純愛と駆け引きーー『SPY×FAMILY』に感じる苦手意識とは
『SPY×FAMILY』はよくできている作品だと思う。暖かい家族感があって、時々甘酸っぱいラブコメ感もある。ギャグシーンにはお腹を抱えて笑ったり、甘いシーンには壁を叩いて、床でゴロゴロしたりして、見ていてすごく楽しい。しかし、視聴を終えたあとはいつも名状しがたい気持ちが心に積もり、どうしても違和感を覚える。その違和感に取り憑かれ、もうご飯も美味しく食べられなくなり、睡眠もままならなくなった。ずっと眠らずに夜中まで繰り返しみていると、画面の間からようやく文字が見え出してきた。スクリーンいっぱいに書き詰めてあるのがまさかの「駆け引き」だった。
エロゲーをやりすぎたせいか、そういう甘酸っぱい純愛物語に私は魂が奪われて、『SPY×FAMILY』のような作品を見るとどうしても違和感を覚える。『かぐや様は告らせたい』もまた、同じ違和感を覚えた。本当は素晴らしい作品なのに、毎回見ていて楽しいなのに、どうしてもこそばゆい感じがあって、素直に受け入れることができない。そんな変な苦手意識を私はずっと持っていた。
その苦手意識を、長い間どうやって言語化するのか考えていたが、丁度『SPY×FAMILY』の視聴中、それはあたかも天啓のように、その違和感の正体が頭の中に降りてきた。
第三話の最初のシーンがすべてを語っている。
人は皆、誰にも見せぬ自分を持っている。友人にも、恋人にも、家族にさえも。貼り付けた笑顔や虚勢で本音を隠し、本性を隠し、そうやって世界は仮初めの平穏を取り繕っている。
ヒロインであるヨルは、表では公務員の仕事をしているちょっと天然属性の女性だが、裏では妖艶な殺し屋をやっている。主人公であるロイドはイケメンで良識的なシングルファザーをやっているが、本当は任務を最優先する冷酷なスパイだ。第二話で、ヨルにかけられた、いかがわしい接客業をやっているという誹謗中傷に、ロイドは疑いせずに全面的に受け入れ、その上で彼女の弟への献身的な振る舞いを称えるという模範的ないい男を演出しているが、本当はスパイであるというより大きな秘密を隠すために、嘘を嘘で覆い隠しているだけである。その誹謗中傷に対して、ヨル自身があまり反論する気にならないのも、貞操を失うことよりも任務がバレることを恐れているからである。
『SPY×FAMILY』はまさにこういう「騙し合い」についての作品である。もちろん、そもそもテーマがスパイだから、そういう作品になっているのはむしろテーマに相応しく、いい事である。しかし、スパイの皮を被っても、聡明な観客ならばひと目で分かったであろう、この作品は本質的にラブコメである。こうやって視点を変えると色々が見えてくるわけだ。それは、最近のラブコメはどんどん「騙し合い」を提唱するようになってきた。「騙し合い」という言い方が強すぎると感じるかもしれないが、「駆け引き」と言い換えてもよい。恋の主導権を握ろうと必死に競っている『かぐや様は告らせたい』もうそうだが、『からかい上手の高木さん』とか、『イジらないで、長瀞さん』も結構代表的で、本当は純愛なのに、どうしても「駆け引き」を入れようとしている。
ゼロ年代の純愛エロゲー(運命の相手とか、セカイ系とか、云々)に慣れている老害からすれば、そういう「駆け引き」にどうしても違和感を覚える。老害にとっての純愛の最高形式は、現代の例で言うならば『サイダーのように言葉が湧き上がる』もしくは『君の名は。』のようなもので、知らず知らずのうちに恋が進行し、ある時振り返ってみれば、「ああ、私、恋しちゃった」とお互いが気づく瞬間こそが理想的なものである。もちろん、そういう理想的なシチュエーションは現実にはあまりなく、むしろ「駆け引き」の方一般的な状況であるが、しかし、それを虚構のなかで反復させるのは、やはり違和感を覚える。
