バリア・ブンタウ省前史②
クラオフォー、バリアへの中国ベトナム混成移民団(つづき)
共和社会主義越南八十年(2024:元年を1945年として起算。なお、来年2025年の旧正月は2025.1.29)の終わりにあたり、お世話になっているバリア・ブンタウ省の歴史をおさらいしている。前回①の末尾に、明(大明国、中国明朝)が滅亡した時、三国鼎立(東北部の莫氏、北部の黎朝・鄭氏、中部の阮氏)の状態にあったベトナムの、阮氏(大越ダンチョン地方、広南国)に亡命してきた陳上川が、中国ベトナム混成移民団を率いて、いまのドンナイ省ビエンホア市に開いた商港クラオフォー(岣労舗)に「西洋、日本、闍婆の諸国の商船」がつどったという、「大南寔錄前編」(1848)巻五の記述を書き写した。鄭懐徳は、「大南一統志」付図(c.1882)と同様に、闍婆はマレー半島の人々を指すと考えていたようだ。とすると、「嘉定城通志」(c.1820)巻二「疆域」の Hà Tiên/河仙鎮(いまキエンザン/堅江省)に見える①越南人社、②唐人舗、③高綿滀、④闍婆隊のうちの「闍婆隊」とは、当時キエンザン省にあったマレー人集落なのだろうか。この「越南人社」(ベトナム人行政区)という行政単位の書き方も面白い。ここには Phú Quốc/富国島唐人舗への言及もある。いまをときめくベトナム南端の観光センター・キエンザン省フークオク島には、1820年代にすでに唐人舗≒在留中国人街があった。
南京郊外・高山の戦い(1659)以後の陳上川の同志たちの動向
再び遡って1679年、同時期に東アジア諸国に散らばった陳上川(ビエンホアの商港クラオフォーの建設者)の南明軍将兵時代の同志・友人たちの運命について、若干触れておきたい。最近(2019)のバリア・ブンタウ省の華人(中国系ベトナム市民)の人口は約8,000人であるが、ここには、1679年に陳上川に率いられてベトナム人(キン人)とともに入植した明人(中国人)将兵の子孫は含まれない。彼らは明郷または明香と呼ばれる中越混血住民の集落を形成したのち、次第にキン人に同化していった。彼らの中国系の祖先は、「大南寔錄前編」巻五の記述通り、1644年(明朝毅宗 崇禎十七年、清朝世祖 順治二年)に明の都 北京が李自成率いる農民反乱軍(闖王軍・大順国)により陥落、明朝毅宗 崇禎帝が自殺し、その空隙を衝いてジュルチン人の清(大清国、満州帝国)が中国を征服した際、明朝に忠節を誓い、二君にまみえずという覚悟で、ベトナムに亡命した人々だった。日本を襲った4世紀 仲哀朝のジンリン(塵倫)、7世紀 斉明朝のシュクシン(みしはせ-粛慎)などもジュルチンを音写したものだろう。11世紀 後一条朝(寛仁年間)のトウイ(刀夷/刀伊)などもジュルチンと考えられる。さて、1644年に北京が農民反乱軍の攻撃で陥落した時、東北国境 山海関で清軍と対峙していた呉三桂らが率いる旧明軍将兵は清に投降し、清軍に編入されて、山海関から中国本土への侵略を開始した。明帝国末期には宦官らが腐敗と暴政を敷いて人々の憎しみと怒りを買っており、それが原因で蜂起したはずの李自成率いる農民反乱軍は(李自成自身は軍紀を守らせようと努力したにもかかわらず)更に狂暴で、各地で数十万人単位の虐殺を繰り返していた(四川における反乱軍別動隊・大西国による虐殺が特に悪名高い)。強力かつ軍紀の厳しい清軍は、狂暴な農民反乱軍や腐敗した旧明軍を順調に各個撃破していった。このとき、平戸出身の日中混血児 国姓爺こと鄭成功(朱成功:近松門左衛門(1715)「国性爺合戦」での名はワトウナイ/和藤内)は、明朝恩顧の将兵たちを南明軍にまとめあげ、南京(江寧)で清軍に挑んだが、南京郊外・高山の戦いで惨敗を喫した。「清史稿」(c.1927)巻五にいう:(順治十六年)八月己丑の朔(ついたち、1659.9.16)、江南の官軍、鄭成功を高山に破る」と。高山で清軍に敗れた後、鄭成功の幕僚だった朱舜水は日本の徳川氏のもとに亡命して水戸黄門(徳川光圀)の食客となった。鄭成功自身は台湾に転戦してオランダ勢力を追い出し、鄭氏東寧国を建設した。