「メタ・ごちうさ学」研究
ここに私の研究成果を記す.
「メタ・ごちうさ学」とは
簡潔に言えば,一般にごちうさそのものや,ごちうさを研究し,論じる行為であるごちうさ学に対して投げかけることができる,〈ごちうさとは何か〉〈ごちうさ学とは何か〉というメタ的問いに答えようとする試みである.
これは主に大きく以下のような5つの問いに分けることができる.いずれも,返答を与えるにあたっては作品の具体的なエピソードに依存せず,抽象的な性質に依存するが,もちろん依存せず広く作品一般に敷衍することができるものも存在する.
1.実際に存在しているごちうさ学とは何か
2.ごちうさ学のあるべき姿とは何か(何を研究すべきか)
3.なぜごちうさ(学)を研究すべきか
4.ごちうさ(学)をどのように研究すべきか
5.ごちうさ(学)と向き合う私たちのあるべき姿とは何か
そこで,「メタ・ごちうさ学」を提唱し,これらの問いについて様々な具体的トピックを提示したうえで,それらについて私の見解を述べ論じることを本記事の主目的とする.トピックが問いや主張の形(「」をつけて表す)で提示された場合は,それに対して私が反論や説明などを加える形式となる.
なお,「ごちうさ学」という名称は造語であるが,似たような名称として,「ごちうさ楽」がすでに存在する.
これは娯楽性を強調し「学」が楽しくないというイメージ,偏見を回避しようという目的でなされた命名であるが,誤っているのは偏見の方であるのだから,わざわざ誤解をしている方に合わせて名前を変えるだけでなく,偏見を解いていく試みも同時になされるべきだと考える.
事実,学びは内在的に苦楽の属性を持たない.そして何より,表記と意味の適切な対応は正当性を突き詰める学問においては欠かせないものである.
なお,「学」と称するのみであると,すでにある程度確立,整備された印象を受けてしまうため(これは実際に正しい印象である),独自の思索の集合であることの意味も鑑みて「研究」と付け加えた.本記事は未完成であり,独力で完璧な内容を作り上げられるとは限らない.多人数によって検証され,その普遍性が保たれねばならない.
はじめに
以下に挙げる具体的なトピックの例は,必ずしも現在までに発言されたことがある,考えられたことがあるとは限らない.私が想定しうるものをなるべく多く挙げた.
1.実際に存在しているごちうさ学とは何か
初めに述べたように「論証を方法論とし,ご注文はうさぎですか?の作品群を主題とする営み」,これをごちうさ学の定義とする.本質的な定義など存在しないとする立場もありうるかもしれないが,ひとまずこう定めておく.
以下ではごちうさ学にて現状存在している,または存在しうる思想的立場,分野,トピックについて見ていく.具体的には,前半は文芸批評や文学理論で扱われるような思想を中心に挙げ,後半は個別的な分野について挙げる.(区切り線で分ける)
なお,ある思想が別の思想を否定しているように見えることがあるが,それは多くの場合,歴史的にも相対化を行っているのみであるので,両立することは可能であることに注意されたい.
テクスト論(読者論)
一般に受け入れられやすい考え方であり,例にもれずごちうさにおいてもこの立場を取っている人間は多いと思われる.すなわち,「作品は作者の意図に支配されているとするのではなく,あくまでも作品それ自体のみを捉えようとするべきである.」という考え方である.この立場においては,作品は誕生した時点で,作者との関わりを断たれた自律的なテクストとなり,読者には多様な解釈が許される.
こうした思想をもつようになるのは当然のことである.なぜなら,作者であるKoiについての情報は多くが明かされこなかったうえ,現代において広く共有されている相対主義の考え方に最も合致する思想であり,そう考えるならば,もっとも雄弁なのは作品(漫画だけでなく楽曲やアニメも広く含めることが多い)そのものであるのだから.また,日常系というジャンルの体裁があるので,後述する作品論が採用されにくいという事情もある.(作者の大きな意図の存在が疑問視されることもある)
作品論
これもまた,受け入れられやすい考え方であるが,「作品の読解を通じて,その作品を書いた作者の意図を明らかにしようとするべきである.」という立場にあたる.作品には唯一の絶対的な「作者の意図」があるはずであるという前提に立つことが多い.
一般に作品を「独立した世界」と捉え,作品の解釈のために作者の他の作品や私生活,手紙などを引用し,それらから垣間見える思想性を分析に利用することもある.しかし,現状そうした情報が少ないごちうさにおいては作者に着目した立場はあまり活発ではないと思われる.ただごちうさ展などにおけるKoiの情報開示で少しずつ勃興してきてはいると感じている.ただし,作者の定義を広げ,楽曲やアニメを関連の強い他作品として扱うことは多いので,関連他作品と結びつけた議論は数多い.
作家論
「作品の読解を通じて,作者の思想や信条を明らかにするべきである.」とする立場である.つまり,作品論とは手段と目的が正反対である. 作品は作者の思想を体現したものだという前提に立ち,作者の思想を明らかにするためには作品以外のものも引用される.
こうした立場からは,しばしば作者の作品をその発表順に並べたときに思想の完成に向けて成長する作者像が描かれることが多く,また, 作品の中の一つの言葉,登場人物のセリフなどに,作者の深い思想を読み取ろうとする.そのさまはある意味で,作者を「孤高の天才」と見るようである.
先述したように,ごちうさにおいては情報が少ないために,この立場の人間は少ないと考えられる.むしろ神秘主義(後に取り上げる)のようにあまり明らかにすることを良しとしない考え方すらあるのではないかと思う.
比較論
これは「いかなる作品であっても,それのみが独立して存在しているのではなく,それまでに存在し作者が触れたあらゆる作品との関連があって存在しているので,それぞれを比較しその関連性を明らかにするべきである.」とする立場である.このような性質はしばしば「間テクスト性」と呼ばれる.「いかなる作品も,様々な他作品の部分的"引用"(模倣,オマージュ,パロディ,借用,剽窃など)で形成されており,作品は作品の吸収や変形の結果である.」という前提をもっていることが特徴である.これはAIによる作品生成においても似たような思想が見られる.(作品をベクトルとして分解し,それらを組み合わせて計算し指定された作風を作り上げる.)
