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対談企画 〈ふわふわ地獄〉VS さきぶに #2

​〈ふわふわ地獄〉:
イキ告によって、人間どうしの間に厳然として存在する「引力」を破壊すること――なるほど、問題意識がはっきり現されたテーゼだ。
​​そうそう、ロマンティック・ラブ・イデオロギーって、文字のごとく「イデオロギー」なんだよね。だからわたしたちは異性間の恋愛を自明の理のようにおこなう。話を聞いていて、浅田彰『構造と力』のクラインの壺モデルを想起するよ。いまや明確な王はいないけど、資本の流動を制御する非人称的なレギュレータが、わたしたちの「上」に存在する。恋愛も、上からの力(引力)だ。
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​​ところで、さきぶにさんのnoteも読ませていただいたところ、狙いがはっきり書かれていて好感をもった。
​​特に次の箇所。
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​​・果たして、性ではない領域で君を愛することができるか
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​​・天使である女は、男に「性的に愛すること」をどこまでも要求する。ゆえに僕たちもまたこれに与してしまうのだが、これを拒絶することによって、性愛から恋愛への転換を果たしていかなければならない。
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​​・「性でない領域で君を愛すること」、それはすなわち「君」が秒ごとにその魅力を喪失していくさまを隣で見つめ続けることである。美しさとともに心中してしまわないこと、それでもなお「君を愛している」と力強く断言し続けることである。
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​​実は私自身がこれを実践している最中(パートナーと1年半以上交際しているが、性行為を拒絶されている)だから、共感を抱いた。
​​相手は天使ではなくひとりの人間として扱うこと。これが肝心なのである。
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​​しかし実践しているからこそ言えるつらさもある。プラトニック・ラブって意識の搾取であり、近代の徹底であり、モダニズム芸術であり、イマニエル・カントなんだよね。プラトニック・ラブとは、相手にエロス/タナトスをぶつけることなく、笑顔を振りまくことだ。しかしそれは身体をどんどん貶めることでもある。今、恋愛していて思うのは、わたしは多少愛されているけれど、わたしの「脳=理性」が愛されているのよね。「身体=本能」はいまだ冷遇されており、デートの終わりにひとり快楽天やDLsiteを巡回している。
​​この経験からいうと、死=引力に耐えるのは、結局「近代的知性」っていう、ベタに20世紀的な進歩主義者みたいなことをいってしまうかもしれない。しかし、そうはいいたくないんだよね。つまんないから。加えて、第二次世界大戦によって進歩主義の欠陥は明らかになってもいるから。どうにか無意識のレベルを有効活用しなければならない。
​​プラトニック・ラブによって隠蔽された身体=性=死をどうやって「引力」に還元せず発散するか、それを思想的に探したいところだ。
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​​ちなみに、わたしもエモ・ロックは大好きです!もともと、わたしが文章書き始めたのもそういったバンドを紹介するレビュー文をうまく書くためだ。さきぶにさんと自分は、論理的にはちょっとずれがあるけど、美的には大体「イキ告」イメージがついてるのよね。これをどう言語化していくかが課題っすね。


さきぶに  :
さて、ぼくが何故文章を書くという手段に訴えるかというのを改めて書いておくならば、やはり単純に自分の文章が好きだからで、そこの「正しさ」への執着はないと言い切ってしまって、ひとまずのところはよい。
過去書いた原稿では、ぼくは自らを「恋愛潔癖症」者と自称していて、運命的な出会い、〈彼女〉(=天使)との出会いをずっと待ち望んでいると書き散らした。
三大欲求の中で食欲・睡眠欲/性欲と一本線が引かれることに気づいたのもこの時で、人間が生物として生き残るうえで必要なのが「個体としての存続」「群体としての存続」の二つであり、性欲のみ「個体としての存続」に寄与しないんですよね。さらには「選別する主体」があるというのも特徴的であり(残り二つについて言えば、「神様」ということになるのだろうか)、その主体の神格化というのが、非モテのオタクにとってはあまりにも容易い(私も昨年になって初めて交際をして、一人目の彼女とは一ヶ月で破局をしたのだけれども、二人目は半年ほど続いている)(これは余談だが、面白かったのは、示し合わせたりぼくからそうしたわけではないのだけれども、同衾する段になると二人ともと同じように手脚を絡めることとなった。これは、なぜなのだろうか)。

noteをお読みいただいているのでご存知でしょうがぼくもDLsiteは愛用していて、NTRモノを特に愛好しています。単純に自信というべきものがあまりにもなく(彼女には、人間性が球磨川禊だと言われています♪)(厨二病だし、仕方ない)マッチョな男性性による支配を「妥当」「身の丈に合っている」と思っていたためでしょう。
選別する主体である「女」が、マッチョな男性性を誇示する「男」を選び取る過程は、まさしく堕天であり、ぼくはそのカタルシスで激しく陰茎を擦っていたというわけです。
時に最近自慰で射精することができないことが多く、ではセックスで射精しているのかと言えばそうでもない単純な遅漏なのですが、勃起し、射精するということに困難を感じています。
野生動物のようにセックスをする男女を見下しながら、残りわずかなプライドを、「己は極めて理性的文明的にシコっている」ことに賭けていたのが、堕落してしまったが故でしょう。
流れで書き切ったので振り返りもなく、送らせていただきます。

