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バリア・ブンタウ省前史①

番民もわが赤子なり、日々漢風に染めしめむ(阮朝聖祖 明命帝)
いまは和暦 令和六年十二月である。189年前、越暦 阮朝聖祖 明命十六年十二月(1836年1月ごろ)の「諭」(皇帝の勅語)にいう:「番土(辺境地域)のわが版図に隷属することすでに久し。番民(少数民族)もまたわが赤子なり。かならずやよく導き、それをして日々漢風(キン人の漢文明的な風俗習慣)に染めしめむ」と。中国清朝時代、ベトナムの阮氏・阮朝は、「清は夷狄(非漢民族)の国家だから、いまやベトナムこそが漢風(中華文明)の正統な継承者なのだ」と自らをもって任じ、公式文書でベトナム人(キン人/京人)を漢人・華人と呼び、その風俗習慣を漢風と呼んだ。程度の差はあるが、同様の自負心は同時代の朝鮮人や日本人にもあった(小中華思想)。そんな漢文明の申し子ベトナムはいまも旧正月を祝うので(来年の旧正月は2025.1.29)、まだ厳密には年末ではないのだけれど、新正月を祝う日本人として、共和社会主義越南八十年(2024:元年を1945年として起算)の終わりにあたり、お世話になっているバリア・ブンタウ省の歴史をおさらいしておこう。

バリア・ブンタウの始まり:嘉定府(嘉定城)辺和鎮 福安県
ベトナム/越南63省市のうち、沿海部やデルタのものは、阮朝聖祖 明命年間(とくに西暦1830年代)に、改土帰流と廃鎮置省(藩-鎮の改易及び直轄化)により、現在の名称に定まったものだ。そのため、阮朝の官製地理書「大南一統志」(1882, 1909)や「同慶地輿誌」(c.1889)には、現在と同じ省名のものが多数ある。いまと名前がまったく異なるのは興化省(いまホアビン/和平省など)、辺和省(いまドンナイ/同狔省)、定祥省(いまティエンザン/前江省)、河仙省(いまキエンザン/堅江省)と、嘉定省(いまホーチミンシティー/胡志明城舗、旧サイゴン/西貢・柴棍)ぐらいのものだろう。ベトナムの正史では、バリア・ブンタウのベトナム人(キン人/京人)コミュニティーは、三国鼎立(東北の莫氏、北部の黎朝・鄭氏、中部の阮氏)の状態にあったベトナムの、阮氏(大越ダンチョン地方、広南国)による、十七世紀末の南方征服活動の中で形成されたものとされる。このとき、阮氏は、それまで独立国だった占城国(順城鎮=チャンパー、いまの中部南端各省)や、名目上は高綿国(真臘国=カンボジア)の領土だったドンフォー/東浦(いまのドンナイデルタ、メコンデルタ各省)をゆるやかに統合し、チャンパー王/順城鎮王にチャム人管理を、カンボジア王/高綿藩王にクメール人管理を任せつつ、徐々にキン人の入植と実効統治を進めていった。「大南一統志」(1882)嘉定省志にいう:「本朝(阮朝)太宗 孝哲皇帝 己未年(阮氏第四代 賢王 Chúa Hiền の己未三十一年、1679)、初めて将に辺を開かしめ、タンミ―隣/新美隣の地に屯営を置かしむ」と。「隣」は集落の意だ。この記述をチン・ホアイ・ドゥク/鄭懐徳「嘉定城通志」(c.1820)巻三「疆域」と比較すると、1820年代のザディン/嘉定城下、平陽県 平治総 新美隣は、いまのタイビン市場・ベンタイン市場あたりと考えられ、これらの市場周辺を嘉定省志のいう開拓初期の屯営とする意見がある(そうではなく、いまのビンズオン/平陽省 北新淵県 新美社に比定する意見もある)。嘉定省志にまたいう:「顕宗 孝明皇帝 戊寅年(阮氏第六代 明王 Chúa Minh の戊寅八年、1698)、また掌奇のグエン・ヒュウ・カイン/阮有鏡に統率せしめ、その地を経略し、ザディン府/嘉定府を置く」と。これも「嘉定城通志」巻三「疆域」と比較すると、バリア・ブンタウ省は、このとき嘉定府(嘉定城)辺和鎮 福安県 安富総(フーミー、バリア、ロンディエンとブンタウ)、福興総(チャウドゥク、ダッドーとスエンモク)から始まったことがわかる。

