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瑞浪透 —— 「天使と〈弟〉のための試論」

 こんにちは~! さきぶにちゃんです!
 今回は、ぼくが瑞浪透という名義で『ビジュアル美少女』という同人誌に寄稿した文章、「天使と〈弟〉のための試論」の掲載許可をもらったので、全編公開してしまいます! 一部改稿しているので、原本が読みたければ『ビジュアル美少女』にGo! だぜ!


préface——gingembre de l’amour

 諸君、恋をしよう。僕たちの頭をこれほどまで悩ませてやまない種々の命題などまったくどうでもよくなるほどの格別の宿命——すなわち、恋——を前に、己の持ちうる全てを賭け、これに没頭しようではないか。ところが僕たちの一部、少なくともこれを書いている当の僕自身がそのようにはできずにいる。どうせ君たちもそうなのだろう。
 というのも、自意識という名の怪物を好き放題に肥太らせてしまったがために、内側から喰い破られ、いつの間にかこの身体を乗っ取られていたからである。しかし、怪物は恐れている——何をか。ほんものの天使の降臨を。違う。ほんものの天使が僕たちの前にうっかり現れてしまい僕たちにとってもはや怪物が必要でなくなること、これをこそ怪物は恐れている。僕たちを責めることによって僕たちを守ってきたはずの怪物は今となっては僕たちを守ることよりも、己を保存することを優先し始めているのだ。さて、僕たちはいかにすれば傷つくことができるのか? 答えを求めるにあたって好都合なことに、僕たちの目の前には「美少女ゲーム」という名の擬似天使装置が置かれている。とあっては、ひとまずこの僥倖にあずかるのが最善の策といえよう。
 そうしてすべてを語り終えたとき、われわれは気づかされるはずだ。今や、わたしにはすべてが許されているのだと。要するに、わたしはふとした瞬間、眼前に垂らされた縄に興味本位で首を通し、戯れに足場を蹴り飛ばすことができる。支えを失って落下していく、細い首がぎゅうと絞まるまでの一秒にも満たない瞬間が永遠を超えてなおも引き延ばされ続け、わたしはと言えばありとあらゆる「ナマ」の快楽を享受させられ、声にならない声で叫ぶのである。「わたしは射精している!」 と*。

天使に声変わりはない 少年はそう告げられて喉を焼き切る

木下龍也『きみを嫌いなやつはクズだよ』より抜粋

*認めたくないことだが、われわれの脳はエンドルフィンだとかいう名前の、ふざけた物質によってキモチよくなる。たとえば飯を食ったりセックスをしたりというときにこれが放出されるのだが、今際の際には文字通り死ぬほど出るらしい。ときに、シリアルキラーとして知られるトマス・ニール・クリームが処刑される瞬間に「わたしがジャック——(I’m Jack——)」と言い放ったことから、彼こそが切り裂きジャックだったのではないかという噂が立ったが、犯行の手口が大きく異なることが指摘され、件の発言は現在では「わたしは射精している!(I’m ejaculating!)」の聞き間違いだったのではないかと言われている。

