店内の光景が目前に広がる。黙してグラスを磨くバーテンの他に数人の客。隅の席でタバコをふかす女、ソファで寝ている女、静かに本を読む女、大きな猫耳をつけた女。……場違いだったか。異性だらけの店というのは落ち着かない。彼女達から目を逸らすようにして店の奥を見やれば、小さなステージと大きなスピーカーが設置されていた。ミュージックバーというやつだろうか。店の看板には「447records」と書かれていた事を今更思い出す。
想像していたものとは違ったが、次の店を探すには喉が乾きすぎていた。とりあえず酒が出れば何でも良い。空いているカウンター席に座ると、バーテンが無言でメニュー表を差し出した。それを一瞥もせずお前は「ビールを」と言う。特段好きな訳ではないが最初の1口、炭酸が喉を通り抜ける感覚だけは悪くない。それにどんな店だって一番早く出てくる。とにかく早く喉の乾きを癒やしたかった。
バーテンがサーバーから注いだビールを差し出す。お前はそれを呷り、ジョッキをテーブルに置く。ジョッキが紙のコースター越しにテーブルを叩く音がコツンと響く。それを合図にしたかのように、奥のステージにライトが灯った。ほとんど反射的に胸ポケットに手をやりかけるのを、すんでの所で止める。ライト程度でビビるとは相当にキてるな。お前はそう自嘲しながら、ステージに上がる歌手を眺める。白い髪をショートカットにした少女だ。左右の小さな赤いメッシュが目を引いた。彼女がマイクを持つと同時、音楽が流れ出す。
ベースとドラムの下地に乗せて荒んだ、しかし物哀しさを湛えたギターの音色が爪弾かれる。イントロの間に、歌手の少女が口を開く。
「撃鉄」
お前は思わずビクリと肩を揺らしてしまう。胸ポケットにしまい込んだそれが揺れる。撃鉄は安全な位置に戻してある。曲名だ……俺の事ではない。自意識過剰だ。そう自分を落ち着かせている間に、少女が歌詞を紡ぐ。
「世界はきっと素晴らしいと 誰か貶めた口で言う」
その歌声は甘く透き通るようで、しかし力強く。ほのかに虚無感や世界への怒り……そういったものも感じるが、それが彼女が歌に込めた感情なのか、それとも歌で奮起された自分の感情なのか。お前にはわからなくなっていた。
「僕らは孤独に耐えきれず泣く子供」
しかしお前は1つだけ確信した。これは俺だ。俺の事だ。俺が感じていた漠然とした思い。彼女が歌詞として吐き出しているのはそれだ。
……曲が終わると、拍手が起こった。その乾いた音がお前の喉の乾きを思い出させる。ビールが足りなかったからではあるまい。お前は1口ビールを呷り、バーテンに尋ねる。
「彼女の名は」
「ヨシナ」
バーテンが答えると同時、次の曲が始まった。
「どこまで歩けばいいのかって どこまで走ればいいのかって
思いながら 途方も無い道 前だけ見据えて進んだが
考えても 考えてすぎても 目的なんてみつけられない
身体の重さ 足引きずって 息を切らして進む」
俺の目的は、何だ?
何故こんな仕事をしている?
「大きな夢じゃなくて 立派な夢じゃなくて
僕の中に目覚めた想いだけ 抱きしめて歩き出そう」
俺の夢は何だったか。自問する。かつて夢を抱いた過去の自分に、今の自分を誇れるだろうか。わからない。
彼女の声は静かな熱意を湛え、前を向いているかのようだった。いや、前を向けと手を差し伸べられたような気持ちだった。その手を取り、信じて歩いて良いのか。そこに慰めはあるのか。
自問している間に、曲が切り替わる。
先程までとは打って変わり、曲調も歌声も明るい。
「変わることはきっと誰にだって難しいよ その迷路から道筋を描く
明日もし君が走り出すなら ただ一つだけ声を咲かせよう」
こんな自分に落ちぶれた過去を変える事は出来ない。それは理解している。だがこのまま過去を背負い、その重さを引きずって下へと落ちていく事が俺の望みなのだろうか。……嫌だ、それは断じて嫌だ。俺は慰めを求めた。まだ生きる意志がある。たとえ猫背になっても、小さな夢を求め歩く意志が。
だがまだ何かが足りない。後ろ向きでもなお、1歩を踏み出すためには何かが。
自分の中から答えを探っている間に曲が変わる。さらにアップテンポで明るい曲調だ。
お前は思い出した。自分は1人では立てない人間だと。流行り病で豹変した社会は容赦なくお前から支えを奪った。
取り戻す時が来たのだ。あるいは新たに探す事になるかもしれない。お前を少しでも肯定し、隣に立ってくれる人を。
「良い歌声だったと伝えてくれ」
お前はバーテンに代金を支払い、店の扉を開いた。地上へと戻る階段は暗い。しかし階段を踏みしめる足取りはしっかりとしていた。道筋は見えない。だが目的は見つかった。生きる目的が。
地上に上がり周囲を見渡す。相変わらず陰鬱な灰色の街だ。しかしほのかだが、そこに色彩が灯っている気がした。
◆◆◆
あとがき
なんか色々すまん。