ごちうさにおいては,様々なセルフ含むオマージュや模倣を行っていることが指摘されており,例えば「不思議の国のアリス」や「銀河鉄道の夜」などのような他作品と比較しつつ分析されることが多い.(セルフオマージュはどちらかと言うと,作品論や構造主義の立場から考察されることが多い)
構造主義(物語構造の解釈)
「個別具体的に作品の内容を見るのではなく,作品を一つのシステム,体系的構造と捉え,そのメカニズムを追求するべきである.」とする立場である.歴史的には実存主義の相対化を行った思想である.しばしばキャラクターたち,そして私達が自覚していない,作品の背後にある目に見えない構造を明らかにしようとする.
ごちうさにおいては,季節,循環,継承,フラクタル,らせんなどの構造を表す独自語によってしばしば物語構造が表現され,それらを用いて実際の物語が説明される.これは交換という概念によって説明されるレヴィ・ストロースの構造人類学に類似している.
社会論
「社会情勢などが作品に与えた影響を考察するべきである.」とする立場である.比較論にも似ているが,その対象がテクスト以外の社会にまで及んでいることが特徴である.また,作品によっては「作品が社会情勢に与える影響」を考察することもあるが,これは社会学に含まれるべきかもしれない.
ごちうさにおいてはそのような言及は少ないものの,例えば東日本大震災と日常系ヒットの関係性などと絡めて議論がなされることもある.
機能主義
「作品は様々な要素の統合体であり,それらの相互作用を考察するべきである.」とする立場である.意味についての説明は求めず,各要素がどのように関係しあっているのかを考える.また,テクストに書かれている事実の関係性のみを扱うために,構造主義とは異なり,背後の本質を見抜き一般的な説明を与えることはない.
ごちうさにおいては,「正確な事実関係の読解」や「原作,楽曲,アニメの関連性」として考えられていることが多いように思う.前者は漫画のみに焦点を当てた機能主義であり,後者は作品を単なる「ご注文はうさぎですか?という漫画」に限定せず,アニメや楽曲なども含めた総体として捉えた機能主義である.
連載終了論
作品というのは,いきなり完成品が世に出るものもあれば,継続して世に出ていずれは完結を迎えるとされるものもある.特にごちうさは4コマ漫画として連載されているため,その完結についての考察はしばしばなされる.具体的には,「いつどのように完結するか」という予想,「そもそも完結するか」という疑問,「完結を私たちはどのように受け止めるべきか」という議論など,様々行われている.
ここで,私見を述べておく.しばしば,「ごちうさの完結は分からない方が良い」といった主張が見られる.もし「事前に完結(の内容)が判明しない方が良い」という意味なら完結の話に限らずあまりに当然すぎる.「完結のことを予想したり読解したりしても意味がない(悲しくなるだけだから無駄)」という主張であっても,特に"悲しくなる"のは人によるうえに,何も直接的な影響だけでなくそれによって作品の理解が深まることが大いにありうるため,ただ作品の理解の機会を一つ失うだけで単なる個人的感情以上の意味はないと考える.
日常系論
ごちうさは日常系というジャンルに分類されるという側面をもっている.そこで,日常系と呼ばれる作品に共通する性質を調べ,明らかにするというアプローチが浮かび上がる.
日常系とは,単に「一般的に見て起伏のない平凡な日々を描いた作品」ではないとされることが多く,例えば伊藤いづも先生のインタビューに代表されるような「どれだけ日常からかけ離れた世界であっても人である以上避けて通ることができない普遍的な日々の営み,それを通して変化していく心の機微や関係性に焦点を当てた作品」という立場がある.
他にも多くのテーマが論じられており,「楽しみ方」についての明確な言語化もなされる.日常系は4コマ漫画かつ萌え要素を含むことが多いため,4コマ漫画や萌えについての考察も合わせてなされることがある.
ごちうさには,しばしば「魔法」という概念が登場し,構造主義の立場などから論じられることがあるために,本当に「日常系」と分類すべきなのか議論の余地があると思われる方もいるだろう.しかし,ごちうさの「魔法」はあくまで例えば「呪文を唱えるとスキルが発動して属性攻撃ができる」といった現実ではおおよそ不可能なものではなく,非常に困難ではあるが可能性としてはありえる,人間の意図に基づいた手品に近い現象(つまり人間の営みとしての普遍性がある)であることがほとんどなので,先程例として挙げた日常系の定義に照らし合わせるならば日常系と呼んでも差し支えないのではないだろうか.
ごちうさ論
三浦想氏によって書かれた同人誌「ごちうさ論シリーズ」にて提唱され論じられている内容の総称である.この節で述べたようなごちうさ学を実践し(名称としてはごちうさ論の方が先なのだが),具体的なエピソードの解釈を与えており,後に述べるような主張,問いの投げかけもいくつか部分的に存在する.現在更新が途絶えているが,このシリーズはごちうさを"考える"という点で先駆的な試みであったため,既存のごちうさの解釈に与えた影響は大きく,一読の価値は多いにある.
キャラクター関係論
当然「キャラクター自体に注目し,その性質,関係性を考察するべきである.」という立場も存在する.具体的には,特定のキャラクターについての考察,各キャラクターの相互作用についての考察,各キャラクターのもつ物語上の「役割」についての考察など,多岐に渡る.ごちうさにおいては当然「推し」概念が発生するうえ,あらゆる考察に欠かせない視点であるため,この分野は裾野が広く,非常に盛んであると言える.
漫画論
ごちうさは4コマ漫画であるのだから,当然漫画の観点からの考察も存在する.例えば,コマ割りの工夫や漫画的表現の意義,作画などが話題になる.また,漫画の技法や哲学の記号論などといった観点からの考察もありうる.しかし,ごちうさにおいてあまりこういった議論を見かけたことはないのが実情である.
