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バリアの裏山、ヌイクアンとその周辺:十九~二十世紀のドンナイ川左岸丘陵の開拓史①

「バリア省地図」(1909)と「バリア・ブンタウ地誌」(2005)
バリア・ブンタウの歴史をひもとくとき、参考になるのは以下の8つの文献である:
1. 東洋文庫所蔵「バリア・カップサンジャック専考」(Monographie de la province de Ba-Ria et de la Ville du Cap Saint-Jacques, Société des Études Indo-chinoises, 1902, 請求記号XI-2-C-a-11)
2. 東洋文庫所蔵「フランス領インドシナ総合地図集」(C-C. de Chabert-Ostland & L. Gallois, c.1909, 請求記号 貴 Lb-10)
3. 嘉定城通志(c.1820)
4. 大南一統志:南圻六省-辺和省志(c.1882)
5. 阮朝地簿研究:辺和(Nghiên cứu Địa bạ Triều Nguyễn: Biên Hòa, Nguyễn Đình Đầu, 1996)
6. バリア・ブンタウ地誌(Địa chỉ Bà Rịa-Vũng Tàu, Thạch Phương, Nguyễn Trọng Minh et al., 2005)
7. バリア・ブンタウの土地開墾過程(Quá trình khai phá vùng đất Bà Rịa-Vũng Tàu, Trần Nam Tiến, 2005)
8. バリア・ブンタウ省の形成過程(Quá trình hình thành Tỉnh Bà Rịa-Vũng Tàu, Trang Thông tin Phòng 8, Thành Phố Vũng Tàu, 2024.11.07)。
http://thuvien.due.udn.vn:8080/dspace/bitstream/TVDHKT/5274/1/000000CVv250S052005042.pdf
https://phuong8.vungtau.baria-vungtau.gov.vn/lich-su-hinh-thanh/-/view-content/940829/lich-su-hinh-thanh-tinh-ba-ria-vung-tau

特に8「バリア・ブンタウ省の形成過程」は大変よくできた年表である。ただ、冒頭、広南阮氏第二代 仏主 Chúa Sãi 阮福源の庶出の娘アンチョウ姫(アンナー姫ともいう)とカンボジア王チェイチェッタ二世の結婚(1620年頃、同じく阮福源の膝下アニオー姫と荒木宗太郎の結婚と同時期)により、越人(京人)のバリアへの移民が認められたとするが、これはいわゆる俗説(正史ではなく、真正性が確認できる出典・稗史における記述でもなく、誰がいいだしたかもわからない荒唐無稽話)なので、ブンタウ市第八坊人民委員会公式HPに掲載する文章に書くのは勇み足だろう。宗太郎に嫁いだアニオー姫の婚姻に関する史料が日本側にしか残されていないように、高綿王(カンボジア王)に嫁いだアンチョウ姫の婚姻に関する記述もカンボジア王の年代記、ローマ教会へのカトリック宣教師の報告書とオランダ東インド会社文書にあるだけである。アニオーの漢字名を阮氏玉華、アンチョウの漢字名を阮氏玉万または玉雲とする主張には、ベトナム側における正史や家譜などの史料や、(学術的に収集された)祭祀・民間伝承よる裏付けは一切ない。「阮福族家譜」、「阮氏宗譜」では、阮福源の四人の娘たちのうち、玉科/玉華の夫は阮太良(宗太郎のベトナム名)ではなく、玉万/玉雲の夫も高綿王ではない。玉蓮の夫はカオバンの莫氏の公子(皇子)と記されている。残念なことに、フーイエン/富安出身のバリア・モーソアイ山麓の初期開拓民で、バリアの地名の起源ともされるババリア(バリア夫人)の実在性も、歴とした祭祀伝承が存在するにもかかわらず、研究者たちは懐疑的である。「大南寔録前編」(1848)によれば、仏主阮福源の治世、己巳十六年(1631)、阮朝とチャンパーの戦争が発生した際、仏主は、カオバンからフエに亡命して仏主の公女玉蓮と結婚し阮氏を名乗った莫氏の公子阮福栄にチャンパーを攻めさせ、戦後、フーイエン/富安近くの国境地域がチャンパーから阮氏に割譲されて、チャンビエン/鎮辺営が設立された(富安文封以占城叛,副將阮福榮〈莫景貺長子,尚公主玉蓮,賜從國姓,後改為阮有〉討平之,立鎮邊營)。百七十年後、嘉隆元年(1802)の阮朝建国のころ、全く同名の行政単位 鎮辺営がビエンホア/辺和とバリア/婆地に設立され、またバリア・モーソアイ山(毎吹山、マンゴー山の意)の漢名も同じ鎮辺山とされた。この二つの歴史事件が混同され、フーイエン出身の開拓民がモーソアイ山麓に入植したという伝承が生まれたのではないだろうか。なお、チャンパーにもこのころ(1631年の戦後講和の際か)ポーロメー王に阮氏の公女が王妃として輿入れしたという叙事詩があり、以前はファンラン市郊外のポーロメー廟にその石像があった(二十世紀末に盗難で紛失した)。

