ごちうさに見る「象徴的家族」
とりわけ、ココアとチノの関係を「姉妹」と捉える見方は主流であり、実際正解でもある。しかしあえてそれを深化させ「親子」、やや古い言葉を用いるのなら「母子」と見てみるとどうなるだろうか。考えてみよう。
ごちうさの考察ではしばしば「継承」という概念が登場する。何を継承するかと言えば、様々ではあるのだが例を挙げれば、比喩的なものが多く「季節」「魔法(使い)」などである(ここで詳しく解説することはしない)。そしてこれらに「親子」(姉妹)を加えたい。よって、ココアとチノ以外にも、例えばサキとチノやチノとフユ、モカとココア、青山とココアなども「親子」(母子)と見ることができる。
なお、「継承の物語」とは固定された受動的なものではなく、彼女たち自身が主体的に紡いでいく物語である。
同じものをただ継承して護りついでゆくだけでなく正の循環としての漸進的作用をも持っているのだ。
また、「継承」という言葉は元来、繋がりの一つを指して使う言葉であり、継承は繋がりすべてを固定化し、静止させるわけではなく、現在の繋がりの後は未確定であると言える。
ここからは、ごちうさにおける「象徴的家族」のことを、彼女たちにならい、"FamilY"と呼ぼうと思う。家族はもちろん"Sisters"も内包するので、姉妹という解釈を真正面から否定しているわけではない。また実際、親子ほどではないが姉妹関係も出生時から規定されている部分は多いと言えるだろう。加えて、似た表現には「カフェ」があり、私も好んでよく使うが、これは主にセカイとの対比として用いられ、セカイを分節する言葉である。言い換えれば、カフェは対外的精神、FamilYは対内的精神に基づく。また、関係性としても異なるニュアンスであるから、使い分けをすることにしよう。例えば、「チノはセカイを歩き、フユをカフェに自分から招待し、フユはFamilYとして親子関係を継承することになる。」のように用いるのが適切だろうか。
こうなると、ごちうさでよく用いられる「姉妹」という表現は、象徴的"でない"実家族を描くことを避けつつ、作品内で実家族でない「象徴的家族」を形成できることを描き、「象徴的家族」そのものを暗示する策であったのだろうかという気さえしてくる。(後に結局"FamilY"について言及されるわけだが、これも誘導だろうか)
ところで、親子の関係はいくつかの意味で非対称的である。
親は子を選べないのと同様に子は親を選べないが、その行為主、または原因はあくまで前者後者ともに親であり、その事の重さは大きく傾いている。
ある高校一年生が下宿してくることも、"ココアその人"が来ることも、何もかもチノは選べなかった、不可避であったし、どちらかと言えば、チノと住むことは選べなかったが、ココアは少なくとも下宿することを選んだ。出生と似通っていると言ってもよいだろう。
しかしながら、先述のように現実の出生のような生々しさをそのままもつものではなく、「継承」のような物語的な意味であり、静的なものではないということに注意すべきであろう。
人生の一番始めに固定化されざるを得ない、理不尽さの象徴ともとれる「生まれること」が、あのセカイでは可変であり、関係性の象徴として生きているように描かれているのである。
ごちうさにはもう一つ、「完全」「永遠」「動的」の象徴であるとも言える「循環」というテーマが存在し、しばしば考察で語られる。何を循環させるのかと言えば、多く見られるのは、これまた比喩的なものも多いのだが、「季節」「構造」「日常」「感謝」「お返し」「救済」「魔法」などだ。ここでは「感謝」や(気持ちの)「お返し」、「魔法」、「救済」について考えてみよう。(この概念について詳細に説明することはしない)
これらの、感謝や気持ち、魔法、救いの循環を経済学のアナロジーのごとく、贈与論として捉えることができ、私もそのように考えてみようと思ったこともあるが、今回のように親子の関係のごとき非対称な関係という側面も見て取れる。
「救い」という隠されたテーマがあるだろうと考察されているのだから、親子という最も身近な救う・救われる関係に注目するのも当然であると考えられるだろう。
非対称的な援助という宿命によって主体性が剥ぎ取られてしまうということが、しばしば我々の現実世界でも、親子はもちろん普通の援助関係でも起こることがあるが、実際関わり合う中であのセカイでも起きており、少なくともチノは悩んでいた。しかし、心配は要らなかった。
見事にチノは"自分から"気持ちを"返す"循環を実現する形で解決に至らしめたのだ。
この強さがどんな賛辞の言葉で言い表せようか……!
(ただ、これは強くあるべきという意味ではないことを指摘しておこう。必ずしも強くある必要はないし、それにも関わらず強くあれたという稀有なことにこそ敬意を表したい。我々がこちらの世界で援助する側に回ったときには精神的に一方通行な援助にならないように気をつける必要がある。また加えて、前提を吟味しないまま私達の世界と同じようにみなすことは危険だ。)
なればこそ、私はそのセカイに恋焦がれてのかもしれない。生命のごとき正の循環への憧れである。恋とは、熱をもてばもつほど相手の実在性から「遠ざかる」感情であるから、作者であるKoi先生らもきっと私達のように恋して「遠ざかっている」に違いない。(「愛している」という方もいらっしゃるかもしれない。だとすれば愚か者か聖人かである。)
決して持ち込むことが出来ない、すべきでない前提であることを飽きるほど、心の奥底まで理解し、論理の鎖をつなぎながらふと思うのだ。
家族、中でも親子とは、とても悲しくて、運命的で、感動的な鎖だ。良くも悪くも自分を縛るのか、それとも、ある種の蜘蛛の糸になりうるのだろうか?それは彼女たち次第であるだろうが、私はその両方であろうということを信じて疑わない。
この「存在してしまう」悲しさには、「存在しなくなってしまう」悲しさが同時につきまとう。つまり「自身または"FamilY"の死や別れ」である。
ごちうさでは直接的に語られることはないが、サキの病死や一時的な別れなどはそれとなく描かれており、今月号では思ったよりもずっと堂々と、ココアが街を離れることを明らかにした。異なる点も多いが、強いて例えるなら巣立ちだろうか。
「存在にとっての太陽」は私達存在者を平等に照らし、影を落とす。
しかしながら、彼女たちは"きらきら印"で"必要なとき"に影を、暗闇を互いに照らすことができる、「太陽のような存在」でもある。
「きらめきカフェタイム」で詠われるように、「想いの交差点で会える」と、互いの「別れの悲しみ」を照らし出しているのだ。
彼女たちはそうしてFamilYという関係性を築きながら、ともに無限かのような螺旋階段を登り続ける。相互作用しながら、輪を描く。
FamilYとは実存的な交わりで、存在のすべてを受け入れることであるのかもしれない。すなわち、存在の太陽のもとでは、互いに握手をするとき、そして抱き合うとき、それは影とも同時に握手し、抱き合い、そして溶け合うことになるのだろう。ごちうさ風に言い換えれば「その人の素面も仮面も愛する」ということだ。
終わりに
今回はあまり論理的厳密さを突き詰めず、エッセイを意識して書いてみたが、いかがだっただろうか。やはり、正確無比であろうとする思考を落とし込んだ文章は私にとって第一に魅力的であるが、書いていて癒やされるような、精一杯の感情を言葉にした文章も、ときには良いものだ。自己満足であったとして、読者の方々を大層不快にさせるようなことがない限り、それは善いことであろう。