一昆虫学者の見たペレストロイカ:グライボロン編
わたしは、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)でゴルバチョフ大統領によるペレストロイカという改革が進んでいた1990年に、約4週間ベルゴロド州のボリソフカという町の郊外にあるレニングラード大学の実験所に滞在した。滞在中の7月2日に、ボリソフカの27 km西にあるグライボロンという町の新聞記者から取材を受けた。
なぜ一昆虫学者のわたしが、一般紙の取材を受けるのかと不思議に思ったが、以下の理由だったのではないだろうか。ソ連では大学は5年制で、その後大学院に3年間行って取得する学位はкандидат наук(博士候補)であった。これは、日本の博士に相当する。そして、長い経験を積んだ研究者がその分野を俯瞰するモノグラフを著してはじめてдоктор наук(博士)を取得する。教授になるにはこの上位の学位が必須らしかった。わたしは1984年に京都大学で理学博士を取得していたので、その通り履歴書に書いたのだが、それがロシア語に訳されるときにдоктор наукとなり、若いのに(当時わたしは34歳)偉い先生が来たと思われたのではないか。
理由がどうであれ、この記者からはいろいろなことを聞かれた。ようやくソ連の一般国民にも社会主義諸国とは異なる国の生活が知られるようになり、それに対する興味が、中央から離れた地方の人たちにも湧いてきた時期だったのだろう。しかし、わたしが生物学以外のことを答えられるわけではない。その代表として「日本経済の今後を悲観的に考えるか、楽観的に考えるか」というものがあった。恥ずかしいことに、わたしは深く考えたこともなかったが、当時の大学卒業生の就職状況は驚くほどよかったので、「わたしは経済の専門家ではないのでよくわからないが、楽観的に考えている」と答えた。今から考えると、この時期はバブル崩壊の直前であり、楽観的な見通しは見事に外れることになった。
翌日は、この記者の案内でグライボロンを訪れた。記者はロシア語しか話せないので、英語の話せる男子学生と女子学生それぞれ1名が通訳をしてくれた。特に男子学生の方は通訳の領分を超えていて、いちいち自分の意見を挟んできた。当時はまだレーニン像が広場に立っていた。それを説明するのに「こいつがわが国をだめにした男だ」と言う。それまでカリスマ的に崇拝されていたレーニンの評価が地に落ちた時期であったので、ある程度はやむを得ないだろうが、言い方が極端であった。彼は「ツァーリの時代は小麦を輸出していたのに、今では輸入しなければならない状況になっている」と言う。確かに農業に競争をなくし、農民から創意工夫の楽しみを奪ったソ連の農業政策が失敗であったことは、わたしも認める。だからと言って、「だからツァーリの時代の生活はもっと豊かだった」と結論するのには納得できなかった。しかし、「国民の生活がよほどひどかったから革命が起こったのではないか」と言おうと思いながらためらっているうちに次の説明に進んでしまった。
彼だけではなく当時のソ連の多くの人たちは社会主義が諸悪の根源であり、それはペレストロイカによってさらに悪くなったと考えているようであった。わたしは「長年の社会主義政策の不合理が蓄積していって、とうとうごまかしがきかなくなって現在のソ連の劣悪な経済状況になったのであり、ペレストロイカの改革でより悪くなったわけではない」と考えていたが、うまく説明できなかった。ペレストロイカの声を聞くようになったのと、自分たちの生活が悪化したのが同時であれば、そこに因果関係があると考えるのは無理もない。
グライボロンへ行く途中で、小さな子どもたちがたくさんいる施設を訪れた。チェルノブイリ原子力発電所事故による放射性物質の拡散により甲状腺がんになった子どもたちのための施設だと言われた。ウクライナのチェルノブイリ(ウクライナ語ではチョルノービリ)は、グライボロンから400 km近く離れているのだが、被害はここにまで及んだのだろう。遠い日本から来た珍しい人に会うのがうれしくて集まってきた子どもたちは、とてもかわいく、心が痛んだ。
グライボロンではサマゴンという酒をいただいた。記者がおもしろがって飲めと言うので飲んだが、とても強いものであった。沖縄の泡盛に似た透明な酒であったが、ウォッカよりもアルコール度数が高いのだろう、グラス一杯飲んだだけで頭が熱くなった。ロシアの人たちは、こんな酒でも日本人のようにちびちび飲まずに一気にグラスをあける。実験所に帰ってから受け入れ教授のステコルニコフに「サマゴンを飲んだ」と言ったら、あきれられた。密造酒だったようだ。