
『言葉』にこだわる理由#自己紹介
こんにちは!!初めまして!俳優として活動している深田祐来(たすく)と申す者です。
主に舞台を中心に活動しています。
ここ最近ずっとモヤモヤしてることがあって、それでいて絶賛壁にぶち当たり中の自分の殻を破るべく、これから日記のような詩のようななんか『言葉』を書き残してみようかなって思い今スマホを手に取ってます。
今年一年色んな舞台に出たんですが、中でも朗読劇にたくさん出演しました。去年の年末から年明け2月ぐらいまでかけて修了公演付きの朗読ワークショップに参加しました。初めは自分の発声とか滑舌とかを見直す目的でやっていたのが、『声だけの表現』というのにだんだんと魅了され、同時に難しさも感じたのだけれど、もっとやってみたいと興味が湧き気づいたらその後、2本ぐらい出ることになって、果ては来年1月にも出ることになりました。そんな中で色んな人に「めっちゃ朗読やってんね?」とか「声優にでもなりたいのか?」って言われて確かに何故ここまで取り憑かれたのように朗読劇やってるのか考えたこともなかったので、それを言語化する意味でも、自分の内側を提示すること殻を破ることに繋がらないかって思って書くことにしました。
どうして自分はこんなに朗読にこだわっているのか?その答えは色々考えて、3つあるかなって思います。
①山田裕貴くんという存在
②図書館の魔女
③amazarashiという存在
順番に書いていこうと思います。
①山田裕貴くんという存在
僕は小さい時から言葉を発するのが遅かったです。上に姉が2人いて色んな意味で甘やかされて育ち、自分から伝えることもろくにせず、逆に周りの様子を伺い過ぎて先回りして失敗しないように立ち回って自分の言葉を飲み込むクセがついたのかなって思います。
そんな自分を脱却したかったからお芝居を始めた部分もあって、多少は改善されたけどそれでも言葉が出てこなくなることがまだあります。話した先で相手がどう感じるか先に自分で思考してしまうからだと思います。
そんなモヤモヤを漠然的に抱え続けていた大学3年生の頃、山田裕貴くんがテレビや映画に沢山出るようになって、元々戦隊ヒーローやっていて知っていたからこそ自然と作品を観るうちにお芝居はもちろん、彼の人間性というか発言にすごく強い憧れを抱くようになりました。自分も考えたりするようなこと、哲学だったり心理学だったり中々言語化できないような事象のことに対しても、真っ直ぐに言葉に表現しようとしてるその熱い思いに、自分も『自分の言葉』で語れる人間になりたいと思うようになりました。そもそも語るって何だって自分で言っていて分かってなかったのかなー。
②図書館の魔女
これはほんとに全人類に読んでほしい本で、初めて読んだ時雷が落ちたような感覚になりました。本嫌いだった僕が本を好きになったきっかけの本で、あらすじは割愛しますが、単行本はとにかく辞書くらいの分厚さで読むのが難解でした。でもなんとか読み切りたいと思って、僕は音読することにしました。我流でしたけど朗読というものにハマる第一歩を踏んだ瞬間だった気がします。それが楽しかったというのもあるけれど、1番感銘を受けたのは作中で主人公に語られる「言葉とは手段でも道具でもなく、その身から溢れる全てのモノを指すのだ」というセリフです。手話だって、口話だって、文字だって、ジェスチャーだって、表情ひとつとってもそうである。つまり「私が死なない限り、『私の言葉』が尽きることはない」と言ったのです。どうしたって話すこと、書くことで伝えるという意識になりがちだけれどそうじゃない、自分自身が『言葉』でもあるのか!と気付かされました。
③amazarashiという存在
おそらくこれが1番の理由にあたるものであり、山田くんのように語れるようになりたいと思いながらいつの間にか自分で線引きして、結局何もしないことを選んだ自分に次なる衝撃が起きました。amazarashiは音楽性はもちろん、何よりも歌詞が文学的で、ストレートなメッセージ性があります。曲によっては皮肉や風刺が効いていたり、強い言葉が多かったりするのですが、でもそこにちゃんと聴けば分かるような想像の余地を残していて、最後には希望を持たせてくれます。だからほんとに救われたような気分になります。中でも革新的な歌だと思ったのは朗読形式のサビ以外にはメロディがあまり無い『ポエトリーリーディング』というものです。音楽が無ければまさしくただの詩の朗読なんですが、その言葉の羅列を聞いてるだけで内側がらたぎってくるものがあり、直感的にこういうこと自分もやってみたいって思ったのです。別にミュージシャンなりたい訳ではなく(ギターは今年から始めたけど笑)、役者としてこれと同じことができる表現方法は何か?と思った時にパッと思いついたのが『朗読』だったのです。元々読書が好きで音読して読むのが趣味だったのもそこに繋がって、ならいっそほんとに朗読やってみようって今に至るのかなって思います。
全てに共通するのは『言葉』だと思います。人一倍僕は言葉に対して敏感な自負があります。だからずっとお芝居してるんだと思うし、実生活でできないことを芝居でならというのもあった気がします。そして朗読は朗読で普通の演劇とは違う良さがあって普段言えない自分の『言葉』を伝えるにふさわしい手段だと感じたのかなと思います。
思ったことを言える人には憧れるけど、でも逆に言えばそれは相手のことを何も考えてないだけじゃないか?言葉を安く見積もってるんじゃないかという気もする。何かちょっとまずいことを発しただけですぐ揚げ足を取られたり、誹謗中傷と非難されたり、いや言論の自由だと誇示したり、言葉を額面通りに受け止め過ぎてる風潮ない?とか、色々考えて何が正解なのかわかんなくてなってほんとに最近グチャグチャになっている。
でもそれで一生黙っている側にいたら何も変われないのも事実で、要は非難されるのが怖くてビビってるだけだろうって最近気づきました。正解ばかりを探し過ぎてる昔の悪い癖がそこにも出てる。
だから『自分の言葉』を恐れずに開示していこう、やりたいことをやるためにちゃんとぶつかっていこう、自分を知ってもらうために伝えることも伝えなきゃやりたいこともできないだろ、という想いで、日記ひいては詩を書いてみることにしました。共感されなくてもいい。どこか自分が世間とズレてる自覚はあるけれど、常識の範囲内で思ったことを出来るだけ簡潔に言語化する訓練をしていこうと思います。どうかよしなに。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
深田祐来