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vol.4 高学歴有名銀行勤務のオロゴンさんが東京で力尽き、不動産賃貸業で人生を再生した話
オロゴンさん サウザーの白熱教室
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※試聴版。オリジナル版(58:12)は購入後に視聴可能。
第四話(全六話)
「逃げられない場所に追い詰められてるブタはジッと我慢して反撃しない」
これは作中で発せられた一節である。
この一節を読んだだけでも、じっとりとした嫌な汗を感じる読者もいるかもしれない。
「追い詰められてるブタ」
この限りなき蔑称は、多くの要素をはらんでいる。
第四話ではこのブタが作られるまでを解説していく。
第三話で述べた通り、銀行という組織はその儲け方があまりにも盤石であり、ビジネスモデルが強靭である。
そのために、中にいる人たちにはやるべき仕事が本質的には少ないと述べた。
事実、平日の日中に銀行特にメガバンクの支店を訪れてみれば、そのことはすぐにわかる。
無人で案内するための自動発券機の横に、おばちゃん行員が立っている。
それも2人いたりする。
入り口に立っているスーツを着た初老のおじさんもいる。主な役割は挨拶である。
彼もまた行員のひとりなのであろう。
これらの人々は確かに、機械がうまく使えない高齢の顧客を案内するのに必要といえば必要な人員なのかもしれない。
もしかしたらこれらの人々は正規雇用でないのかもしれない。
しかし、それでも人件費は発生している。
何のための自動案内機なのか。あまりにも手厚くないだろうか。
こんなに要るか?と思う人員配置である。
もちろん反論はあるだろう。
こういった手厚い来客対応をしなければ高齢者の顧客は不満をもって預金を他行に移してしまうかもしれないとか、入り口に男性が立っているから防犯上有効なのだとか。
理由はいくつも思いつく。
しかしながら、本質的に削れない要素なのか?と考えた時に、やはりこれらの人員は「プラスアルファとしてはあると良いよね」な要素であり、クリティカルな要素ではないのだ。
もし仮に、銀行の経営がもっともっと厳しく、倒産寸前であるという状況ならば真っ先に削減されてしまう人件費であることだろう。
つまり本来不要な人員配置ができるという意味で、やはり銀行という組織には余裕が有り余っているということだ。
そして解雇規制が厳しいために本来であれば不要なポジションであっても、それをあえて作り出して、そこに行員を何とか配置しているのである。
言い換えれば、「仕事をあてがってあげている」ということだ。
タダでは給料をあげられないから、給料を渡すために、何らかの仕事を与えてあげているということだ。
一見、オイシイ立場のように見える。
見えるが、こういった仕事をあてがわれる人は、どうなってしまうのだろうか。
銀行の外で役立つ知見や技能、経験を積むことなく、ただただ、あてがわれた仕事を消化する毎日。
それでも給与は銀行員として、高い水準で支払われ続けるから、転職すべき積極的な理由はない。
そうして年齢を重ねていき、ライフステージも進む。
盛大な結婚式(500万円)を開催し、新車をローンで買う。
子供ができたら郊外に建て売りの3,500万円ほどの戸建てを35年ローンを組んで買う。
こうして銀行以外では生きていけない職歴・能力の上に、大きなローン(借金)を多く抱えた銀行員が誕生するのだ。
もちろんこれは、銀行の給与水準を基にしたローン返済計画を組んでいるから、年収の減額は許されない。
こうして30代半ばに入り、一度立ち止まって周りを見回してみる。
そう、転職活動の検討である。
すると気が付く。
転職すると年収が下がってしまうケースが多いことに。
そして年齢と職務経験が釣り合っていないことにも気がつく。
自分は銀行という特殊な組織の中で、特殊な仕事しかできないのだと、この時初めて気がつくのだ。
有体に言えば、転職市場での需要がない人材になっていたことを知る。
こうなってしまったら、銀行から飛び出して生きていこうなどとは思えなくなる。
銀行の給与(エサ)無しでは生きていけなくなってしまっていることに、30代半ばで気がつくのである。