イラスト論
ごちうさは小説のようなテクストではなく4コマ漫画であるから,もちろんイラストが欠かせず,イラストなしには読解が上手くいかないことも多い.さらに加えてしばしば描き下ろしイラストや扉絵,表紙絵など様々なイラストが描かれるため,イラストからメッセージを読み取ろうとする試みは盛んである.構図,テーマカラー,象徴,文脈などから豊かな意味を読解することができる.画風,例えば西洋宗教画の構図などとの類似もしばしば話題にのぼる.
また,特にイラストによる二次創作が盛んであることから,技法の研究や絵柄の特徴などの技術的な理解も行われることがある.(ごちうさ展にてメイキング動画が発表されたことも大きい)
楽曲論
ごちうさには多数のキャラクターソングや劇伴が存在し,それらはごちうさの世界を作り上げるにあたって欠かせないものになっている.歌詞はもちろん,タイトルやその文脈,コード進行,メロディ,編曲技法などの作り上げる世界とその意図を読解する.
その考察は,しばしば相互に関係し合う漫画,楽曲,アニメの考察に用いられる.タイトルや歌詞の引用,オマージュは原作の中期以降ではよく見られるため,一方が他方に影響を与えているだろうということはよく知られている.
アニメ論
ごちうさが大きく発展する最初の一歩を作り出したのがアニメである.したがって当然アニメに対する考察は数多い.アニメスタッフや監督を擬似的作者と見て,その意図をインタビューなども参照しつつ作品から読み取ろうとするもの,アニメのタイプ論に当てはめるもの,動くイラスト表現としてアニメーションを考えるもの,声優の方々の演技を考えるもの,売上や興行収入の考察など,豊かな多様性がある.
並行世界論
ごちうさは毎年4/1にエイプリルフール企画と称し,新しい世界観をもち,ごちうさの登場人物たちと非常に似たキャラクターたちが登場するゲーム,ストーリーをwebサイト上で公開しており,その概念は原作漫画,楽曲,アニメのすべてに影響を与えている.(それらは並行世界とされている)
したがって,「その世界の状況」「世界同士の関係性」「そもそも並行世界なのか」「なぜ並行世界が存在するか」などがしばしば話題にされる(例えば,私が過去に書いた記事).また,公式として原作などに登場する一方で,二次創作も盛んに行われている.
聖地論
ごちうさはしばしばヨーロッパの街並み,文化などをモデルとしており,いわゆる「聖地」も数多く存在する.このことから,現実の街並み,文化,歴史,地理などと対応付けた考察がなされることもある.
2.ごちうさ学のあるべき姿とは何か(何を研究すべきか)
「作品から見出したメッセージ,規範を実際に役立てようとすることは許されるか」
それは「どちらかと言えば許されない(行うとしてもかなりの注意が必要)」と考える.以下で理由を示す.
まず第一に,そのメッセージが正しいものであったとして,作品内世界と私達のいる世界では,前提や文脈が共有されている保証がないことが問題である.結果だけは確かに使えるように見えても,それを成り立たせているものが私達の世界に存在しないならば,その論証は作品世界においていくら正しくても私達の世界で一切の意味をもちえない.例えば戦争を主題とした作品のセリフを切り抜いて平時でことさらに運用しようとするような危険性がある.
また,いくら留意したとしても,文脈の比較を行って適切に運用しようとするのは困難であるので,すぐに役立てることはできない.
確かに,ごちうさの場合は特に精神的なものであれば現実と同じように描かれている可能性はある.しかし,それでも注意が必要であることに変わりはない.精神的な文脈は他の社会的,歴史的,世界観的文脈などよりも読み取るのが難しく,さらにそれらは個人の性質の違いにも左右されるからだ.
そして第二に,そもそも物語を中心としたフィクションの作品は,正しさを扱うことに特化しておらず,むしろ正しさ以外の役割を背負っていると常々みなされるのが物語であるためだ.単に何か間違いがあってもフィクションということですべて許容されることが多く,その作品内でも正しいか否か強く疑う必要がある.
また,物語はアンビバレンスや葛藤を良しとするため,積極的に「矛盾」を生成しようとする力学があるのもそれを強める要因である.(実際にはAとnotAが同時に成り立っておらず矛盾とは呼べないことも多いが)
学ぶきっかけ,興味関心をもつきっかけになるのが良いことであるのはまったくもってその通りだが,それだからといって内容の真偽が正当化されることはない.(そもそも物語は正しくあるべきであると言っているわけではなく,受け取る側に問題があると言っているので.この話題とはあまり関係がない)
学問という客観的で体系的で歴史も長く知の共同体が存在するものにおいてですら,ある程度の修養がなければ正しく物事を読み取って活かすことは難しいのに,作品と自身という文脈の異なるある程度主観的な組み合わせでそれが簡単にできるはずはない.
一方で,作品を根拠にするというような形ではなく,類推によって発想を得て,後に論理できちんと正当化するのであれば問題はない.
しかし,そういったことを除けば,我々は基本的方針として,まず作品理解に徹するべきである.
ただ,「私は賢く,作品を理解しつくしている(と言わないまでもかなりの程度知っている)」のならば許されるのではないかと思う方もいるだろう.
しかし,一般に「私は賢い」「私は~をよく理解した」という命題の真偽を自ら確かめることは難しい.なぜなら,世の中には「賢いならば~ができる」という形式の命題が多くものの,それらの逆は必ずしも正しくないためである.つまり,賢いという条件が曖昧かつ厳しいので,初めに述べた命題をテストできるような命題が少ないことが本質である.さらには,賢さを判定するにはまた賢さが必要であるから,循環論法に陥るという事情もある.
以上のことから,ひとまず自分が賢い,よく理解していると自己診断して思わない方が良いと言える.
もちろん,正しい正しくないということではなく,感情的な意味であるなら別に問題はないのだが,「役立てる」ということになると,ある程度正しいかには慎重にならなくてはいけない.
なお,日常系論の項において,普遍性の議論を行ったが,それは作品内の話であって,それは必ずしも我々の生きる世界にも適用できるとは限らない.つまり,日常系の普遍性とは「世界内普遍」だったのだ.
では逆方向,すなわち作品からメッセージ,主張,規範を読み取ってそれをもって正当化するのはいけないとしても,逆に私達の世界で作られたメッセージ,主張,規範などの論理を作品に落とし込んで解釈するのは問題ないのだろうか.