追伸
おすすめのエモ・ロックバンドなどありましたら、ぜひご教示ください♪


〈ふわふわ地獄〉:
​ほうほう。さきぶにさんの人間性がまたわかった気がして嬉しい~。アイコンって他人から似ているといわれたキャラだったのか……!
​​お互い、「イキ告」っていう冗談っぽい言葉を使っているとはいえ、実際の恋愛経験(の主に失敗経験)が意識されている。これは大事な気がする。
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​​「選別する主体の神格化」=「天使」って概念いいなぁ。気持ちはとてもわかる。これも、裏返しの性別二元論主義っすね。自分もそういうところはよくないと自覚しているとはいえ、かなりある。
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​​話の根幹にあると思うからずばり聞きたいんだけど、さきぶにさんは結局、男女二元論を温存するべきだと思う?
​​自分は、できるなら男女二元論を解体したい。たとえば、自分とパートナーの関係って、性愛はないけど友愛はあるんだよね。仲は良いと思う。だけど性器があるのが問題なんだよ。自分は、物理的にも比喩的にも「去勢」されてしまえば関係はうまくいくと思う。けど、それってあまりにも残酷じゃない?自分の悩みの種は、「去勢されたほうがうまくいくに決まっているけどされたくない」っていう、ギリギリ残った搾りカスみたいな男性性への執着です。
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​​さきぶにさんも男性性の不足に悩んでいるのはわかった。けど、その不足をどこか楽しんでいるように思う(NTR!)。実際、どういう方向性でいきたいのかが気になる。
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​​P.S.
​​エモ・ロック・バンドは無限に挙げられるけど、あえてひとつに絞るならUnderoathをおすすめしたいです。彼らはクリスチャンでもあるので、そういった面からも考察しがいがあるバンドだ。

​​すみません、付論があります。これは返事してもしなくてもOKです。

【壇蜜──「母」の権力】
〈ふわふわ地獄〉は、今週、壇蜜についてしか考えられなかった。これは精神分析理論で説明できる。
わたしは女性経験がなく、なおかつ初めて付き合ったパートナーから性行為を拒絶されており、いわば「去勢」されている。
成人男性が去勢された場合、発生するのは幼児退行にほかならない。わたしの世界に女性は存在しない。「母」か「それ以外」のどちらかである。キモオタアラサー成人男性が爆誕する。図体ばかりデカくなり、多少労働して金を稼ぐことはできる、労働マシーンとして有用だがその実は自分のことをかわいい赤ちゃんだと思っている、きわめて惨めな成人男性になる。そのため、〈ふわふわ地獄〉の無意識は壇蜜へと吸い込まれる。
いつであろうと壇蜜は母であり、女性である。壇蜜はオイディプスコンプレックスを加速させる。壇蜜に脳が支配される。壇蜜は資本主義の倫理そのものだ。対象αとしての壇蜜。象徴秩序としての壇蜜。壇蜜から逃げることは、できるのだろうか?助けて、壇蜜。壇蜜。壇蜜。壇蜜……。


さきぶに  :
男女二元論……が指し示すものを正確に理解しているとは思っていないのですが、ぼくも基本的にそういったものは解体していくべきに思っています。つまるところ性的マイノリティだろうがマジョリティだろうが同性異性関係なく付き合ったりしたらいい(余談ですが、ぼくは一時期男の人とも付き合っていました。ただそれは彼の倫理的態度が狂おしく好きだったのであって、性的な志向は異性に向いています)

壇蜜の付論について少し。ぼくが挙げた匿名の文章における雛菜(=ノクチル=アイドル)と近しいもの(……ペニスの権利を失効させてしまう〈母〉の根源的暴力……)を感じました。
ぼくは名取さなにガチ恋しかけていた時期があり、結果として名取さなのライブ配信等を見ることが「(文字通り)できなくなった」。けれども、最近名取さなが「地獄でなぜ悪い」をカバーしていて、友人がよかったよというので聴いてみました。