tu étais vraiment un menteur

 さて、ここにNTRだのBSS だのといったジャンルがある。そこに隠れている心理について大差はないだろうから、ここでは呼称をNTRで統一させてもらうが、このとき、我々がNTRに「何か真理めいたモノ」をかぎ取ってしまうのは、いったいなぜなのか。これはマッチョイズムなのであろうか。つまり、女は男らしい男に傅くべきであり、すなわち竿役の男と「カノジョ」の関係こそが自然なのであり、女性の権利などというたわごとはすべてペニスの前に屈するべきなのだろうか。
 古来、セックスとは狩りを終えたオスに対する報酬であった。なるほど、弱いオスは戦いの中で命を落とし、セックスの快楽は強いオスにのみ許された特権である。セックスを終えたオスは疲れを癒して、再び狩りに出ていくのであるが、このとき、女とはすなわちセックスをするための機械である (それでは現代においてこの構造が覆されたかといえば否であり、女はセックスアピールによって自らを商品化(パッケージング)し、男によって「買われている」のではないか?)。
 そして女は妊娠し、ヒトという種の存続に貢献するわけであるが、そこは心底どうでもよい。とにかく、女は「身重になる」こと、「激痛とともに出産する」ことという、明らかに個体として生き残る上で危険なものごとを、いとも簡単に承諾する。
 正直な話、「セックスによって男と女が融け合って一つになる」などというのは文学の手つきでしかなく、男女の性差というものをこれでもかと悪趣味に強調する営み、それは男が女を「わからせる(よく使われる表現であるが、かなり寓意的である)」ための、すなわち、男尊女卑の再発明にほかならない。
 男と男の間においてもこれは前提として厳に存在し、セックスとはペニスをヴァギナにあてがうことによる序列付けの行為である。男女のセックスに立ち返って考えてみれば、「ペニスを勃起させ挿入すること(能動)」が「ヴァギナを濡らしペニスを受け入れること(受動)」と対応しているのは言うまでもなく、このときクリトリスの勃起は抵抗にさえなることはない。男同士でセックスがなされるとき、ペニスを勃起させるものと挿入を許すものがいて、口であろうが肛門であろうが、それはヴァギナであり、ここに序列付けが行われる(女同士のセックスについては、私はここで語ることができない。女が語るべきであろう。ただ一つ思うのは、女が描く男同士のセックスにはここまでさんざ書いてきたような序列付けを読み取ることができない。私が思うに、女にとってのセックスは、男による征服に対する被虐の悦びではなく、しかし抵抗にさえならない、ただのっぺりとした包摂と諦めである)。
 では、改めて問に戻るとしよう。「寝取られマゾ」たる我々は、「竿役のマッチョイズム」に殉じて死ぬ、か弱きオスたちであるのか。我々がNTRモノを読み進めるときには、「強いオス」であるところの竿役に移入し、「ペニスによって征服されつつある女」に向けてペニスを勃起させているのであるか。
 答えよう。仮に本当にそうであるならばそれはNTRモノである必要など微塵もない。凌辱モノや調教モノでよいのであり、「寝取られる主体」たる主人公など必要ないのである。ではなぜ我々は主人公を必要とするのか。
 我々は、竿役のマッチョイズムをあまりにも、あまりにも自明的に内面化している。つまりペニスが大きく筋骨隆々であることが強いオスの条件であると認めながら、しかし、未だそこに囚われている浅ましい男と女に向けてペニスを勃起させているのである。我々は本能とは違うところで、つまりは極めて理性的に勃起したペニスを極めて文化的にシコることができ、愛を裏切ってまでペニス程度にあっさり陥落してしまうような愚かなメスに、さらにはペニスで女を征服する程度のことが至上の悦びであると信じてやまない愚かなオスに向けて、呆れたふうな溜息とともに射精することができる。このとき、「竿役」と「カノジョ」の関係がそのまま「我々」と「NTRそのもの」に置き換えられていて、我々はNTRそのものを、つまりは竿役のマッチョイズムというものを、ペニスによって征服しているのである。

 ……などと興奮気味に書きつけたところで、我々の抱える諸問題が解決するとは思えない。呆れたふうな溜息とともに満足のいく射精を終えてもなおいまだにNTRがつらく、苦しいことに変わりはない。これでは、我々自身が自らの敗北を正当化しているのと何が違うというのか。こう言い換えてもいい。僕たちは、どこかで間違えているのではないか?

 時に、セックスを終えた少女は少年に問いかける。「ねえ、私のこと愛してる?」というのは、とりもなおさず「愛してるって言って」という意味に他ならないのだが、少年はこれに返答することがどうしてもできない。彼にとってはセックスこそが愛の究極形であり、それらの行為以上に彼の愛を証明するものを持ちえないからである。しかし、それでもなお彼女が満たすには能わなかった。少年は沈黙をもって敗北を宣言する。「もちろん。なんたってきみは、このぼくの娘なんだからね!」と答えてあげることができないために、少年はNTRのコードにのっとって痛いほどに陰茎を勃起させて再び少女に覆いかぶさるのだが、「僕の愛を証明する究極の方法」であったそれが少女にとって「自らの父親との果たされえない‐虚しい理想の恋」の代替でしかないのだということを心の底から理解してしまい、己の無力に涙を流しながら少女をファックする。この時、少年には知るすべすらないことであるのだが、悔し涙に顔を歪ませながら腰を振る少年の頭を撫でながら少女は初めて「母として」ヨガリ狂うことができるのである。
 僕たちの誰もが、いつの日かこの少年である。それが分かってしまったから、あるいはすでにそうあってしまったから、この絶望をNTRに転移するという形で解決しようとしたのだろう。NTRにおける竿役とはカノジョが夢想する〈男性〉のイマージュ、〈一切の‐欠落を‐ふさぐであろう‐もの〉、すなわちカノジョのパパのことにほかならない。
 だから、NTRソノモノを根本的にナンセンスであると却下してもよい。なぜなら、NTRは空虚な「父の名」によって根拠づけられた、少女の根本的な誤解によって駆動されているからである。
 ここにきて僕たちはいかにしてカノジョを愛するべきか?ということを、もう一度考えなければならない。僕たちが、この絶望を乗り越えるために。果たして、僕はセックス以上の方法でカノジョを愛してやることができるのではないか?
 一つ、歪な方法ではあるがこれを解決する案がある。筋肉少女帯「香菜、頭をよくしてあげよう」を例に挙げるが、「僕」は、「香菜」について「抱きしめてあげる以外には何か/君を愛す術はないものか」と「ウムム!と考え」、「香菜、君の頭/僕がよくしてあげよう」と思い至る。 これは一つのミソジニーの形態であるのだが、しかし懸命に〈父〉の代替としてカノジョを愛そうとする、不器用なやさしさの発露である。

