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日本的情緒

白露しらつゆかぜきしくあきはつらぬきとめぬたまりける」

岡潔おかきよし氏の春宵十話しゅんしょうじゅうわを読んでいたら、このような歌が例にあげられていた。百人一首に収録されている、文屋朝康ふんやのあさやすの歌。

この歌が読まれたのは平安時代であるが、時代を経て戦後日本における観点でこれを読み解いている点がおもしろい。作者の意図ではなく、読み手の意図だ。良い作品とはこのような創造性をつないでいけるところにあるのかもしれない。

”くにの歴史れきしれると、それにつらぬかれてかがやいていたこういった宝玉ほうぎょくがばらばらにりうせてしまうだろう。それがなんとしてもしい。ほか何物なにものにかえてもらせてはならないのである。そこの人々ひとびとが、ともになつかしむことのできる共通きょうつうのいにしえをもつ、というつよこころのつながりによって、たがいにむすばれているくにはしあわせだとおもいませんか。まして、かようなうつくしい歴史れきしつくににまれたことを、うれしいとはおもいませんか。歴史れきしうつくしいとは、こういう意味いみなのである。”

美しい自然や豊かな感性は先祖が護り受け継がれて来たものであり、私たち子孫はそれに感謝し未来へつなげていくこと、そのような心の情緒を育んだこのくにに、人々に誇りを持って欲しい。そのような想いを巡らせる、その心の豊かさが美しい。

岡潔氏は、“それが何としても惜しい。他の何物にかえても切らせてはならない”と言っている。

その前提として “くにの歴史の緒が切れると” とある。

日本の歴史的系譜をつないでいた“歴史の緒”はGHQによって切られ、日本の文化は見事に崩壊させられたと言っていいのではないだろうか。まさに “つらぬきとめぬ玉ぞ散りける” 散り散りになった玉のようである。

もちろんそうはさせないと踏ん張ってきた人々の成果もたくさんある。しかし、私の個人的な感覚としては幼心に日本の誇りというのは育んでこなかった。自虐史観と言われるが、まさにそのような教育のなかで、宝玉は散り散りになり、何も考えずにアメリカのカルチャーに刺激され、憧れを持った。未だにそうであるが、しかし、大人になってから日本について多くのことを知り、同時に世界の歴史についても多くを学びハッとさせられる事が増えている。

矛盾むじゅんだらけだし、無循むじゅんだらけの人の営み。
このなかで生きていかなければならない。

散り散りになった宝玉をかき集めるのか?宝玉のままならまだ良いが、戦後教育が生み出したのはもはやただの玉、あるいま歪な玉かもしれない。玉には穴も開いてないかもしれない。

その中に輝く真珠はいくらばかりはあるだろうけど、美しい真珠の首飾りのようなくにはおとぎ話の世界と成り果てた。

考えるのも疲れる。無責任に生きてきて、他人様に偉そうなことを言える立場でもなし。人類なんてそのうち消滅するし、もういんじゃね?って思うこともある。

自己矛盾は死んでも消えないな。。。 
永遠の人類の矛盾だから!

テクノロジーもいいけど、もっと根本的な考えを改めたらいいと思う。私たちは近代以前の日本の歴史から学ぶべきことが山ほどある。江戸時代より過去の暮らしは、現代社会にフィードバックできる人々の営みから工夫された循環する仕組みがたくさんあった。

その根幹にあるのは人々の崇高で勤勉な精神であろうと思う。自然を畏れ敬い感謝し、慎ましい生活の中で人々は寄り添って謙虚に生きていた。考え抜かれた高度な文明と精神の結びつきで礼儀を持って暮らしていたのだと学ぶことが多い。

けれども、そんなことに多くの人は耳を貸さない時代。確かにリアリティはないだろう。近隣諸国や世界を見渡して、日本が置かれた状況を考慮するととてもじゃないけど現実的ではない。人類の破滅へ向かう土俵に乗っかっちゃったもんだから… いや、土俵ならまだ誇りを持って上がるべきフィールドであると思うが... リングと言った方がいいのかな...

それでも私は暮らしの中に日本的情緒を感じて生きていたい。自然が偉大である事は変わらないし、人間そのものも循環するちっぽけな生命体であることに変わりはないのだから。

テクノロジーが発達して、どんどん便利な世になって行くのかもしれないけど、テクノロジーによって生み出された何か、それがなければならないものと捉えるのは、ちょっと立ち止まって俯瞰してみる必要があるだろう。

たしかに、人とつながるという点でテクノロジーは大きな変化をもたらしたし、すでに私たちの暮らしに深く入り込んでいるどころか土台となっている。移動においても激的に発達したし、そもそもこの手にテクノロジーが凝縮されたスーパーな物体を持っているし、エネルギーそのものもテクノロジーで、見渡すと周りはテクノロジーで埋め尽くされている。

それらが一瞬にして失われた出来事を、テクノロジーを通じて情報を得た経験もある。多くの人が困っている人を助けようと行動した。けっしてテクノロジーを否定する事はできないし、むしろ感謝すべきことの方が多いのだが… 

そうは言っても、それによって生み出された何かは、循環しないモノが多いのも事実。それによって環境が汚染されてている事は明治時代から分かっていたこと。分かっているのにやめられないどころか、沼に入り込んで行く。物質の矛盾、社会の矛盾、世界の矛盾… 人類の矛盾。

心が濁るのだ。澄み切った心の持ち主はいないと思うけど、濁りすぎるのもよろしくないね。情緒もへったくれもない。

ひょっとすると、“くにの歴史の緒” が切れたのは、明治なのかもしれない。近代以降の激的な変化は途轍もない衝撃があったのだろう。新たに生み出されるモノは、失われていくモノの上に立っている。人々の心はいかに揺れ動いたのか?

私がせめて感じられる日本的情緒は小さな幸せである。ともすると見落としたり、気が付かなかったりするような、些細な事である。何げないことばや行動に思いやりが乗っている。自然を美しいと感じられる心は、小さな幸せの蓄積がそれを可能にするのだろう。それは大きな心である。

できることがないわけじゃない。自宅でコンポストをやって生ゴミは出さないようにしているし、ゴミもなるべく出ないようなチョイスをするようにしている。(かなり無理あるけど... )食品添加物などの表示も見るようになって、なるべく変なものが入っているものは買わない。

めんどくせーって思う人もいるかもしれないが、案外シンプルなことで、自分にとってはそのほうが気持ちが楽で良い。人生は日々選択の連続である。小さな選択が蓄積すると大きな塊となる。気持ちいいポイントを蓄積していく方が断然いい。

そのような行動において、何事にも感謝の心を持つ。心を広く大らかに!情緒を感じられる心を育みながら、文化を崩壊させる事象をサラっと受け流し、美しく生きたいと微々たる思いを抱く私への課題。

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