鄭成功の盟友だった陳上川(1626生)は、清に投降した旧明軍将兵の自治政府(いわゆる三藩)に共闘を呼びかけつつ中国南部で清に抗戦を続け、「三藩の乱」(1673)の初期には鄭氏東寧や三藩と共闘して清と戦ったが、翌年(1674)に東寧や三藩と袂を分かち、ベトナム中部(フエ)の広南阮氏第四代 阮福瀕(賢王 Chúa Hiền)のもとに亡命し、中国ベトナム混成移民団を組織して、クラオフォーやバリアへ向かった。陳上川たちが、ベトナムへの亡命にあたり、東北部(カオバン)の莫氏や北部(ハノイ)の黎朝・鄭氏ではなく、中部(フエ)の阮氏を選んだ理由はいくつか考えられる。中部北端タインホア/清化地方の伝承では、当時の黎朝神宗皇帝(在位1619-1643、重祚1649-1662)は、二人の中国系皇妃(呉国皇妃、秀丸皇妃:清の三藩の一つは「呉藩」即ち呉三桂の雲南藩である)と一人のオランダ人、ラオス人皇妃とチャンパー人皇妃という五人の外国人皇妃をもっていた。この伝承が事実であれば、黎朝・鄭氏は清側の呉藩及びオランダと結婚・閨閥を通じて同盟関係にあったことになる。清・呉藩・オランダと交戦中の南明勢力としては、黎朝・鄭氏は共闘可能な相手ではなかったかもしれない。広南阮氏は日本と同様、清と正式な外交関係をもたなかった。一方、清からの侵略を明よりも先に受けた朝鮮李朝では、済州島「行牧使尹公堦教民善政碑」の日付「崇禎三丙戌仲春」(清朝乾隆三十一年、1766)のように、各地で清に服従しつつ清の年号を避け、明朝毅宗の年号「崇禎」を明朝毅宗の自殺後も固守していたが、南明関係者との公的な接触や亡命の受け入れは正史には記録されておらず、南明との連携はなされなかったと考えられている。
*劉明鍇(2022)南明情報の朝鮮伝来と朝鮮側の反応
中国人とキン人によるバリアの開発、西洋人によるブンタウの開発
1674年ごろにベトナムに亡命した陳上川率いる移民団は、1679年までに、阮氏の棟梁だった阮福瀕(賢王)の庇護のもとでビエンホア/辺和のクラオフォー河川港や、モーソアイ/毎吹(いまのバリア/婆地、ロンディエン/隆田)など、ドンナイ・デルタ各地を開拓した(1679~1720年の没年まで)。広南阮氏末期の1775年ごろには西洋人(ポルトガル人・フランス人)がブンタウ深水港を発見して中継拠点とし、巡礼・交易・農耕の守護聖人ヤコブの岬(カップ・サンジャック, Cap Saint Jacques)と名づけた。バリア一帯は、「嘉定城通志」(c.1820)巻二「山川」に見える「米飯はドンナイ・バリアがよい」(Cơm Nai Rịa)という諺(ことわざ)の通り、中国人・キン人開拓民により豊かな穀倉へとへ変貌した。カップ・サンジャック(ブンタウ)もまた仏領インドシナ総督府や独立ベトナム政府により整備が続けられ、地域海上運送のハブ港として発展し、現在に至っている。
先住少数民族チャウロー人
前述のチン・ホアイ・ドゥク/鄭懐徳「嘉定城通志」(c.1820)巻二「山川」に、「赤土は、福安県 福興総の福和、福安中、福禄上、富盛、隆泰、隆和、泰盛の七社・村・坊の地にあり。順城鎮の民(チャンパー王の管理下にあったチャム人あるいはチャウロー人を指すか)の雑居するものあり」という。チャウロー人は越字紙「バリア・ブンタウ報」2020.9.14記事が報道するように石弓(弩弓)を使った狩猟の名手として知られる。また、チャウローの在来稲コイロイ(Koi lòi)は、Hoàng Thị Giang et al.(2021)の分析結果が示すようにベトナム最良の耐乾性(draft tolerance potential)インディカ稲(チャンパー米、占城稲)として知られる。
*Hoàng Thị Giang et al.(2021)「ベトナム在来インディカ稲102種の耐乾燥性分析結果」
https://tapchi.vnua.edu.vn/wp-content/uploads/2021/03/tap-chi-so-2.2.2021.pdf
ババリア(バリア夫人)の伝承
