新世紀エヴァンゲリオンを見た
新世紀エヴァンゲリオンを見た。まじでなんじゃこりゃ。
名作と名高いこの作品が、どれだけの人に影響を与えてきたのか、わかった気がする。
ちなみに、劇場版は旧は見たが新はまだ見てない。
サードチルドレンと大人
シンジ君、かわいそうじゃない?
何度かあるシーン。
ミサトさん「シンジ君、エバーに乗りなさい!」
シンジ君、これを拒否。
ミサトさん「いつまでもそうやって逃げていればいいのよ!」「どうするかは自分で決めるのよ」
いやー。えぐいっす。自分の意志でエヴァに乗ることを拒否してるにも関わらず、「エヴァに乗ることを自分で決意しろ」という大人。つまりどうしてもシンジ君にエヴァに乗ってもらわないといけない状況、お願いする立場でありながら、その責任を放棄する残酷さ。残酷な天使のテーゼってこれか。
ガキのわがままに大人はいつまでも付き合ってられないとか、そんなレベルの話じゃないですよこれ。第3新東京市民の命かかってんすよ。
だったら大人のやるべきことはただ1つ。シンジ君を厚待遇でもてなしてエヴァに乗ってもらい、その責任は全部大人が負うことでしょう。
大人って、「純粋じゃなくなった子ども」だと思う。利己のためにあらゆる手段を講じるようになっただけ。揺れ動く心、困難な状況に対して対処する方法を覚えただけ。結局はミサトさんも何かに怯え、嫌なことから逃げ続けている。
葛城ミサトのジレンマ
・父親からの承認欲求
ミサトさんの弱さは「認められたい」ところにある。無き父に構ってもらえなかった記憶から、加持に理想の父親を求め、「その優しさで、お願い、私を汚して」と自罰的になる。
・認められても、嬉しくない
シ「昇進おめでとうございます」
ミ「ありがとう。でも、正直あまり嬉しくないのよね」
〜中略〜
シ「昇進ですか。それってミサトさんが人に認められたってことですよね。…でも嬉しくないんですか?」
ミ「全然嬉しくないってことはないのよ。少しはあるわ。でもそれが、ここにいる目的じゃないから」
前項との矛盾。解釈が難しくなる。ただ以下のセリフを組み合わせると解釈の余地が生まれる。本当の自分とは何なのか。
「認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではないのよ」「本当の自分はいつも泣いているくせに」…「こんなの本当の自分じゃない!そう思い込んでいるだけなの!」
演じている自分が認められても嬉しくない。誰かに本当の自分を認めてほしい。でも演じている自分も、自分なんです。それを分かっているのに、そんな自分を認めてあげられない。
・刹那的な自罰心
「簡単な快楽に溺れたいだけ。刹那的な逃避で心を癒したいだけ」と言いながら加持と身体を交えるミサトさん。この一時的な現実逃避では、厳しい現実を何も変えることが出来ないし、自身の心さえも本当の意味で癒すことは出来ない。それを理解しているはずなのに、一時の快楽に身を委ねてしまう。
・汚れた自分自身への絶望
「時々自分に絶望するわ!嫌になるわよ」という言葉は、すっかり大人になり、汚くなった自分への失望。あるいはセカンドインパクト以来何も変わっていない未熟な自分への失望。
本当の自分を認められたいのに、昇進を褒められても嬉しくない。
辛い現実から逃げるなと言いつつ刹那的な逃避をし、それによってすっかり汚れてしまった自分自身に絶望する。
これらのようなジレンマで形成されたのがミサトのパーソナリティである。
本当のミサトはまだまだ未熟で、その未熟を悟られないように外側の皮だけが厚く成長してしまった。自己の内側と外側の乖離に耐えられず、時に絶望の底に落ちてしまう。その乖離ごと、表面だけでなく深層も愛してくれる人を探しているのだろう。家族を失った人間ならなおさらだ。
こんな時、まず自分自身が自分を認め、愛してあげなくてはならない(らしい)。自分の意識の内で「どちらの自分も自分だ」と理解し、内外を繋いであげればいいのかもしれない。
というようなことは最近の自己啓発本や動画でいくらでも言われていることだが、みんなそんなことできてるんですか???人間は皆、大なり小なり悩みや自己矛盾を抱えているのだと推察するが、「悩みを乗り越えた顔」で解決策を話す人にはもう悩みってないんですか?
多分違う。根源的な悩みには一生付き合っていくしかないと、私は思っています。
だからねミサトさん。悩みを抱えることは最も人間らしい行為であって、その生き様が美しいんです。自分自身を認めてあげられなくてもそれでいい。愛してくれる人が見つからなくてもそれでいい。その苦しみからは逃れられないのだから。
ミサトさんも、笑えばいいと思うよ。