vengeance agréable

 女について。
 「天使」というものがいかにして生まれるのかということについてしばし考えてみることにしよう。果たしてすべての女が天使であるのか、否かについて(われわれは、何もベンヤミンを引き合いに出さずとも、天使について語ることができる。あるいは、できなければならない)。
 それについては、反例を挙げることで簡単に答えを出すことができる。高島瀬美奈のような女は、天使ではありえないのだから。「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」というあまりにも有名な言葉に倣えば、女もまた天使に生まれるのではなく、天使になるのだと宣うことができよう。それでは天使とはどのような女を指すのだろうか? それはメンヘラだったりマゾだったりするのであろうが、ともかく、「男によって愛されるべき」女、と言えるだろう。「俺こそが愛してやらなければならない」という強迫を掻き立てる魔性の女である。彼女は裡に虚ろな空間を抱えていて、ペニスの挿入=愛されることによってそれが塞がれることを渇望している。より具体的に言えば、決定的に自尊の感情を欠いており、立派なペニスを持つオスに愛されているというステータスによって歪ではあるにせよ自らを肯定できることを望んでいる。このとき女たちが男性性に寄せる信頼は途方もなく、男たちは「この女を愛さねばならぬ」と自らのペニスを握りしめる。今まさに、彼女の虚ろに精を注ぎ込まんがために。
 天使たちは父親からオイディプス的に愛されるという経験を持たず、それ故自らの内に「愛されるに値する何か」を見出すことができない。これは自尊感情の欠如という形で現れ、本能的に希求している父親、男性性を過大評価するようになる。これこそが〈一切の‐欠落を‐ふさぐであろう‐もの〉である。不在である父に対して母親はといえば、娘を通じて自らが生きることの叶わなかった晴れやかで幸福な人生を生きなおそうとする。少女は、母親による同一化を受け入れて天使となるのである。母親(神)という権力に課せられた使命を果たすべく、自らの意思を喪失してしまい、美しい女の御使いとして、似姿として僕たちの前に現れる。天使とは、危ういほどに美しい女のハリボテである。
 NTRモノとして名高いゲーム『対魔忍ユキカゼ』のヒロイン水城ゆきかぜには父がいない。ゆきかぜ同様対魔忍であった父はかつて任務中に死亡しており、母親を除いて肉親といえる人間が存在しない。そして紆余曲折を経て最後には母を手籠めにしていた矢崎利一という男の奴隷娼婦に堕してしまうのであるが、この顛末はまさしく、堕天と呼ぶにふさわしいカタルシスを僕たちに与えてくれる。目を爛々と光らせ、矢崎の巨大なペニスを舐めながらカメラに向けてピースサインを見せるゆきかぜは満たされている。
 母不知火の肉体が熟れた女としてのそれであるのと対照的に、ゆきかぜの肉体は未成熟な少女のそれである(ゆきかぜには陰毛が生えない!)。ここに母と娘の対立を見出すのは少々強引であるが、ともかく、矢崎は長らく不在であった父の座にどっかりと腰掛けて不知火とゆきかぜとをまったく同じように愛する。「こうするしか、なかったの」「さよなら、たつろー」と、カレシ(秋山達郎)へのビデオレターの中で目を爛々と輝かせるゆきかぜは、〈父〉に愛される快楽、〈一切の‐欠落を‐ふさぐであろう‐もの〉を挿入される快楽に酔いしれているのである。
 本物の〈父〉の到来に父の代替物でしかない僕たちはあっさりと敗北、ノーハンドマゾ射精をキメてしまい、それ以降彼女が寝取られる光景を眺めることでしかペニスを勃起させることができなくなってしまった。
NTRにおける男根の大きさは、すなわち男としての完成度——それは、女が欲望する異性としての男としての完成度を意味する。「ちんぽが大きいから気持ちいい」のではない、「誰だってパパに犯されたら気持ちいいに決まってる」なのだ。「○○のじゃ届かなかったところ」とはどこのことであるか。それは具体的な位置を占めているのか。そんなことはわざわざ書かなくとも了解されるところであろう。
 ポルチオ? バカ言え。

