外部性の思想としてのオタクカルチャーーーブルアカのTVアニメはなぜつまらないのか
先日、ブルアカのTVアニメが無事放送完了した。ゲーム版で相当ハマっていたから、私も放送当初かなり期待していた。最初はワクワクしましたが、途中から半ば義務感で追っているだけになって、最終的に振り返って見るとやはりつまらないのか正直の感想である。
今回のTVアニメ化は、ゲーム版の対策委員会編をただなぞっているだけで、アニメ版ならではのものがないという批判は放送当初から散見する。たしかに、物語の大筋は概ね忠実で、ゲーム版のシーンもそのままアニメのカットになることも多く、全体的に原作通りだと感じる。基本的に原作に忠実なアニメ版だが、しかし、私はやはりなにか大きな欠落を感じていて、その欠落がもたらす違和感をここで言語化してみようと思う。
外部性としてのオタクカルチャー
ブルアカはエロゲーなどを始めとする日本のゼロ年代文芸の精神を受け継いているという話は、オタクたちの中でかなり共通認識としてあるが、私がブルアカに初めてふれた時は、やはりこれは非常に「韓国的」な話だと感じた。国民皆兵の背景設定、財閥による搾取と圧迫、動乱と紛争に満ちた政治空間、そして何よりも至る所にあるクーデターと学生運動……オタクカルチャーの皮を剥がしたら、かなり『第五共和国』*的なのだ。
*朴正煕暗殺から全斗煥のクーデターによる権力掌握など、80年代前後の韓国政治を描いたテレビドラマで、そのシンボルである12・12事件は、日本の2・26事件・昭和維新と並んで近年ではある種のインタネットミームとして扱われ、一部で流行している。クーデターなど政治的な話題で多用される。
ではブルアカにおけるオタクカルチャーが単なる表面的なものであると言えば、必ずしもそうではない。むしろ、その描写と運用が表面的であるからこそ、韓国的な重力の中から逸脱できるからだ。それは、厳しい労働環境からの「一息つく」であり、政治紛争からの「出口」として機能している。こうした意味で、ブルアカはオタクカルチャーが持つ、東アジア、さらにはグローバル化した資本主義社会においての、精神的な慰めの機能を非常に正確に把握していると言える。
だからこそ、ブルアカでは、特撮、巨大ロボット、宇宙戦艦、オペレーターの制服など、断片的、データベース化されたオタク的要素をいわば破天荒的に導入する必要がある。物語のジャンル的整合性を破壊するような、この導入の仕方は、しかし、それが強引なものであるばあるほど、これらの要素がもつ、一種の外部的な解決策としての慰めの機能をより全面に出すことが可能になる。
ブルアカにおいて、オタクカルチャーがある種の外部的な解決策として機能するのは、これらの物語構造やキャラクター設定においてだけでなく、例えば音楽、映像、雰囲気のデザインにも現れています。音楽面では、kawaii future bassの導入は良い例である。欧米中心に流行するEDMから発展したfuture bassに日本のアニメ・ゲーム的なサンプリングを入れることで、ある種の「kawaii」イメージを実現したこの音楽ジャンルは、言わば極めてオリエンタリズム的な「日本」像を呼び覚ましているが、ブルアカにおいては、まさにこの外部から見られた「日本性」こそがキモとなっている。
理想化された学園生活、アオハルとしての青春……こうした、軽薄と言っても過言ではない、ステレオタイプ的な「日本的」要素を導入することで、存在の耐えられない重い「韓国性」と強烈な対比がなされ、独特な対位法が実現されるのである。
しかし、ブルアカのTVアニメにこのような強烈な対比はない。ごく普通の日本の萌え系アニメ——『ラブライブ!』的な、生徒たちが力を合わせて廃校を救い、絆で仲間を救うという話になっている。
とある友人が「でもブルアカにおける危機の解決って、キャラクターの内面の変化によるもので、それって結局日本的ではないか」と言ったが、確かにブルアカは、結局のところ日本的な、所謂「信じる物語」に見えるが、しかし、「信じる物語」にも異なる方向性と手法がある。