ブンタウ市、ロンソン社〔隆山社〕出土の黄金の仮面(二世紀、左)と、タンニー坊〔勝二坊〕にあるクメール上座部仏教寺院「ワット・ギリダックニア・サッタラマ」(Wat Giridakkhnia Sattharama, វត្តគិរិទាកនីសត្ថារាម=Nam Sơn Tự/南山寺)の参道(二十世紀、左)。ブンタウは古代から続く交易港であり、チャンパーと国境を接するカンボジアの最東端だった。タンニャット(勝一)、タンニー(勝二)は阮朝時代にブンタウに置かれた沿岸警備隊の隊名である。

「嘉定城通志」(c.1820)に見えるモーソアイ、バリア、ブンタウ、赤土、少数民族混住地域
「嘉定城通志」巻二「山川」にいう:「モーソアイ/毎吹、バリア/婆地、トゥイヴァン/垂雲の諸山(海岸丘陵)、海に際してやむ」と。ドンナイデルタの南端であるバリア平野では、モーソアイ(「マンゴー山」の意)などの海岸丘陵によって海風が遮られ、開拓者たちに格好の沃野を提供した。またいう:「船澳、俗名ブンタウ/俸艚・淎漕、船舶の憩息する穏やかなる所なり」と。ブンタウ港は水深が深い上に湾状の地形によって高波が遮られ、航海者たちは船を安心して停泊させることができた。続けていう:「赤土、福安県 福興総の福和、福安中、福禄上、富盛、隆泰、隆和、泰盛の七か社・村・坊の地にあり。順城鎮の民(チャンパー王の管理下にあったチャム人あるいはチャウロー人を指すか)の雑居するものあり。その土は赤黄にして、その人に黄疸あり」と。この赤土とは、赤土(basalt, 玄武岩片岩土壌)土壌があり、先住少数民族がキン人住民と混住するいまのバリア・ブンタウ省チャウドゥク県と、となりのダッドー県(đất đỏ は赤土の意)を指すようだ。また、「嘉定城通志」巻二「山川」の補説にいう:「バリア/婆地はビエンホア/辺和鎮の界首をなす有名の地なり。故に以北諸府の諺(ことわざ)にいはく、飯はナイ・リア、魚はリ・ランと(Cơm Nai Rịa, Cá Ri Rang:米飯はドンナイ・バリアがよい、魚介はファンリ・ファンランがよい)」。約百年後の1909年「バリア省地図」には、ブンタウあたり=安富下総、バリアあたり=安富上総、チャウドゥク及びダッドーあたり=福興上総、スエンモクあたり=福興下総であることが明記されている。1820年代のバリアは、ドンナイとともに、当時のビエンホア/辺和鎮の、ドンナイデルタの穀倉として、北部各地でもよく知られていた。