本当な違和感は、おそらくもっと深層的なものかもしれない。というのは、「駆け引き」型ラブコメの最もイデオロギー的な部分は、「恋は駆け引きである」という判断ではなく、「恋の駆け引きを楽しめ!」と言わんばかりのメッセージ性にある。だから『かぐや様は告らせたい』における恋の主導権を巡る競い合いも、『からかい上手の高木さん』におけるいたずらに満ちたじゃれあいも、『SPY×FAMILY』における身分をバレないための欺き合いも、皆「騙し」ているが、しかしそれらの「騙し」は必ず、楽しく、甘酸っぱく、そして暖かく描かれている。まるで幸せな人生に、「駆け引き」は必要不可欠な要素であるかのようだ。
だから『SPY×FAMILY』第三話初めのナレーションは、実は半分しか合っていない。誰にも他人に見せなれない自分を持っているのは確かだが、それによって維持されているのは決して仮初の平穏などではない。そこで維持されているのは、真の幸福である。人は皆、自分を隠し、他人を欺き、幾千の駆け引きを経て初めて本物の幸福に到達する。スパイであるロイドと殺し屋であるヨルは、もし最初から自分の身分を明かしていたら、スパイや殺し屋にそんな温かい家庭を築くことは到底できないであろう。むしろ、最初から騙し合っているからこそ、二人に幸せの道が初めて開かれたと言える。
『SPY×FAMILY』では、「駆け引き」は悪いものどころか、むしろこの世界においてたった一人しかいないソウルメイトを獲得するための、必要不可欠なルートとして描かれている。中国では、『SPY×FAMILY』というタイトルを「间谍过家家(スパイの家族ごっこ)」に翻訳しているが、それは必ずしも間違っているとは言えないであろう。おそらくキラキラ輝いている本物の夫婦よりも、この騙し合いの「家族ごっこ」の方が遥かに暖かく、そして幸せそうに描かれていると思う。
「駆け引き」は必ずしも悪いものではなく、むしろ一旦それを経てこそ、人は真の幸せに到達できる。そういう風に考えてみると、『SPY×FAMILY』を始めとする「駆け引き」型ラブコメはそこそこいいメッセージを発していると思うが、しかし観客が素直にそういう「駆け引きを楽しめ!」る恋愛文芸観を受け入れたとは考えにくい。そのためか、実は殆どの作品は、このメッセージを本当の意味で貫いたことはない。なぜなら、そういう恋愛文芸観を貫いた先には、「私が本当にこの人が好きなのか」、「相手は私のこと本当に好きなのか」といった不安な感情が必ず伴うからである。それは現実の恋愛にも同じことが言えるが、虚構で一番優れた形で描いたのは、やはり『君の名は。』の最後のシーンである。どれだけの人が、そのすれ違いに不安を覚え、魂を揺さぶられたか。
現代の観客にこれを耐えうるほどの強い心を持ち合わせていないためか、そういう不安の感情を回避するために、「駆け引き」型ラブコメの殆どは、様々な対応策を練っている。キャラクターたちの感情を全体的に俯瞰する全知全能のナレーションの存在、もしくは主人公とヒロインを交代に描く多視点の描き方など、「駆け引き」は確かに描くが、最終的に「純愛」のエンディングが待ち受けていることを明確に予告している。
『SPY×FAMILY』でそれに対応しているのは娘役のアーニャが持つテレパシー能力である。テレパシー能力が担った役割は、まさに騙し合いの溢れたこの作品において、読者を安心させ、「駆け引き」を安全なところで視聴するために用意された仕掛けである。
おそらく私が一番違和感を覚えているのは、この部分であろう。「駆け引き」型ラブコメは優れたメッセージを発するポテンシャルはあったが、やはり最終的には、プロテクターを装着したローラーコースターにしかなれなかった。スリルな体験をもたらしてくれるか、本物の不安を決して見せてくれないのだ。だから、おそらく「駆け引き」型ラブコメは、時代に応じて変化した純愛の一つのヴァリエーションかもしれない。現実から離れることを恐れる新しい世代の観客たちをより安全のところで純愛を想像するための、新しいファンタジーかもしれない。
その意味において、『SPY×FAMILY』は極めて代表的な作品と思う。
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