これはそもそも,作品に関わった時点で行われている行為であるから,問題があるためにまったく行ってはならないとすると,作品との関わりを拒絶せざるを得なくなり,私達がごちうさを好きであるという前提と真っ向から矛盾してしまう.そこで,いかにして,何を気をつけるべきかということが問題になる.
そこで,異文化理解における対話の方法論を参考にするべきである.とは言っても,相手は作品なので,対等な対話ができるわけではない.また,いくら私達の世界の概念を導入したとしても,それ自体で論理的に成立していれば許容されうるので,結局問題になるのは正しいかどうか(矛盾がないか)ということになる.したがって,自省もそうだが,作品との対話が不可能な分,同志たちによる議論を行い,作品自体を無視しているか,正しい読解ができているかなどを適切な理解,批判の方法で行うことが大切である.(ゆえに,問い5.ごちうさ(学)と向き合う私たちのあるべき姿は何か,で述べるように,我々の互いの交流は必要不可欠になる.)
様々な話に飛んでしまったが,結論を端的に言えば,後に問い3.「なぜごちうさ(学)を研究すべきか」にて述べるように「作品を」学ぶことは許されるが,「作品で」学ぶことが許されたわけではなく慎重を期するべきであるということだ.
「普遍性をもつと尊さが失われる」
「普遍性があるならば尊さがない」の対偶をとると,「尊さがあるならば特殊性がある」になるので,この対偶命題の真偽を判定すれば良い.
これには「人権」という反例が存在する.つまり,尊く,かつ特殊でない(特定の人間のみに与えられるものではない).
確かに,人権は決してありふれたものではなく,たくさんの血,涙,悩み,試行錯誤,そして願い,希望のもとに成り立った希少な原理である.一方,人が人である限り,この世に投げ入れられて存在する限り,公正や正義のため,絶対に守られるべき普遍な尊い原理でもある.(成立過程は希少だが,それ自体は特殊でない.)
したがって,対偶命題は誤りである.よって,元の命題も誤りである.
また,逆の命題についても,対偶命題「特別であるならば尊さがある」には特定の犯罪など,特殊であり,かつ尊くない反例が存在する.
ゆえに,「尊さと,特殊性や普遍性には特別,包含関係がない」ことが分かる.
私たちはしばしば「有り難い」と,希少性や特殊性と価値を結びつけて,曰く付きの「価値」を訴えてしまうのである.
いずれの反例についても,こちらの世界での概念を持ち出しているので,作品内における直接的な反証とはなっていないのではないかと思う方もいるだろう.そこで以下で私見を示しておく.
ごちうさは「特別が当たり前に実現され大切にされる日常」を描いた,いわゆる"特殊の価値"と"普遍の価値"を両取りした作品であると考える.描かれているのは「彼女たちが作る,彼女たちだけの当たり前の日常」である.
それはむしろ私達から見れば「特別」な尊いものでもあるが,それが当然のように普遍性をもって存在してしまうことがまた尊いのである.そして彼女たちが「当たり前」の中にいるときに,「特別」を認識するのはとても難しいのである.
以上のように考えると,作品に的を絞ったとしても,私達の一方的な視点のみで尊さと特別さを関係づけることには疑いの目を向けざるを得ない.
「ごちうさの不思議はそのままファンタジーとして残らなければいけない」
それはその"不思議"を前提して論を進めれば何も「不思議ではない」.例を挙げれば,物理学をもってしても「なぜ万有引力の法則が存在するか」には答えられないのと同じように,(前提の設定を間違えなければ)不思議は不思議のまま生き続ける.
そもそも,ごちうさに限らず世界そのものがいくら論証をしようが少なくとも前提だけは正確な根拠を知り得ないままであり,そもそも前提以外をすべて解き明かすのも無理な話に思える.また,作品というのはすべての設定,文脈を語れるわけではないので,未知の部分は必ず発生する.ゆえに,不思議な部分が一切無くなってしまうことを心配する必要はまったくない(ある残ってほしい不思議がなくなることはありうるが).加えて,存在論的困難も発生する.形而上的存在論の懐疑はいずれ無限後退に陥るので,根本の存在理由だけは知り得ないことになる.
3.なぜごちうさ(学)を研究すべきか
ここでは主に「ごちうさを論じる」行為の意義,意味について考えたい.もちろんこのような試みなしでも,ごちうさ学の進歩は望めるだろうし,問題も生じないだろうし,論が崩壊することはなく意味をもつだろう.しかし,根本となる基礎(簡単という意味では決してない)や前提を吟味し,体系的に思考を積み上げていく試みも必要だと考える.
「解釈や考察,特に批評は作者にとって常に煙たく,邪魔なものである」
これは一般には誤りだ.むしろ時に救いを与えることすらある.
作品というものは俗物的または相対的な評価に常にさらされており,神が存在を保証してくれるものではなく,創作者が苦しみも交えて生み出されたものであるから,本質的に不安を抱えている.したがって,たとえかりそめであっても,絶対的な批評は神の代理として存在証明のために必要とされている.
このこともあって,創作と批評ははるか昔から互いを支え合い,発展し合う関係として続いてきたのであり,そのことを否定するわけにはいかないだろう.私自身もある程度作曲という創作活動の一種に親しんでいるのでよく分かる.
もちろん,質の悪い批評に怒りを覚えることはあるかもしれないが.
本当にすべての批評が邪魔だと思っているのは,精神的に強い創作者と一部の第三者だろうとも思う.(これは証明にはならないのだが)
「ごちうさの良さは語り尽くせないし語ってしまうと劣化するのだから語ることは無駄」
逆に語ることによって一層よく分かったり,思ってもない領域を指し示したりすることもある.また,別に良さが先にあってそれを表そうとすることもあれば,言葉が先にあって良さが見えてくることもあるはずだ.
また,言葉なしで感じる良さにも限界があるのだから,語りをためらうことはない.(もちろん語り場は知的誠実さを伴う言論空間でなければいけないが)
感性だけではなしえない領域に自分のみならず,他人をも(ごちうさを知らなくても)連れていけるのが語りの強みだ.