 しかし、では、なぜ、人見広介は怪物を見ることができてしまったのか? これは、先ほどまでの僕たちにさえ了解されていなかったことである。つまり、〈一切の‐欠落を‐ふさぐであろう‐もの〉という男性のイマージュをNTRの竿役のような形(己の外部)でなく自分自身の内に見出してしまったのは、いったいどうしてであろうか?
 ところで、人見広介には姉がいる。ご存じ、高島瀬美奈である。その引き締まった肉体は見るだにストイックであり、おそらく既婚者である——この女が人見広介に与えた影響について、僕は無視することができない。
 異性の兄弟、特に弟に対する姉という存在は、極めて厄介なモノになりうる。
 例えば、明確に恋愛対象として迫ってきながら弟を「弟くん♡」と呼ぶことで自らが弟の姉であることを殊更に強調するような女、エロゲや同人音声における「姉」表象は、基本的に一人っ子オタク君のいち妄想に過ぎず、姉という生き物は弟に興味を持つ限りにおいて極めて有害である。
 少女はその発達過程において、自らの父親からオイディプス的に愛されたいと願う(つまり、親子かつ異性として)。そのために化粧であるとかおままごとであるとかいった母親の真似事を通じて、やがては母から父親を簒奪することさえ目論むこの小さな野心家が、弟という格好のおもちゃを放っておくはずもあるまい。
 姉は弟の世話をし、愛そうとする……母「のように」……。だが悲しきかな、この女は自らの性と弟の性が異なるということすら根本的に理解できていない。何ゆえにか自らにはついておらず、弟の股間に生えているペニス——これによって息子は母による同一化を拒絶し、異性として愛されることができるはずであった——を、無邪気に引きちぎる。自らが母からなされたのと同じやり方で弟を躾けることにする。つまり、姉は弟を躾けることによって自らが母の代理として君臨し、神に、つまりは自分にとっての母と同一の存在に成り代わろうとする。そうすればきっとパパに愛してもらえる——「愛」が意味するものが何なのかさえ、ほんとうのところは知らないのだけれども——。

parce que je suis une femme

 こうして、姉という狡猾な生き物の私欲のために、弟は利用される。姉は天使にならずに済み、副次的に弟はペニスを剥奪され天使となるべき少女同様に男性性を過大評価するようになる。弟の脳に天使の回路がインストールされたのである。己が異性に——弟にとって父とは同性の親なのであるのだが、あくまで異性として——愛されるべき「何か」が決定的に損なわれているという空虚。あるいはこの空隙をしてヴァギナと呼ばしめるのかもしれないが。
 言い換えれば、人見広介もまた天使であってしまったのだ。人見広介は両性具有であり、ほとんど完全なヴァギナと不能のペニスを持ち、男性性に対して父権的=暴力・怪物的なイマージュを抱いている。ゆえに天使を前に自らのペニスが勃起してしまい、天使の回路では処理することのできない極めてヤバい事態(エラー)が生じたとき、ヴァギナとペニスの狭間において決定的な分裂が生じてしまったのであろうことは、想像に難くない。