例えばゲーム版における対策委員会編の話は、私からすれば、クローバル大企業からの搾取や政治的な陰謀と対抗する極めて学生運動的な話で、そこで確かに「信じる物語」が機能することによって、生徒たちの内面が変化し、問題は解決するが、その信じ方が若干特殊なものである。それは、「ラブライブ!」的な、日本風な青春物語に、本来それとは合わない世界に生きる自分をあえて投げ込むことによって、既存の現実から脱出し、それを再設定する投企的行為だからだ。
青春物語として再設定すること
自分を日本風の青春物語に置くこと、そこに置かれていることをあえて信じることによって、すべてを解決できる奇跡が発生する。そして、その奇跡の「信じる」を持ち込んだのは、まさに世界の外からやってきた先生である。先生は言わば、外部的な思想として導入されたものでもある。
この外部性の問題は、エデン条約編~最終編では非常に明確になっている。平和条約提携中の不信、スパイ活動とテロリズム、友情の崩壊と疑念の広がり、絶え間ない衝突とクーデター……それらを全部越えて、先生という外部性のもとで集まり、脆弱な相互信頼を実現する。何よりも重要なのは、この学生運動や政治的危機の上で成り立つ脆弱な相互信頼は、ヒフミの言葉によって「私たちの青春の物語!」として再設定されたのである。
学生運動的・政治運動的な青春をアオハルとしての青春と、強引であるが、あえて融合してみせる。この「あえて」の行動原理の背後には、まさに日本的なものを徹底的に外部性として描くブルアカの本質がある。これは「ラブライブ!」のような内側から生じる「信じる」と決定的に違う。しかし、TVアニメ版ブルアカはこれを誤解し、対策委員会の信頼関係・絆を内部的なものとして描くことに重心を置きすぎた。それは結果的に、一途な絆、予定調和的な解決しか表現できず、ゲーム版が持つあの強烈な内部性と外部性の対比を、その投企的な「あえて」をなくしてしまった。
アニメ版において、先生の指揮能力についての描写がイマイチなのも、同じ問題だと思う。もちろん指揮はゲームシステムの重要な一部分で、それを書くこと自体は問題ないと思うが、しかし、アークナイツのドクターのような戦術マスターにするのはやはり疑問を感じる。
実際、ブルアカのメインストーリーでは、先生は戦闘能力は皆無、指揮能力も平凡で、政治交渉もさほど得意ではない。エデン条約編の最後で、ベアトリーチェに向けて発言したように、先生は審判者でも救済者でも絶対者でもなく、「忘れられ、苦しむ生徒に寄り添いたいだけ」である。
ゲーム版の先生は、このように生徒に寄り添うことしかできず、またその寄り添いを遂げるには、必死の努力をし、場合には命の危機を被ることにならなければならない(自分の未来を消費する大人のカードの使用も含む)。「カルバノグの兎」編で先生がRABBIT小隊を簡単に制圧してしまうのも、戦術マスターだからというより、生徒のことをよく理解しているため、その「心」を攻めることに長けているからである。
このように、先生は基本的に生徒に寄り添うことしかできないが、ブルアカの世界ではまさにこの微々たる寄り添いが多大な力を持ち、物語の最後に奇跡を生み出すのである。それもやはり先生とその寄り添いが、この世界において、徹底的に外部的なものとして描かれたからである。
言ってしまえば、ブルアカのメインストーリーは先生という外部からの思想的ツールを用いて、放任していたら必ず悲劇な結末に辿るこの世界に、アニメ的、オタクカルチャー的な思想と価値観を再注入するものである。この重力に縛られた世界では、それらの思想と価値観は幼稚で、馬鹿げている。しかし、それが脆弱であればあるほど、その投企は一層慰めとなり、貴重であり、奇跡となるのである。それは、日常の奇跡化である。この意味で、ブルアカはエロゲーなどを始めとする日本のゼロ年代文芸の精神を受け継いでいる。しかし、ある外部的な仕方で、である。
オタクカルチャーの異邦人
ブルアカのシナリオディレクターであるisakusanはインタビューで、この外部性にも言及している。
異邦人としての先生、異邦人から見たオタクカルチャー。
この外部的な視点をなくしてしまえば、言い換えれば、疑念と不信に満ちた重力という前提をなくしてしまい、アニメ的・オタクカルチャー思想と価値観を、内側から自然と生まれてくるものとして見てしまえば、その強烈な対比も、かけがえのない奇跡感も失われる。ブルアカのTVアニメは、この点で最終的に失敗していると私は思う。