排除して可能性を狭めてしまうのはもったいない.
もちろん逆も然りで,きっと感じることでしか得られない良さもあるだろう.(これは関係ないかもしれないが,語り得る領域よりも語り得ない領域の方が大きいのはあまり自明なことではないだろうと常々思っている)
ところで,確かにごちうさの"要点"とでも言うべきものは,たった一言のセリフにすべて含まれていることすらありうるので,丁寧に論じる行為を虚しく感じてしまうこともあるだろう.しかし,ごちうさの性質上,一読時には爽やかにすぐ読めてしまうというものがあり,それは見つけ出すのが非常に困難である.したがって,それを万人に分かる形で論理を示すということには価値があると思うのだ.そして,論理を紡ぐという地道に積み重ねる営為でしかたどり着けない場所も存在するのであれば,気に病む必要もないと考える.
「ごちうさは肩肘張って取り組み考え論じる作品ではない.Koi先生もそう言っている」
しばしば作者Koiによる単行本一巻末のコメントA「勉強や仕事の合間に,ちょっとしたティータイムの際に,読んで貰えれば嬉しいです.」が引用され,「ごちうさは肩肘張って取り組み考え論じる作品ではない.」という主張がなされることがある.しかしこの主張はいくつかの点で問題があることを以下で示す.
まずそもそもAは当時のものであり,現在では変化している可能性があるということだ.(もちろん,かといって当時の言葉をないがしろにして良いわけでもない)
また,仮に真剣に読んでもらいたいとして,果たして作者自身がそれを初期のうちから明かしてしまうのは問題なのではないか.ごちうさは日常性をテーマにすると期待されている作品である.読者は軽い気持ちで読み始めたはずが,いつの間にか気づきが重なってごちうさを想うようになる.私含め大半の読者がそうであるように,そうしたゆったりと確実に主体的な読者を誘う魅力を持っているのがごちうさではなかったのか.ゆえに作者がそれを言ってしまえばある種のネタバレになりうるのだから,表面上の言葉をすぐ真に受け取るわけにはいかないと私は考える.実際,5,6巻範囲周辺からごちうさに対するスタンスが変わった,本気度が上がった,ごちうさを知りハマったという方も多いだろうと思う.
また,「ごちうさが肩肘張って取り組み考えるべきでない作品であるならばKoiはAと書く」が真であったとしても,逆の命題「KoiがAと書いたならばごちうさは肩肘張って取り組み考えるべきでない作品である」が真であることは直ちに導けず,他の可能性を考慮する必要がある.
さらにそもそもAが正しかったとして,考えることは仕事や勉強に当たるのか,ごちうさについて考えることが好きなことだとしてもやっていけないのか,仕事や勉強と好きなことは明確に分かれるのかといった疑問も残る.
私自身の経験なのだが,受験生の前に一娯楽として数学が好きであったし,自由に遊んでいたし今もそうであるということがあるから,勉強と遊びという枠が曖昧になる,両立するとしてもなんら不思議ではない.少なくとも最初から決めつけるわけにはいかないように思う.
数学に身構えて入ったら好きになっていないだろうということも気にしなければならないと思うかもしれない.しかし,それこそ先述した「ネタバレの回避」を肯定することになる.
また,仕事や勉強に図らずも伴う性質である,義務感も存在しない.私は〜べきという形で考えることを(少なくともごちうさに限ってモチベーションという意味で)していない.Koi先生はむしろこの「"義務"が存在しない」という意味でAを書いたのではないのか.そうであるならば,完全に「楽しい」だけで駆動している私の好奇心を止める必要はない.
さらに前述した,「作品から何かしらメッセージを見出して実生活に役立てようとする態度が好ましくない」というのも,勉強や仕事と一線を画す理由の一つであろう.勉強や仕事はしばしば結果主義,実用主義に陥らざるを得ず,「楽しい」で駆動する私のようなタイプには相性が良くない(とはいえ先程挙げたように楽しくてやっていたらたまたま結果が出たりするということもあるので,マイナスイメージのレッテルを貼るのは避けるべきだ).
また,「フィクション作品世界内のセリフなどを無遠慮にこちらの世界へと寄せて捉えるのは前提が異なることもあるからあまり好ましくはない」ということは前述したが,これはより細かく単語の使い方にも同じことが言えるのではないか.だとすれば,以上のように私達が勉強や仕事から勝手に感じている「印象」を自覚し,修正することは妥当と思える.だが,Koi先生のコメントは深く関係しているのは間違いないものの,作品世界そのものに含まれるか断言することはできない.
最後に,究極的には,完全に作者が望む通りの読解をする"義務"は私達にはないとも考えることができる.
倫理を確立するため
ごちうさを哲学する(メタ・ごちうさ)こと自体への賛否両論はあると思うが,私は「哲学者として素朴な好奇心から」ごちうさを研究したいのもそうだが,「オタクコミュニティにおける倫理を確立するために」研究したい,する必要がある,するべきであるとも思う.
ネットを中心に形成された共同体において特有の不文律概念はいまだ根強い.コミュニティが小さいうちはそれで何の問題も生じなかった.しかし,規範が不透明なままでは不健全であり,規模が大きくなるにつれ,いずれは問題が起こる.
もちろんごちうさに対する向き合い方は多種多様であり,それゆえに倫理もバラバラである.なればこそ,ごちうさを一度解体し,メタ的に捉え,分類整理する必要がある.
倫理を構成することは感情だけではできない.論理や法が必要になる.「わざわざ倫理規範を定める必要などない.温かい心があれば十分だ」ということでもない.人々の「温かい気持ち」では掬えないものがある.
そのためにも,一度「ごちうさとは何なのか」という問いに立ち返らねばならない.
「メタ・ごちうさ学は重要な問題ではない.ごちうさ学は解釈に努めるべきだ」
「ごちうさ学」を研究すべき理由が分かっても,さらにこのように考える方もいるだろう.しかし,よく考えてみてほしい.その,重要な問題ではないとする根拠の部分は,いかなるものであってもメタ・ごちうさ学における立場の一つでしかなく,正当性を立証するためにはいずれにせよメタ・ごちうさ学に取り組む必要がある.