名取さなって少し不穏な設定があって、おそらくサナトリウムに隔離されている結核症(あるいはそれに類する「死ぬ」病気)の患者なんですよね。孤独なそれがインターネットを通じて「ナース」のキャラを演じている(キャラを演じている(キャラを演じている(キャラを演じている(以下、無限に反復されることができる))))。
「嘘で何が悪いか」という歌詞を星野源が歌うことと名取さなが歌うことの間にはすごい距離があって、ぼくにとって後者は実に醜悪とさえ思える。それが単なる開き直り以上の意味を持つとき、かならずや感動ポルノとしてしか理解されないであろうから。
ゲームのキャラクターやバーチャルYouTuberってそもそも存在として希薄であり、精神分析的な意味における「核」が存在しない「イデオロギーの崇高な対象」(S.ジジェク)なんですよね。壇蜜はその点現実的な肉体、さらには「核」を持つから、母であり女性として崇高な肉体を獲得したとしてもその欺瞞はいつか暴かれる時が来ます。

ぼくが男性性の不足を楽しんでいる、というのは、確かにある意味でその通りだと思います。ぼくは球磨川禊であり人見広介である。不能のペニスとほぼ完全なヴァギナをもち、その狭間にある分裂をさえ己の結界として他者を巻き込む力に変じさせている(文章を書くこと、文章を読ませること)。
ぼくがどういう方向性でいきたいのか。これは難しくて、文章が書ける(何かを表現できる)ならば、狂い続けていくことがいちばんの幸福なのではないかとさえ、思うことがあります。

追伸
Underoath、聴いてみます

追伸その2。

エモ・ロック、Wikipediaで挙げられているバンドの中だとMayday paradeやFall Out Boyが好みですね。


〈ふわふわ地獄〉:
​そう!雛菜ちゃんと壇蜜は、包容力がありつつ超然としてる女性って意味で近いよね。母の包容力を権力として自覚的に行使している人物であると思う。
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​​名取さなは自分も一時期追ってたなー。特に2020~2021年頃はかなり見ていた。
​​彼女は自分が性的消費されることに対してとても敏感だし、繊細に防衛しているイメージだ。しかし雛菜ちゃんと壇蜜のように「母」の権力を使ってくのではなくて、「子供」の奔放さをもって性的消費を撥ね退けている。
​​名取さなの裏設定は、以前までは「ああ、そんなのあったな~」程度だったけど、近年はかなり掘り下げられているよね(特にミュージックビデオで)。
​​なるほど、名取さなは確かにある意味姑息かもね。ただでさえVTuberって虚構の存在なのに、名取さなは「自分は妄想の世界の住人である」ってもうひとつ予防線を張っている。名取さなは「キャラクター(病人)」の「キャラクター(看護師)。いわば、名取さなの動画はぜんぶ劇中劇としてできている。そういったキャラ設定そのものが、アイロニカルな没入(大澤真幸用語)のトリガーになっているわけだ。
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​​ところで、VTuberは虚構の存在とはいえ、完全に二次元の存在ともいえないと思ってる。とりわけ名取さなには、実在性がある。というのも、彼女の楽曲にはジャズやファンク風の曲が多いから。
​​アフロ・アメリカン文化には、「ここではないどこか」を目指す芸術の系譜がある。ブルースは労働の苦しみを歌った。ジャズやファンクも一部の作品は宗教と結びついた。とりわけ宇宙的想像力が炸裂した文化の系譜をアフロフューチャリズムともいったりする。ともかく、奴隷生活や過酷な労働、故郷喪失の哀しみから生み出された幻想は、幻想であれ、幸福な世界を描いているほどに痛々しく思えないか?
​​名取さなのキャラ設定がギリギリ上品さを保っているのも、そういった「現実の苦痛から生み出された文化の系譜」に自分を寄せているからだと思う。『地獄でなぜ悪い』の選曲も見事だし、『いっかい書いてさようなら』もそう。たとえば音楽性が電波ソングや白人的なダンスミュージックばっかりだったら、もっと彼女の表現は下品に思えたと思うよ。
​​翻っていえば、名取さなは「三次元世界のおもしろさ」に頼っているともいえるけどね。VTuberなのに全然バーチャルならではのことをやってねえじゃん、という批判もできると思う。
​​
​​ちょっと話過ぎちゃった。
​​けど、「名取さな」「エモ」についてもっと話してみたいなって思う。理由はふたつあって、まず、さきぶにさんと趣味が合ってシンプルにうれしいから(笑)。もうひとつは、いずれも母-父のコンプレックス以前の世界を生きる「ガキ」の文化だから。「子供」というかわいらしい言い方より、一種の軽蔑をもった「ガキ」という表現がいちばんしっくりくる。どっちも「大人はわかってくれない」的なフラストレーションが根幹にあるからね。しかしそのガキっぽさが、ロマンティック・ラブ・イデオロギーだとか、さきぶにさんのいう引力だとかを克服するカギになるんじゃないか。


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