「大南寔錄前編」巻五によれば、1679年ごろ、今のホーチミンシティー・カンゾー県〔胡志明市芹蒢県〕の海岸付近で、陳上川率いる明からの華人亡命団は二手に分かれ、陳上川自身はドンナイ水系(ビンズオン、ドンナイ、バリア・ブンタウ)へ、楊彦迪はメコン水系(ミト、ヴィンロン、ドンタップ)へ向かった。伝承によれば、バリアという地名の起源とされる初期開拓者・若きバリア夫人ーグエン・ティー・リア/阮氏地は、このとき、フーイエン/富安地方を通過する陳上川の開拓団に参加し、彼らと共に海岸丘陵「毎吹」山のふもとの平野部、のちの辺和鎮 福安県 安富総)へ移住したと考えられる。「毎吹」は、バリア・ブンタウ先住民(スエンモック県などのクメール人Khmer約4000人や、チャウドゥク県などのチャウロー人Châu Ro約8000人)によるバリアの呼び名「プノムソアイ」(Phnom Svay, ភ្នំស្វាយ)と同じ、「マンゴーの山」を意味するベトナム語〔越語〕「モーソアイ」(Mô Xoài)の音写とされる。いまもバリア市鎮の中心部には初期の開拓を記念する「モーソアイ通り」(Đường Mô Xoài)がある。
ああ麟よ、振々たる(見目うるわしき)公女らよ
同じく「大南寔錄前編」巻五によれば、十七~十八世紀、日本の鎖国(c.1639)以後も、商港クラオフォー~日本(長崎)を結ぶ航路が存在した。唐船(中国人商船)によるものと思われるこの航路にかかわったのは、どのような人々だったのだろう。その中には、国際結婚によりホイアン/会安から長崎に移住した、フエ広南阮氏の公女(誓書では「膝下」という)アニオーと、日越混血であるその娘ヤスもいただろう。アニオーと荒木宗太郎(誓書では「阮太良」という)の結婚誓書の写しが、近藤重蔵の「安南紀略稿」(c.1797)と「外蕃書翰」(c.1817)にある。誓書には「詩経」(c.479 BC)の周南の「麟之趾」(キリンの足)という詩からの引用があって、1428年以来の阮氏の家学であった儒学と、その忠君愛国の精神とが垣間見える。この詩はまた王公貴族の宗室の子孫繁栄の詩であり、阮氏公族の結婚に際し詠まれる詩にふさわしい:
*麟の趾
麟之趾、振振公子 麟のあしたる、振々たる公子らよ
于嗟麟兮 ああ麟よ
麟之定、振振公姓 麟のひたいたる、振々たる公姓らよ
于嗟麟兮 ああ麟よ
麟之角、振振公族 麟のつのたる、振々たる公族らよ
于嗟麟兮 ああ麟よ
*「麟之趾」は、約2500年前、中国周朝時代の貴婦人たちの恋と結婚をことほぐ詩であるが、「サタデーのシャオグンバン」(星期六之小跟班)による素敵な現代風音楽ビデオクリップがYoutubeに上げられている:
誓書には「安南国殿下兼広南等処」の署名と、弘定二十二年四月二十二日(西暦≒グレゴリウス暦1621.6.11, 安南紀略稿)、弘定二十年四月二十二日(1619.6.04, 外蕃書翰)の、写本により異なる二つの日付がある。署名者は阮氏の棟梁 阮福源(仏王, Chúa Sãi)またはその代理(長男)か。署名の日付である西暦5月末~6月初めは、中世~近世においては、インド洋~シャム湾~東海(南シナ海)で西南モンスーンが吹き、東方諸国に赴く船が出航し始める時期である。弘定二十年が正しいなら、当時、黎朝敬宗皇帝(五人の外国人皇妃をもったと伝えられる黎朝神宗皇帝の父)は、鄭氏の棟梁 鄭松に自殺を強制されて、死を待つばかりだった。弘定二十二年が正しいなら、阮福源は、家学である忠君愛国の精神を貫くべく、黎朝敬宗の年号「弘定」を黎朝敬宗の自殺後も固守していたことになる。なお、鄭松の母は阮福源の伯母である。つまり、鄭松の母は阮氏の初代棟梁 阮潢(仙王 Chúa Tiên)の姉であり、鄭松と阮福源という二人の二代目棟梁は、互いに「従兄弟」(いとこ)の関係にあったが、その関係が、黎朝敬宗皇帝への自殺強制事件(1619)により決裂した。1619年(または1621年)6月のアニオーと荒木宗太郎の国際結婚は、黎朝敬宗皇帝の自殺を巡り、鄭氏を逆賊と決めつけた阮氏と鄭氏の関係が急速に悪化する中、阮氏の国際戦略の一環として行われた、「振々たる」(見目うるわしい)庶出の公女たちに公室と国家の運命を託した「政略結婚」だった可能性がある。彼女の結婚は、2023年、日越外交関係樹立五十周年記念新作オペラ「アニオー姫」として、日越両国で公演された。
*日越外交関係樹立五十周年記念新作オペラ「アニオー姫」
https://www.youtube.com/watch?v=1ifiw1BOX8w
阮氏の公女アニオー、公姓(公孫)ヤスと、日本~広南~チャンパー~カンボジアをつなぐ阮氏閨閥ネットワーク