成果で、数字で評価されることが少ない銀行という組織では、ヒトによる主観的な「評価」が重視される。
「彼は頑張っているから」という明確化できないブラックボックスの評価によって戦ってきた彼等が、定量的な評価を標準とする一般企業での戦いは厳しいものに映る。
こうして銀行での居場所を失いたくないがために上司からの評価を気にして戦々恐々とする銀行員はーー
「逃げられない場所に追い詰められたブタ」になっていく。
しかしながら彼等を無能と嘲るつもりもない。
転職もできない、出向&転籍による年収ダウンも怖い、評価は定量的でなく主観的…この環境に居たら、ブタにならない方が難しい。
ということはすなわち、「銀行員になる」という、その第一歩の初手からもう、詰んでいたのだ。
この詰んだ環境の中で生きていこう、いや生き残っていこうとするならばーーそれはヒトの心を捨て、修羅になるしかない。
修羅道とは、醜い争いや果てのない闘いで苦しむ生き方を指す。
自分の評価を第一とし、評価につながらない行動はしない。
もちろん自分の評価が下がるかもしれないことにはなりふり構わず対処する。
たとえ誰かがワリを食い苦しむことになったとしても、知らない。
自分が怒られないこと、評価を下げられないことが何よりも優先事項だからだ。
そうして他人に対しひたすらに冷酷になっていった者を待っているのは、心根から修羅になってしまうことだ。
最初は職場でのみ修羅になる、修羅の仮面をかぶろうとしていたつもりだったのに。
気がつけば仮面などはなく、正真正銘の修羅になっている。
妻を理詰めで追い詰めて、子供のことよりも自分の評価を気にする毎日。
その修羅を待っている運命は、家庭崩壊と孤独な老後、疾患を抱えた肉体のみである。
そして歳を取れば銀行からも放り出されて、その時初めて気がつく。
あぁーー最初から詰んでいたのだと。
オロゴン氏はこの結末を迎えるルートに飲み込まれつつあった。
しかしながら彼は幸運にも、いくつかのきっかけに遭遇し、その運命の流れから逃れることができた。
銀行マンという生き方の大河から岸に這い上がって、振り返る。
そこには醜悪な濁流が人々の怨嗟を纏って流れていた。
これは、生還した者にしか語れない記憶。
銀行が人々の憧憬を集めた時代の、最後の徒花の記憶。
つづく
ヤコバシ著
「逃げられない場所に追い詰められてるブタはジッと我慢して反撃しない」
これは作中で発せられた一節である。
この一節を読んだだけでも、じっとりとした嫌な汗を感じる読者もいるかもしれない。
「追い詰められてるブタ」
この限りなき蔑称は、多くの要素をはらんでいる。
第四話ではこのブタが作られるまでを解説していく。
第三話で述べた通り、銀行という組織はその儲け方があまりにも盤石であり、ビジネスモデルが強靭である。
そのために、中にいる人たちにはやるべき仕事が本質的には少ないと述べた。
事実、平日の日中に銀行特にメガバンクの支店を訪れてみれば、そのことはすぐにわかる。
無人で案内するための自動発券機の横に、おばちゃん行員が立っている。
それも2人いたりする。
入り口に立っているスーツを着た初老のおじさんもいる。主な役割は挨拶である。
彼もまた行員のひとりなのであろう。
これらの人々は確かに、機械がうまく使えない高齢の顧客を案内するのに必要といえば必要な人員なのかもしれない。
もしかしたらこれらの人々は正規雇用でないのかもしれない。
しかし、それでも人件費は発生している。
何のための自動案内機なのか。あまりにも手厚くないだろうか。
こんなに要るか?と思う人員配置である。
もちろん反論はあるだろう。
こういった手厚い来客対応をしなければ高齢者の顧客は不満をもって預金を他行に移してしまうかもしれないとか、入り口に男性が立っているから防犯上有効なのだとか。
理由はいくつも思いつく。
しかしながら、本質的に削れない要素なのか?と考えた時に、やはりこれらの人員は「プラスアルファとしてはあると良いよね」な要素であり、クリティカルな要素ではないのだ。
もし仮に、銀行の経営がもっともっと厳しく、倒産寸前であるという状況ならば真っ先に削減されてしまう人件費であることだろう。
つまり本来不要な人員配置ができるという意味で、やはり銀行という組織には余裕が有り余っているということだ。