東京・本駒込(千石駅)にある東洋文庫所蔵「フランス領インドシナ総合地図集」(請求記号「貴 Lb-10)は、請求記号通りの貴重書で、閲覧申請には事前予約が必要だ。また、「バリア・ブンタウ地誌」(Thạch Phương, Nguyễn Trọng Minh et al., 2005)は、管見の限り日本には所蔵がない。しかし、シャベール&ガロワの地図集は著作権的には公有領域(public domain)なので、そのいくつかはウィキペディアなどで高解像度で公開されている。また、「バリア・ブンタウ地誌」は版元のホーチミンシティー総合出版社が電子書籍を有償で配布している(1,130頁、70,000ドン≒435円)。そこで、今週末(1/10, 11, 12)は、百年前(c.1909)のシャベール&ガロワの「バリア省地図」を見ながら、二十年前(2005)の「バリア・ブンタウ地誌」の中から、ドンナイ川左岸丘陵に位置し、OCAの自社契約カカオ栽培農園がある「チャウドゥク県の沿革」(121-130頁)を、少しずつ訳出する。「チャウドゥク県の沿革」の執筆担当者は不明。あるいは、同年に発表された「バリ・ブンタウの開墾過程」の著者、チャン・ナム・ティエン/陳南進氏か。その引用する漢文地誌の内容は正確で、その筆致は簡潔である。2025年1月1日に発効した地方行政再編で隣接するロンディエン/隆田県とダッドー/坦赭県が再統合されて二十年前のロンダット/隆坦県に戻ったこともあり、今でも十分通用する内容である。

バリア省地図, Carte de la province de Baria, Chabert & Gallois, c.1909.
https://nl.wikipedia.org/wiki/B%C3%A0_R%E1%BB%8Ba_(provincie)#/media/Bestand:Province_de_Baria_(1909).jpg
バリア・ブンタウ地誌, Thạch Phương, Nguyễn Trọng Minh et al., 2005.
https://sachweb.com/dia-chi-cac-tinh/sach-dia-chi-ba-ria-vung-tau-dt1882.html

チャウドゥク県の沿革
1990年8月12日、ベトナム第8期国会第9回会合の国会決議に基づいてバリア・ブンタウ/婆地淎艚省(訳者注:華字紙表記では巴地頭頓省)が設立されたとき、チャウドゥク/週徳県はまだなかった。当時のバリア・ブンタウ省に直属する行政単位は5つしかなかった:1. ブンタウ/淎艚城舗(頭頓市)、2. ロンダット県/隆坦県、3. チャウタイン/週成県、4. スエンモク/川木県、5. コンダオ/崑島県。当時、チャウドゥクの地分はチャウタイン県の中にあった。

チャウドゥク県の新設と、その基礎級行政単位
1994年6月2日、政令第45号に基づき、チャウタイン県は、バリア・ブンタウ省に直属する3つの新しい行政単位へ分割された:
1. バリア/婆地市鎮、2. タンタイン県/新成県、3. チャウドゥク県/週徳県。
チャウドゥク県は、北はドンナイ省ロンカイン県/隆慶県と接し、南はバリア市鎮及びロンダット県と接し、西はタンタイン県と接し、東はスエンモク県と接する。県の自然面積は422.59 km2、人口は148,300人(原注:この数字は2001年のもので、2004年のチャウドゥク県の人口は149,763人である)、人口密度は351人/km2だった。2005年までにチャウドゥク県に直属する(基礎級の)行政単位は1市鎮15社になった:
1. ガイザオ/義交市鎮、
2. キムロン/金龍社、
3. サバン/杈邦社(訳者注:チャウロー語地名か。ゴム農園がある)、
4. ギアタイン/義成社、
5. ビンバ/平巴社(訳者注:最古のゴム農園がある)
6. スアンソン/春山社、
7. ソンビン社/山平社(訳者注:チャウロー人住民が比較的多い)
8. ビンザ/平野社(訳者注:天主教徒=カトリック集落か)
9. ビンチュン/平中社、
10. スオイラオ/𤂬蒌社(訳者注:チャウロー語の越訳か、ラオの湧水)、
11. ダバク/𥒥鉑社(訳者注:チャウロー語地名の越訳か、銀色の岩)、
12. クアンタイン/広成社、
13. ランロン/㫰𢀲社(訳者注:チャウロー語の越訳か、大きな影)、
14. スオイゲー/𤂬艾社(訳者注:チャウロー語の越訳か、鬱金の湧水)、
15. クビ社/句備社(訳者注:チャウロー語地名か、Cù Mỵともいう)、
16. バウチン/泡𦲵社(訳者注:チャウロー語の越訳か、チンの湖。チャウロー人住民が比較的多い)