つまり,「メタ・ごちうさ学など必要ない」と言うためにすらメタ・ごちうさ学は必要となるので,逃れようがなくほとんど必須のものとさえ思えてしまう.
「ごちうさ世界と私たちの世界は隔てられてなどいない」
メタ・ごちうさ学にて前提している,ごちうさ学の"論じる"という営為が必要なのは分かったという方でも中には「私はそのように外からごちうさを分析したいわけではない.私はごちうさのWonder-fulなセカイに"入っていきたい"のだ.もちろん"入っていきたい"とは,妄想の中で,グッズに囲まれて,現実逃避して,といった意味ではなく,セカイを奇跡ではなく意志で"私の世界"と捉えてキラキラに気づいてきた彼女たちのように,セカイが私の態度にかかっていると私も思いたい.ごちうさのセカイは隔てられていてあちら側にあるのではない.」と思う方もいるかもしれない.(このような主張を発見したのは前述した三浦氏の著作-『ごちうさ論しりーず④~鏡の国/すてきなセカイ―ごちうさ「旅行」エピソードを読む〈出発編〉』のあとがきにおいてなのだが)
しかし,その場合であっても(完全に自己満足的な感情任せのものでなく適切に行おうとするなら)論じることからは逃れられない.なぜなら,先述したように「私達の世界とごちうさのセカイは異なる可能性が大いにありうるから,お互いの法則をそのまま当てはめられるわけではなく,折り合いをつけていくために双方を外から理解,比較し体系を組み上げる必要がある」ためであり,また前提している「私達の世界とごちうさのセカイは異なる」の真偽を確かめるのにも論じる必要があるためである.そして,そういったごちうさセカイの法則を発見するのにも論じることが必要である.これらことは内側から見ていては簡単にはなし得ないことであり,いずれにしても逃れようがない.(もちろん,感情的な意味であるならば避けることはできる)
4.ごちうさ(学)をどのように研究すべきか
ここでは,ごちうさ学の方法そのものに関してどのように研究を行うべきかを記す.問い1.実際に存在するごちうさ学とは何か,にて示した思想群についての議論はあまり扱わないが,文学理論や文芸批評を参照するとヒントが見つかるかもしれない.
「論理を無視しなければ新たな知見は得られないはずだ」
論理を無視してはばたくのみならず,論理を追求することで深まること,よく分かってくることがある.そもそも,論理を無視して気ままにはばたき,感性に従うことで結果を出すのは天才にのみ見られる現象であり,偶然に頼り切ることにもなりかねない.創作活動において,基礎の重要性が強調されるのと同様に,あらぬ方向へ向かっていってしまうことがないよう,足場を固めておく必要がある.(もちろん,ごちうさ学をやらないのであれば関係がない)
「言葉にできない神聖さに対する過剰信仰」
本当に大切なことは目に見えずかつ語り得ないのと同様に,聖なるものについて語ることは避けるべきである(神聖と未知の親しさ)という信念は多くの人にとって馴染み深いだろうが,逆に語ることによって明確となり,いっそう美しさが際立つと考える(聖なるとは言い難いかもしれない)ことも出来るため,これらは価値観の違いでしかない.
言葉にできない神聖さに対する信仰を自覚するべきである.
そもそも,言葉の指し示す意味領域が神聖さの領域に及んでいないという前提があるのだとしたら,それを疑うべきである.
「作品が理解できると考えるのは傲慢すぎる」
私は作品を「理解できる」と考えているのではなく,「理解したい」と考えているのだ.また,理解できないからと言ってやめてしまえば,それは怠慢であり,私たちがごちうさを好きでないことにもなりかねないので,仮に傲慢であることが正しいとしても理解しようとすることをやめるわけにはいかない.
傲慢であるのは,どちらかと言えば,後述するように作品の理解に対して絶対性を盲信し,謙虚であることを放棄した場合である.つまり,「絶対に正しい解釈は~である」と信じ込み,かつそれを検討する謙虚な心がない者である.
もし作品を理解したいという気持ちがあるのならば,絶対性を仮定し真理を得るのは困難だと自覚しつつ謙虚でいるか,または相対性を仮定し確証を得るのは困難だと自覚しつつ歩む覚悟でいるかの立場を取ることになるというのは相対主義のトピックで後述する.(ただし本当に理解できるかどうかは別問題)
理解しようとしないのは怠慢になるので,意志はもっても謙虚でいるか,そもそも断定できない世界で生きるかになる.(これが作品と"対話的である"ということ)
厳密に言えば「作品を理解する」が「体系的に」理解することを指すのでなければ,「個別的に」理解していくことはできる.
「作品を捉え方は人それぞれである」
実際少なくとも一定程度はその通りである.私自身,「絶対的なものは存在しない」と言い放つような相対主義者ではないが,「絶対的なものも,相対的なものも存在する」という立場であるから,使い分けが肝要であり,例えばごちうさのようなある種の芸術,文学作品,そしてエンタメを相対的に捉えてはならないとは思わない.
相対的な思考で懸念されるのはニヒリズムであり,絶対的な思考で懸念されるのは傲慢である.
したがって,我々は真理を仮定せず(非存在を仮定するとも言える)荒野の上で強くあり続けながら懸命かつ相対的に物事を考えるか,真理の存在を仮定し,山の上で頂きを見つめながら謙虚かつ絶対的に物事を考えるか,あるいは何も決めず平野で気ままに物事を考えるか,そもそも考えないかのいずれかを選択することになる.私は頂き,すなわちある種の希望を見つめながら登りたいのだ.
ところで「基本的にオタク活動は相対主義で成り立っているのだから,その営みは他者の考えを否定することになりかねない」というような反論もあるだろう.
だがこれはスタンスの問題だ.普遍な真理の存在は少なくとも,死後の世界の存在などと同様,容易に分かることではなく,我々はそれに甘んじるか,存在を仮定するか,非存在を仮定するか,場合によって存在するかしないかが分かれる場合分け主義をとるかになる.私は基本的に場合分け主義者であって,絶対性を仮定する傾向にある.すなわち,考え方に優劣などないという「普遍的なルール」(人と人との間に正義はあってしかるべきだ)をとりつつ,絶対性を仮定したら何が得られるだろうかという試みをしているというわけである.否定の絶対性ではないのだ.