 話をもどして、ここに一つ問を立てよう。「果たして、性ではない領域で君を愛することができるか」。これは昨今ライト文芸に広く問われている問でもある。住野よる『君の膵臓を食べたい』をはじめとするそれらは、いかにしてこれに取り組んできたのか。
 斜線堂有紀による小説『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』では、肉体が徐々に金と寸分たがわぬ物質へと変貌していくという奇病、「金塊病」——多発性金化筋線維症によって肉体へと向かう欲望=性欲が金銭欲として見事に変奏される。
 ある日、江都日向(=エト)は金塊病患者である都村弥子の死体を相続しないかという提案を受ける。彼女の死体は三億円で買い上げられ、エトは目下抱える様々なしがらみから自由になることができるのだ。ここでの「三億円を受け取ってほしい」とはつまり「エト、わたしは君とならセックスしてもいいんだよ♡」という誘惑であり、このとき都村弥子はどこまでも天使なのであるが、エトはこれを拒絶する。物語のクライマックス、足を失った弥子を車いすに乗せて海へ向かい、エトは彼女との心中を図る。国が買い上げるはずの、彼女のカネになる=性的な身体を自らの手で海の底に沈め永久に毀損することによって、その愛を証明しようとしたのである。
 最終的に心中そのものは失敗に終わるものの、三億円のほとんどが与えられなかったことでエトの体面は保たれたのであるが、さて、都村弥子はエトにとって最後まで天使であったのだろうか?
 答え。三億円という「欲望の対象」をエトに遺さなかった弥子は天使でなくなった。弥子自身がエトに「性でない領域で君を愛する」ことを赦したのであり、弥子は自らがエトに狂おしく求められること=エトに愛されるチャンスをむざむざ投げ捨てたのである。
 ここに、僕たちの目指すべき地平がある。
 天使である女は、男に「性的に愛すること」をどこまでも要求する。ゆえに僕たちもまたこれに与してしまうのだが、これを拒絶することによって、性愛から恋愛への転換を果たしていかなければならない。それはすなわち天使とのかかわり方、擬似天使装置と銘打った「美少女ゲーム」とのかかわり方をさえ、再考しなければならないことを意味するだろう。
 美少女ゲームにおける欺瞞を一つ挙げるとすれば、少女がその魅力を獲得ないし回復していく様を極めて美しく描いていることにあり、もちろん例外はあるが、事実上ほとんどすべてのヒロインが天使である。
他の美少女ゲームに比して『さよならを教えて』がひとつ卓越しているのは、蠱惑的な美少女を美しく飾るヴェールが暴かれる瞬間のエロティシズム——「それ」が実のところただの無機物や獣でしかなかったことが曝露される瞬間——に他ならない。

 ここで、極めて凡庸な結論に至ろう。「性でない領域で君を愛すること」、それはすなわち「君」が秒ごとにその魅力を喪失していくさまを隣で見つめ続けることである。美しさとともに心中してしまわないこと、それでもなお「君を愛している」と力強く断言し続けることである。最も簡単な語彙でいうならば、「ともに老いること」である。恋の始まりが性的な欲求であるということを否定するのは、完璧に、間違いであった。潔癖な僕たちはまずそこから始めなければならない。性的な魅力の価値というものを、唇を噛み締め、血を流しながらでもいい、これを認めよう。しかし、これはいずれ失われていくものであるという点において妥協しようではないか。天使の翼はやがて失われる。その時を迎え、ともに落下するとき、はじめて真に「君を愛する」ことができるのだという信条は、それでも胸に秘めておくこととしよう。

redondunt——parce que je t’aime

 ところで、僕は恋愛の方法論になど興味がないのだ。そもそもそんなものはくだらないのだから。僕のこの7000字余りの文章が全編を通して衒学的な言葉遊びに終始するのは、それがクソの役にも立たないからだ。これはある種の責任逃れでもあるが、君が自らの責任において行動するにあたって一切の邪魔になることはないという宣言でもある。恋の仕方なんてものはどうせ本能に刻まれているのだからそれに基づいた直感的な行動もまた許されてしかるべきだし、一対の男女という考えうる中で最も小さな共同体において、明文化されたルールや指標というものはどこまでもナンセンスである(仮に二人きりの共同体における倫理というものについて考えてみれば、たとえ一方がもう一方を殺してしまったとしても許されないなどという事態はありえず、そこに呵責が生じたとすればそれはさらなる外部の共同体の倫理が意識に上るためであろう)。
 さて、恋について、現時点で僕が書けることはもう幾許かも残されていない。だからあらためて一番はじめの言葉に戻るとしよう。恋に「落ちる」というのもまた寓意なのだ。人は落下によって死ぬのではない——落下した結果として首が絞まり、あるいは地面にたたきつけられ、身体の機能を喪失することによって死ぬのだから!
 などと言ってみたところで、今日のところはひとまず、晴れやかな表情をして筆を置かせてもらうこととしよう。

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