そして解雇規制が厳しいために本来であれば不要なポジションであっても、それをあえて作り出して、そこに行員を何とか配置しているのである。
言い換えれば、「仕事をあてがってあげている」ということだ。
タダでは給料をあげられないから、給料を渡すために、何らかの仕事を与えてあげているということだ。
一見、オイシイ立場のように見える。
見えるが、こういった仕事をあてがわれる人は、どうなってしまうのだろうか。
銀行の外で役立つ知見や技能、経験を積むことなく、ただただ、あてがわれた仕事を消化する毎日。
それでも給与は銀行員として、高い水準で支払われ続けるから、転職すべき積極的な理由はない。
そうして年齢を重ねていき、ライフステージも進む。
盛大な結婚式(500万円)を開催し、新車をローンで買う。
子供ができたら郊外に建て売りの3,500万円ほどの戸建てを35年ローンを組んで買う。
こうして銀行以外では生きていけない職歴・能力の上に、大きなローン(借金)を多く抱えた銀行員が誕生するのだ。
もちろんこれは、銀行の給与水準を基にしたローン返済計画を組んでいるから、年収の減額は許されない。
こうして30代半ばに入り、一度立ち止まって周りを見回してみる。
そう、転職活動の検討である。
すると気が付く。
転職すると年収が下がってしまうケースが多いことに。
そして年齢と職務経験が釣り合っていないことにも気がつく。
自分は銀行という特殊な組織の中で、特殊な仕事しかできないのだと、この時初めて気がつくのだ。
有体に言えば、転職市場での需要がない人材になっていたことを知る。
こうなってしまったら、銀行から飛び出して生きていこうなどとは思えなくなる。
銀行の給与(エサ)無しでは生きていけなくなってしまっていることに、30代半ばで気がつくのである。
成果で、数字で評価されることが少ない銀行という組織では、ヒトによる主観的な「評価」が重視される。
「彼は頑張っているから」という明確化できないブラックボックスの評価によって戦ってきた彼等が、定量的な評価を標準とする一般企業での戦いは厳しいものに映る。
こうして銀行での居場所を失いたくないがために上司からの評価を気にして戦々恐々とする銀行員はーー
「逃げられない場所に追い詰められたブタ」になっていく。
しかしながら彼等を無能と嘲るつもりもない。
転職もできない、出向&転籍による年収ダウンも怖い、評価は定量的でなく主観的…この環境に居たら、ブタにならない方が難しい。
ということはすなわち、「銀行員になる」という、その第一歩の初手からもう、詰んでいたのだ。
この詰んだ環境の中で生きていこう、いや生き残っていこうとするならばーーそれはヒトの心を捨て、修羅になるしかない。
修羅道とは、醜い争いや果てのない闘いで苦しむ生き方を指す。
自分の評価を第一とし、評価につながらない行動はしない。
もちろん自分の評価が下がるかもしれないことにはなりふり構わず対処する。
たとえ誰かがワリを食い苦しむことになったとしても、知らない。
自分が怒られないこと、評価を下げられないことが何よりも優先事項だからだ。
そうして他人に対しひたすらに冷酷になっていった者を待っているのは、心根から修羅になってしまうことだ。
最初は職場でのみ修羅になる、修羅の仮面をかぶろうとしていたつもりだったのに。
気がつけば仮面などはなく、正真正銘の修羅になっている。
妻を理詰めで追い詰めて、子供のことよりも自分の評価を気にする毎日。
その修羅を待っている運命は、家庭崩壊と孤独な老後、疾患を抱えた肉体のみである。
そして歳を取れば銀行からも放り出されて、その時初めて気がつく。
あぁーー最初から詰んでいたのだと。
オロゴン氏はこの結末を迎えるルートに飲み込まれつつあった。
しかしながら彼は幸運にも、いくつかのきっかけに遭遇し、その運命の流れから逃れることができた。
銀行マンという生き方の大河から岸に這い上がって、振り返る。
そこには醜悪な濁流が人々の怨嗟を纏って流れていた。
これは、生還した者にしか語れない記憶。
銀行が人々の憧憬を集めた時代の、最後の徒花の記憶。
つづく
ヤコバシ著
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