構造主義への批判
「ごちうさは彼女たちの生きた人生を描いているのであり,人間性を考えないのなら真剣に作品を捉えようとしていない」といった構造主義への批判は確かに最もでもある.だがしかし,そのように考えるのであれば,たとえ彼女たちの人間性を見ていたとしても,ありもしない妄想を繰り広げるような行為(二次創作など含む)も慎むべきということになる.なぜなら,それも結局物語や文脈といった「人間性の総体」を無視し人と真摯に向き合っていないということになるからだ.
また,そうであるならば,評論という行為も否定しかねない.
また,そもそも前提としている立場(作品世界の登場人物も私達も常に主体的に動いている)は実存主義的であり,その思想的立場はこのメタ・ごちうさ学によって整理されるべきものの一つである.
5.ごちうさ(学)と向き合う私たちのあるべき姿とは何か
この項については適宜,私の記事を併せて参照すると分かりやすいかもしれない.
現実逃避
しばしば,作品が「現実逃避として利用される」ことがある.
ごちうさはほのぼのである一方で一定のファンタジー性があるとみなされるために,そういった逃避先として非常に選ばれやすい.
確かにそれは精神の応急処置としては良いのかもしれないが,継続使用には副作用が伴う.作品自体を手段としてみなしてしまっている.
まずは自身が救われて,作品を目的として見られるようになることを願う.
オタク集団における倫理
しばしば,「~のオタクがマナーの良くない言動または犯罪を犯したせいで作品の魅力が下がった」との趣旨の発言が見られる.
一介のオタクがそういった言動をしても,作品の「内的魅力」が下がることはないが,ごくシンプルにオタク間の交流が重要になることが多い(先程ごちうさ学については,議論し合うことの必要性を述べたが,もちろん他の活動でも同様である)ために,「人として」嫌われてしまい「外的魅力」が下がるという現象が起こっているのだと思う.
特に,直接交流の質に関わってくるので,コミュニティ内での対立があるとそのような現象が起こりやすい.よってコミュニティ内での煽り合いによる争いの誘発は単に倫理的な面や心理的安全性が下がるという機能的な面だけでなく,そういった新規参入の視点からも健全ではないので是正されるべきである.
例を挙げると,一方の立場を持ち上げるために,他の(倫理的な問題が一切ない)立場を持ち出して,全称的に「~なんか」と言われることがある.「考察なんかやらなくていいから,キャラの妄想してれば楽しいよ」などが具体的に挙げられる.このような発言は特に新規参入者に行われた場合,無知を利用して可能性を潰すという意味でも問題がある.
このような,不誠実な行いは許してはならないが,かといってそのような確かに不誠実で理解や批判(自己と他者ともに)に欠ける人物,特に他者理解の欠けた者に対して,始めから執拗に煽ったり,一蹴してとりあわなかったりする者は,同じ穴の狢になってしまい,煽り合いを解消することができないのでやめるべきである.
どのような楽しみ方をしているにせよ,自分の無知は自覚すべきだし,他の同志たちと関わるのなら加えて理解を示そうとし,話題について知ろうとする実直な態度が求められる.
そうすればいかに楽しみ方自体が例えば性的なものだったとしても,特にコミュニティとしての機能は損なわれず,外的魅力にも影響がないはずである.
よって,内的な楽しみ方という面では相対主義であるべきかもしれないが,他者と関わるとなるとそうもいかず,人間として誠実な人格を意識する必要があり,倫理的正義が必要になる.
「考察などでは卑下や謙遜を除くべき」
これはまったくその通りである.一般に,本人が意図せずともしなくとも順位や優劣のようなものが発生してしまう場合,ある人が「~をに気がつくのが遅くて情けない」などといった自分を謙遜したり卑下したりする言葉遣いをすると,その人より下だと感じている人はハードルを感じてしまう.
なお,謙遜(卑下)と謙虚は異なるものである.(漢字の意味を辿れば理解できるだろう)
民度
「オタク集団の倫理」の項で示したような「~のオタクがマナーの良くない言動または犯罪を犯したせいで作品の魅力が下がった」という発言とともによく見られるのが「~民は民度が低い(悪い)」という発言である.それもまた,一部を切り出して見ているだけであり,マスコミの印象操作の手法と同一なので非常に迷惑である.このことは自分たちがやられる側になると身にしみて分かるが,やる側,第三者側になってしまうとしばしばそのことを忘れてしまう人間は多い.
難民
元来この言葉は「アニメ放映が終了したため喪失感でいっぱいになり,表面的に似たような作品を求めて難民のようにさまよう」様を表している.
しかしながら,最近では「ファン,オタク」の同義語としての誤用も発生してきている.(元の定義もやや怪しいが,最近の意味よりは断然近いと言える)
確かに,言葉の意味や定義は時間によって変化していくものでもあるかもしれない.しかし,正しさが関わる場面や他人と話す場面では本来の意味通りに用いたり,了解を取ったりする必要があるために,そこで誤用による不便は生じてくる.
「難民」は幅広く日常語としても,論じる場合でも使われる.例えば「批判」や「正義」のような学術語の色合いが強い言葉よりは気を張らなくて良いものの,元の意味の方が漢字の意味との整合性が良いということもあって,意識するに越したことはないと考える.
特に供給不足で飢えているわけではないのであれば,本来の意味と誤用での意味の共通部分は存在しないので,あらぬ方向の齟齬を生んでしまう可能性がある.
すべて想定の上で用いるのなら引き止めることはないが,こだわりが無いのであれば,わざわざ誤用することはないのではないか.
「考察は義務感が生じて楽しくなくなる」「考察をする人間には感情がなく,真のファンではない」
論理的に考えられるから好きなのかそれとも好きだから論理的に考えられるのかは個人の性質に依存するためにわからないが(前者であれば,作品を目的ではなく手段として扱っているという批判も可能かもしれない),しばしば対義語として扱われてしまう感情と理性は決して相反するものではなく両立しうることに気がついてほしい.外部の人間にはわからないかもしれないが,理解しようとしてほしい.理解しようとせず,共感か排除かの二択しか選べないから,理解出来ないという悪循環になっていないことを願う.