荒木家文書と、大正二年(1913)新暦四月十日の黒川たい子(旧姓荒木)女史の談話によれば、荒木宗太郎の妻は広南領主の息女(膝下、公女)であり、荒木家ではアニオーさんと呼ばれた。アニオーは宗太郎が広南領主に賭け碁で勝ったことで婚姻を認められ、荒木家系譜にワウカクトメ(王加久戸売)と記され、長崎で娘ヤス(家須)を生み育てた。法名慧光院覚誉妙心大姉(川島元次郎, 1921: 207, コマ127/333)。
長崎移住後のアニオーは何をしていたのか。以下、それを考える上で参考になる史料をいくつか挙げる。イエズス会士クリストフォロ・ボッリ「コーチシナ王国へのイエズス会神父たちの宣教報告書1621」(Cristoforo Borri, 1621/1631; Leopord Cadière, 1931:330; Nguyễn Khắc Xuyên, 2014:84)は、1621年頃の阮福源(仏王)をこう記す:Il est continuellement à préparer et à mettre en marche des farces pour soutenir le roi du Cambodge, mari d’une de ses filles bâtarde(彼=コーチシナ(広南)国王は、彼の庶出の娘たちの一人の夫であるカンボジア(高棉)国王を救援する為、武器を準備し、また募兵し続けている)。ボッリはまた、コーチシナで孔子が西洋のアリストテレスのようによく学ばれていると報告し、儒学が阮氏の家学だったことを裏付ける。ジャン・ムーラ訳「カンボジア王の年代記」(Jean Moura, 1883:57-59)には、カンボジア王チェイチェッタ(Jayajeṭṭhā, 在位1618-1628頃)と阮氏(Ñuon)の公女アンチョウ(Ang Chuv, Nāṅ Cūv)との結婚が記載されている(より完全な「Nava Rataneyya, 1878」版には記載はない)。チャンパー(占城)の叙事詩「アーリヤー・ポーロメー」にも、ポーロメー(Po Rome, 在位1627-1651頃)と阮氏(Yuen)の公女ビアーウット(Bia Ut)との結婚が記載される。同時期、五人の外国人皇妃をもったと伝えられる黎朝神宗皇帝(について、家系図等の史料は一切言及しない。広南阮氏の公女たちと荒木宗太郎、チェイチェッタ、ポーロメーとの結婚もまた、家系図等には一切記載されていない。記載されない理由は、アニオーと宗太郎の婚姻誓書に見える「膝下」、ボッリ報告書に見える「filles bâtarde」(庶出の娘たち)という語彙によって説明される。これらの公女たちは皆、正式な家系図に記載される嫡出子ではなく、阮氏と庶民の間に生まれた庶出の公女(膝下)だったのだろう。彼女たちは、阮氏の国際戦略としての、貿易による国家財政強化のため、あるいは鄭氏との戦いに備えて後顧の憂いを断つ善隣外交のため、阮福源(仏王)が外国人貿易商や隣国の国王(日本、チャンパー、カンボジア)に降嫁させた、貿易と平和の使者だった。1639年以降、日本はほぼ完全な鎖国政策をとるが、東アジア・東南アジアの非キリスト教国との間の唐船(中国船)を通じた長崎貿易は、江戸・徳川期を通じ許可されていた。カンボジア王妃アンチョウ、チャンパー王妃ビアーウットと、荒木宗太郎妻アニオー、その娘ヤスは、広南阮氏の庶出の公女という同胞同士で、協力して貿易にいそしみあっており、その閨閥ネットワークの要の一つが、商港クラオフォー~(ブンタウ)~長崎航路だったのではないか。ブンタウは元々チャンパーと国境を接するカンボジアの最東端で、東海(南シナ海)の沿岸航行でファンラン/潘郎(チャンパーの港: 「Cá Rí Rang, 魚介はファンリ・ファンランがよい」という諺でも知られる)やホイアン/会安(阮氏の港)へ、メコン川の遡上航行でウドン/澳城そばのコンポンルオン(カンボジアの河川港)へ連絡できた。阮氏の公女アニオーとその姉妹たちのアジア各国への降嫁・結婚伝承が史実であれば、商港クラオフォーは、ブンタウを通じて、アニオー同様に外国に嫁いだ阮氏の公女たち(アニオーの同父異母の姉妹たち):チャンパーのビアーウット王妃とも、カンボジアのアンチョウ王妃とも、連絡し、貿易ができる、絶好の位置にあった。だから、クラオフォーに日本の商船(日本の長崎を出航した中国船)が来ていたのだろう。