クラオフォー、バリアへの中国ベトナム混成移民団
阮氏第四代 賢王 Chúa Hiền が1679年に「辺を開かしめ、タンミ―隣/新美隣の地に屯営を置かし」めた「将」とは、どのような人々だったのだろう。それは阮氏の中核を構成していたキン人(含む、タインホア地方出身のムオン人)の将兵たちではなく、清朝との戦いに敗れ、当時 阮氏の棟梁だった阮福瀕(賢王)のもとに亡命した、明朝に忠節を誓う中国人の将兵たちだった。「大南寔錄前編」(だいなん・じつろく・ぜんぺん、1848)巻五にいう:「太宗(=賢王)己未三十一年(1679)の春正月、もと明の龍門総兵の楊彥迪(よう・げんてき)、副将の黃進、高雷廉と、総兵の陳上川(ちん・じょうせん)、副将の陳安平ら、兵三千余人、戦船五十余艘を率ゐ、トゥズン/思容とダナン/沱㶞の海口(ランコー湾とダナン湾)に投ず。自らのべていはく、明国の逋臣たり、義たらむとすれば清につかへず、故に来たり。願はくば臣僕となせ(お願いですから臣下にしてください)と。時に議すに、彼異、俗殊をもって(外国人であり風俗習慣が異なるので)、にはかに任使すること難からむ(いきなり臣下として任務を与え使役するのは難しいだろう)。しかれども逼迫して来帰したれば、拒絶するに忍びず。真臘国のドンフォー/東浦〈ザディン/嘉定の古の別名〉、地方の沃野は千里なれども、朝廷はいまだ経理するいとまあらざれば、かれの力によるにしかず。つかはして地をひらかしめ、もって居らしむれば、一挙三得(領土拡大、人口増加、直接命令不要)なりと。上(しょう)これに従ひ、すなはち命じて宴(うたげ)して、いたはり、はげまし、各々に官職をもって授け、東浦の地にゆかしめて、ここに居らしむ。また真臘に告諭して、ほかの意なきを示せば、彥迪ら詣闕し、謝恩してゆく。彥迪、黃進の兵船は、はしりてソイザップ/雷巤(檑臘)〈いま嘉定に属す〉の海口にゆき、ミト/美湫〈いま定祥≒ティエンザン/前江に属す〉に駐札す。上川、安平の兵船は、はしりてカンゾー/芹蒢の海口にゆき、バンラン/盤轔〈いまビエンホア/辺和に属す〉に駐札して、間地をひらき、舖舍を構へれば、清人(しんひと)及び西洋、日本、闍婆の諸国の商船、湊につどふ。これによりて、漢風 漸く東浦の地に漬かるなり(陳上川率いる中国ベトナム混成移民団により、ベトナム人(キン人)コミュニティーとその漢文明的な風俗習慣が、ようやくドンナイデルタの地に定着した)」と。ここに書かれている「日本…の商船」については、日本人の商船ではなく、「日本の長崎を出航した唐船≒中国人(清人)の商船」ぐらいに理解するのがよいだろう。

2020年頃、ビエンホア:ドンナイ出版社から、Quang Huy/范光輝 作画による漫画「Trần Thượng Xuyên/陳上川 、商港クラオフォー(大舗洲、岣労舗)の定礎者」が出版され、明からの亡命中国人将兵と、彼らに同行したキン人移民たちの、ビンズオン省、ドンナイ省及びバリア・ブンタウ省開拓への寄与が改めて顕彰された。次回②では、陳上川が開いた商港クラオフォー(いまビエンホア市中心部の河川港)について、「西洋、日本、闍婆の諸国の商船」のように日本が強調されている理由を、東アジア諸国に散らばった陳上川の同志・友人たちの運命に絡めて説明したい。

*ドンナイ省図書館(2021)「ドンナイ省人物伝」(陳上川の紹介は4:35ぐらいから)

范光輝 作画(c.2020)「Trần Thượng Xuyên/陳上川 、商港クラオフォーの定礎者」表紙
大南阮朝 嗣徳三十五年ごろ(c.1882)「大南一統志」付図におけるブンタウ/俸艚、カンゾー/芹篨、ソイザップ/檑臘の各海口と、フークオク/富国島、暹羅国(タイ)、闍婆国(マレー半島)
大南阮朝 維新三年(1909)「バリア/婆地省地図」における安富上総(フーミー/富美、バリア/婆地、ロンディエン/隆田)、安富下総(俸艚/ブンタウ)、福興上総(チャウドゥク/週徳、ダッドー/赤土)、福興下総(スエンモク/川木)

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