仮に感情,理性の対立構造という虚構が正しかったとして,逆に「ただただ低俗で安上がりな快楽を刹那的に摂取しているだけだ」「作品を目的にせず,手段としているのだろう」「わざわざエロい目で見るような人間には理性がなく,低俗である」だとか,逆方向の煽りはいかようにも言えてしまうので,いずれにせよ言うべきでない.妥当性もなければただ争いを生むだけだ.
また,これといった反論がないから認めたのだと思っている方もいるかもしれない.
しかし,倫理的な理由で先程挙げたような煽りを返すことをしていないという理由に加えて,そういう考察までしてしまうような人たちは作品に対して真剣なことが多い(マイノリティなので,その中で悪意をもつ人はさらに少ない)ので,そのような"くだらない"ことには興味がなく,呆れてものも言えないという可能性を考慮すべきだ.
「ネタバレは許されるか」
「許されるが配慮はした方が良い」と考える.
ネタバレとされるような感想や評論は表現であるから,表現の自由が適用され,他人の権利を侵害しない限り自由に発言することができる.ネタバレは権利の侵害にあたらないので,規制することは出来ない.
一方で,法的な意味ではなく倫理的な面を考えると,わざわざネタバレを推奨するような行為,例えば送りつける,騙す,断りをしないなどは慎み,配慮しても良いと考える.
お気持ち表明
しばしば,「お気持ち表明」という単語を見かける.批判が封じられたオタク世界では快と不快の表明がなされるようになるが,さらにそれを「お気持ち表明」として避けるようになるので,本当にものが言えない環境が出来上がっていってしまう悪循環が出来上がる.本当に避けるべきは「お気持ち表明」ではなく,批判封じであり,もちろんこれ以外のルートもあるが根本を断つのが早い.批判を封じることは,批判という語の誤用やコミュニティ内での対立,倫理の未確立など様々な要因で発生するので,それらを解消する必要がある.
「ごちうさには中身がない,かわいいだけ」
ごちうさの一つの特徴として,セカイそのものの「かわいさ」がわかりやすく挙げられることはしばしばである.
「かわいさ」だけであるとの主張とともによく引用される「すべてがかわいい」というキャッチコピーだが,しばしば誤った読解がなされる.「すべてがかわいい」とあるが,それは「前提として」という意味であって,それ以上に付加価値は大量についてると読解するのが自然である.
「すべてがかわいい」と「かわいいしかない」はまったく違うものだ.
このことから,引用としては機能していない.
また,似たようなものとして,脳死アニメやら脳死歌詞と悪い文脈で主張されることがあるが,本当に「脳死」なのはどちら様なのか,非常に気にかかるところである.
加えて,露悪的に何かの作品に対して中身がないと貶すような主張もしばしばあるが「実際はただ難しくて手に入れられないだけなのかもしれないのにもかかわらず,それを確認せずすぐに"真理はない!"と大した根拠もなく言い放ってしまう」という「すっぱい葡萄」であることが多い.
作品理解というある種の異文化交流を軽視していることも多く,端的に言えば「お前ごときに何が分かる」と言わざるをえない.
おわりに
本記事においては「妄想を書き連ねました」「諸説ある」「個人の主観,感想が含まれます」などと他者からの言及を無効化してしまいかねない下手な手は打っていない.
これには「科学者のように真理に対して誠実であり,自らの無知を自覚しているがゆえの断り書きだ」という反論もあるだろう.
だがしかし,科学者であればむやみやたらに妄想などとは呼ばず,せめて"仮説"と言い表すのみだろう.すなわち,そのような反論の問題点は,たとえ科学的方法の無知の自覚ができていたとしても,その表現が真理の探求という土俵を降りるという形でなされるのなら,むしろそれはただ種々の批判(否定的なものも,肯定的なものも)をはねのける不誠実な言葉になってしまうということだ.
多少なりとも正しさを扱おうとするならば,自由な言論空間に身を置く必要がある.
また,たとえ書くとしても,せめてどこが曖昧なのかを必ず示すべきである.
もちろん,これらは正しさを求めない,想定していない文章には当てはまらないが.
批判的思考で理解と批判を反復することは,学問その他の理性をはたらかせるものの発展として定番の手法である.適切な議論こそが発展への近道である.
すなわち本記事は批判されるべくして存在している.したがって例えば「素晴らしい取り組みである」「核心をついている」「ここはもう少し考えたほうがよい」「ここが見当違いな方向へ逸れてしまっている」「そもそも根本から間違っている」など,私は様々な反応を待っている.
私は平凡な一介のファンでしかなく,不備もあるだろうし,気に入っていただける,頷きながら読んでいただける箇所もあるだろう.
(勘違いが生じやすいので念の為説明しておくが,批判とは非難や誹謗中傷と同じ意味ではない.また,否定的な意味でのみ使われるわけでもない.したがって「主張についてなにかしら判断や評価をする」という意味である.確かめたければ辞書や検索エンジンで調べればよい.私は音の印象が「ひ(≒否,非)」「はん(≒反)」であるために誤解を促進していると推測する.しかし,漢字を見れば意味は明らかである.)
ところで,本記事が必ず理解しておくべきものなどと持ち上げられることによって参入コストが上昇し,新規参入する方を滅入らせてしまうような事態は避けたい.
オタク活動の目的は基本的に「楽しむ」ことである.
他者の権利を侵害しない限り,手段は何でも良い(が,それが批判の対象になる場合もある).例外なく,私もただ「楽しい」のみによって駆動している.
たかが一記事の影響力を買いかぶるにも程があるとは思うものの,念の為記しておくに越したことはないように思う.
本記事は私の現時点までの考えを思い出せるだけ,保存してあるだけ記したものである.時が経てばそれなりに修正したくなる箇所も出るだろうし,何かしらの内容を書き忘れたということもあるだろう.修正できるものはできるだけ適宜修正するよう努めるが,後は読者による発展に任せる.
ここで筆を置くことにする.