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にじフェス2025、赤城ウェンの短歌を読解する


はじめに

にじさんじフェス2025、すごく楽しかったです。わたしは会場には行かず配信やSNSの投稿をチェックしていましたが、ファンとしてのうれしさ満載の企画や展示に胸がいっぱいになりました。ヒーローショー、快楽の量がすごすぎてちょっとずつしか見れない。

展示のひとつに、「百人一首」がありました。約100人のライバーさんたちが直筆で短歌を詠み、日本の古典文学に造詣の深い(こんども出される)ライバーの栞葉るりさんがそれにコメントを寄せる、というものです。

そして作品の一つ、赤城ウェンさんの詠んだ歌がこちら(画像は、るりさんが行っていた各作品を振り返る配信のものをキャプチャしました)。


「今日の僕 明日から見たら 昨日の僕 冬は寒いし 夏は暑いし」作:赤城ウェン

何か深そうだけれど、ほとんど当たり前のことしか言っていない。雲をつかむようなこの歌は、意味とかではない次元で話がドライブし、リスナーの理解をかわし続ける彼の人柄そして配信を体現したようで、上述の配信でも、るりさん・コメントともども困惑しきりでした。その通りだ。

しかしわたしは、この短歌を目にしたとき、非常な感銘を受けたのです。一体なぜなのか、自分でも全然わからない。

わからないのですが、しかし皆がこの歌の理解しがたさに苦しんでいる今、趣味でたまに短歌を読む、ひとりのぎゃうちゃんズ(赤城ウェンさんのファンネーム)として、自分がどう感銘を受けたのか、言葉にしなくてはならないと思いました。
これから、この短歌を読解します。

※わたしは趣味で少しだけ短歌を読んでいますが、完全に趣味で、ちゃんと勉強したりしているわけではありません。変なところがあったらすみません。

読解をする

この歌は、「~昨日の僕」までが上の句、「冬は寒いし~」が下の句です。ベーシックな三句切れ(上の句と下の句の間に区切りがある)と読めますが、同時に、

  1. 「今日の僕」

  2. 「明日から見たら昨日の僕」

  3. 「冬は寒いし夏は暑いし」

の三つの塊を意識したいと思います。

上の句編

まず、上の句を読みます。

「今日の僕」を、「今・ここにいる自分」と解釈しましょう。たとえば、今・ここにいるわたしは、パソコンの前に座って、キーボードを打ちながら画面を見ています。

このとき、自分の身体と視点はとうぜん一体です。しかしそこで、不意に「明日から見たら」という着想が到来したらどうでしょうか。

「今・ここにいる自分は、「明日」からは、「昨日の自分」として見えている」

そう思うとたちまち、見る視点は「明日」へ奪われ、「今日の僕」は見られるだけの肉体になってしまいます。一体だった二つは解離してしまいます。

問題は解離だけではありません。「昨日/今日/明日」という、時間への意識があります。生き生きとした現在に生きているはずの自分は、「明日」に見つめられることで、もはや「昨日の僕」になってしまう。すでに決定し、冷たく硬直した、過去の存在になってしまう。

とはいえ、上の句を読んで感じるのは悲劇的な悲しみなどではありません。むしろ馬鹿馬鹿しいまでのトートロジー、ナンセンスさです。
その空虚さ、乾いた感覚こそが、上述した見る-見られる関係のなかで発生するものではないでしょうか。「明日」のまなざしは、今・ここにいる自分の豊かな内面などは意にも介さず、肉体の表面ばかりに視線を注いでくる。そして「僕」は冷たい過去になってしまう。「明日」からのまなざしを意識したとき、今の自分の生き生きとした感情は、「過去」としての固定化、そして身体的な外観への還元によって、二重に死んでしまう。

このように、日常を生きている私が、ふとした思いつきによって相対化され、ぐらつく。自分という存在が、日常から剝がされて、「生」の感覚から遠ざかる。そんな瞬間を、わたしは上の句から読み取りました。

下の句編

しかしこれだけだったら詩というよりただの哲学的な思いつきかもしれません。わたしが真に感銘を受けたのは、この歌の下の句の展開にです。

まず、上の句で示された「『今日』から『明日/昨日』へ」という時間的な広がりが、下の句では「冬/夏」、つまり季節がめぐる一年単位へと一気に拡大しています。つまりこの歌は、

「今ここ→数日(明日/昨日)→一年(冬/夏)」

と、時間的スケールがどんどん広がっていく歌なのです。
さらに、空間的にもスケールは広がっています。上の句は「僕」についての話でしたが、下の句では季節の話になっているように。

であれば、この歌は「視点がどんどん巨視的になり、遠ざかってゆく歌」なのでしょうか。
一面ではそうです。今・ここの自分から「明日」へと幽体離脱した視点は、さらに上空へと浮かび、一年そして季節全体を見渡せるほどの位置へ来ています。

しかし他方で、「寒い/暑い」というビビッドな主観的感覚が注意を引きます。「寒い/暑い」と感じる、あるいは感じたことのある、「肉体を具えた存在」が意識される。この場合は、「僕」でしょう。
二-三句目では肉体から離れ「昨日の僕」を他者のように見つめていた視点が、下の句ではふたたび肉体のもとへ戻っているようでもあるのです。

でも、下の句の内容はやっぱり空虚です。当たり前のことしか言っていない
。「僕」の感情はほぼ全く表現されていない。「僕」が解離を経てふたたび一体になっていたとしても、生き生きと充実した存在になっているわけではありません。

たしかに「寒い/暑い」は、きわめて主体的で有機的な感覚です。しかし、「寒い/暑い」という思いは、たとえば「うれしい/かなしい」といった思いに比べて、内面を伴いません。「自分とは何者か」みたいなことを意識しなくても、寒いとか暑いとかは、反射的に頭を支配します。

冬は寒い。夏は暑い。トートロジカルな表現が二-三句目と同様であるように、自分をめぐる空虚な感覚もまた、二-三句目から続いたままです。ただしこの空虚さは、二-三句目のように、ふとした思いつきによる瞬間的なものではない。一年を通して、「僕」が「僕」であるまま、連綿と続いていっています


以上の読解をまとめます。この歌を、わたしは以下のように解釈しました。

「現在を生き生きと、豊かな感情や知覚とともに生きるはずの『僕』は、ふとした瞬間に『明日』からのまなざしを意識し、すでに決定された存在としての自分、死んだような感覚を得てしまう。どこか空虚を抱えながら、それでも日々は延々と続き、『僕』はそのなかで暮らしつづける。」


おわりに

豊かな情感ではなく、むしろある種の空虚さや「当たり前」さ。ゴージャスなレトリックではなく、情報量を絞ったトートロジーや反復。こういった方向性は、最近の短歌によく見られるものの一つです(睦月都さんが「抑止する修辞、増幅しない歌」(『短歌』2019年10月号)という文章で指摘していました)。

例えばこういう歌。

夏の本棚にこけしが並んでる 地震がきたら倒れるかもね

五島諭『緑の祠』(書肆侃々房、2013年)

そのへんのチェーンではないお店より安心できる日高屋だった

鈴木ちはね『予言』(書肆侃々房、2020年)

赤城ウェンさんのこの歌は、こういった現代短歌の潮流と共鳴するものとして読むと、その良さが浮かび上がってくるのではないでしょうか。

いまのVTuberの最前線に立っている赤城ウェンさんは、これら現代短歌が表現する、あるいはそのさらに先のエモーションや自己を、生配信や動画という表現媒体で、見つめ、表現しているのかもしれません。


飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬も一瞬のこと

吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)
なんとなく赤城ウェンさんっぽいなーと思った


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