チャウドゥク県の土壌と産業
チャウドゥク県の土壌は様々な種類からなる。そのうち二つの主な土壌種類は玄武岩(basalt)の基礎上にある赤黄土と黒土(赤土と灰色土:県の土地面積の85.8%の比率を占める)で、肥沃度の高い土壌種類に属し、天然ゴム/橡皮、胡椒、カシューナッツ/腰果や、熱帯果樹などの産業作物の各種類に極めて適合する。この玄武岩の片岩土壌が、地方としての経済開発構造における、チャウドゥクの強みである。チャウドゥクには、タンボ/潯補湖、スオイラオ/𤂬蒌湖、キムロン/金龍湖、ザホエト/嘉濶湖、ダデン/𥒥黰湖など、多くの農業用水供給用の溜池(水利湖)がある。舗装道路と送電線はすでに各社までひかれており、2000年時点における電気使用家庭数は70%に達する。チャウドゥク県は比較的大きな牧草地面積を持ち、またトウモロコシ/玉蜀黍、キャッサバ/木薯、各種類の豆という飼料原料が元々県内で取れるため、牛、豚、鶏などの畜産開発のための条件がよい。県の主な収入源は農業からの収入である。比較的大規模な農産物を生産する件であり、また省の中心に位置し、近隣各省との連絡上も便利な交通路を有することから(訳者注:チャウドゥクを走る国道56号線や各省道は、南のビエンホア・バリア・ブンタウ道路とも、北の国道1号線とも接続がよい)、チャウドゥクは農産・食品加工工業や農業用機械工業開発のための条件もよい。省の基本計画によれば、ガイザオ工業団地(ガイザオ市鎮)の面積は200 haであり、上記各工業類型を優先的に誘致することを目指す。

十九世紀初頭のドンナイ川左岸丘陵
十九世紀初めまで歴史をさかのぼると、こんにちのチャウドゥク県地域は、大部分が深い森によっておおわれており、主な住民は少数民族チャウローの人々だった。嘉隆七年(1808)、ザディン/嘉定府(ドンナイ川右岸:いまビンズオン/平陽省及びホーチミンシティー/胡志明城舗)が嘉定城と改められ、また廃営置鎮が行われた:チャンビエン/鎮辺営(ドンナイ川左岸)はビエンホア/辺和鎮に改められた。チャウドゥクの森は辺和鎮の中にあった(訳者注:鎮辺営の中心がどこにあったか、確定する必要があるだろう。バリアの三山の一つ、モーソアイ/毎吹山(マンゴー山)の漢語は鎮辺山であり、十八世紀末の鎮辺営の中心はビエンホア市ではなくバリア市だった可能性がある)。

明命十三年(1832)、廃鎮置省が行われた。辺和鎮は辺和省に改められた。辺和省はフオクロン/福隆府1府の下、4県からなっていた:1. フオクチャイン/福正県、2. ビンアン/平安県、3. ロンタイン/隆城県、4. フオクアン/福安県。「嘉定城通志」巻三「疆域志」(鄭懐徳, 1820)によれば、明命元年(1820)の時点で、福安県(訳者注:ほぼ、いまのバリア・ブンタウ省全域にあたる)にはアンフ/安冨総とフオクフン/福興総の2総の下に43村社があった。番冊(蛮冊≒先住少数民族集落)については具体的な集落数は記録されていない(訳者注:当時のチャウドゥクには、「嘉定城通志」にはその管轄の集落数が記録されなかったソンヌク/滝衄守(Thủ Sông Nục)という先住少数民族の行政単位があり、その中心は、1909年バリア省地図のヌイクアン(Núi Quan:官の山、または館の山の意)あたりだったと考えられる)。以下、「バリアの裏山、ヌイクアンとその周辺:十九~二十世紀のドンナイ川左岸丘陵の開拓史②」に続く。

19世紀のバリア・ブンタウ省=福安県の集落一覧:「嘉定城通志」鄭懐徳, c.1820.
19世紀初頭のチャウドゥク県は Thủ Sông Nục(滝衄守)とい少数民族行政区だった。1909年バリア省地図では、こんにちチャウドゥク県ガイザオ市鎮~ランロン社があるあたりに「ヌイクアン」(官の山)が記されており、ここに県の役人(令県)が駐在していたと考えられる。



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