石巻からエシカル消費を広げたい 悩みながらも信じる道をゆくフィッシャーマン・ジャパン ワーホリ・海外輸出事業担当 寺田杏寿
エシカル消費で世の中をよくしたい――。寺田杏寿(24)は学生時代から「やりたいこと」が定まっていた。しかし、実現への道がなかなか見つからない。就職活動で思い悩んだ末にたどり着いたのは、インターンの時に「しんどい」経験をしたはずのフィッシャーマン・ジャパンだった。それから約1年。「自信がもてない」と本人は言うが、チームに不可欠な存在になりつつある。思い悩みながらも、理想に向かって着実に歩みを進めている。
フィッシャーマン・ジャパンと出会うまで
寺田の学生時代のアウトラインを聞いていると、ある意味で「理想的な学生」のように思えてしまう。
1999年、山口県下関市の彦島に生まれた。小学5年生の時に大阪へ引っ越し、中学・高校時代を関西で過ごす。高校1年のオーストラリア留学がきっかけになり、寺田の視野は海外に開かれた。
「留学したのは単純に英語が好きで勉強したかったからです。オーストラリアで何かが起きたという訳ではありません。ただ、1人で海外に行ったので、親がとても心配してくれたんですよね。その時に実感しました。ああ自分は親に愛されてるんだなあ。自分はとても恵まれているんだなあと」
海外で得た実感が、「将来やりたいこと」を寺田の頭の中に形成していった。
「自分は幸いにも恵まれた家庭、恵まれた環境で育ちました。でも、世界には恵まれない環境で育つ子どもたちもいます。じゃあ、そういう人たちのためにできることを探すのが自分のやるべきことだ。将来は開発途上国の支援などに関われないか。そういう風に思いました」
親元を離れ、海外志向の学生が多い上智大学総合グローバル学部に入学。国連やJICAに就職したOB・OGの話を聞きながら、自分なりに関心を深めていったのは「エシカル消費」の分野だった。
消費者一人ひとりが商品の生産工程や廃棄後の地球環境への影響を考え、問題解決につながるような消費行動をとれば、社会はよくなる。国連の持続可能な開発目標(SDGs)にも盛り込まれている考え方だが、日本ではまだ十分に浸透していない。このエシカル消費に力を入れようと、寺田は考えた。
大学で入ったサークルの名前は「TABLE FOR TWO」。直訳すると、「二人のための食卓」。先進国で1食とるごとに開発途上国に20円の寄付を贈るというプログラムだ。20円は途上国の学校給食1食ぶんに相当する。食事という日常的な行為が世の中のためになるという、まさに「エシカル消費」の一例である。東京・四谷の上智大のキャンパスで、寺田は学生食堂に通い、定期的にTABLE FOR TWO対応のメニューを作ってもらった。
担当したのはハラル料理を提供する学生食堂だった。インターネットでレシピを調べ、食材を工夫するなどしてコストをおさえる。寄付を捻出できるようなメニューに変更し、食堂側に提案した。ハラル料理はカレーが中心だが、韓国料理が好きな寺田がサムゲタンを提案したら、売り出してすぐ完売する人気商品になったこともあった。
海外留学にSDGs関連のサークル活動。社会問題に関心が深く、しかもその解決に真正面から取り組む――。すばらしい学生生活だが、寺田本人の自己評価はそれほど高くない。
「TABLE FOR TWOの活動は私が始めたものではなく、先輩たちが何年も前から積み上げてきたものでした。ある程度慣習化していて、マニュアル通りに進めていけばいい、というところがありました。私が精力を注いだ、という感じではないですね」
つまり自分の創意工夫で成し遂げたものではない、ということだろう。それでも立派な活動に違いはないのだが、自らの活動を誇らしげに語らないところが寺田にはある。以下は、寺田の自己分析だ。
「自己肯定感がとても低くて、失敗や怒られるのを必要以上に恐れてしまうところがあります。要するに、自分に自信が持てないのでしょうね……。必要以上に正解を求めてしまう。だから、いつも迷ってばかりです」
いわゆる「当たって砕けろ」タイプではない。行動を起こす前にじっくり考え、周囲を観察し、何が正解かを探し求める。大失敗は少ないが、そのぶん迷っている時間が長く、若者にありがちな「勢い」は少ない。良くも悪くも、それが寺田の性格である。
もともと迷いやすい性格の寺田をさらに迷わせることになるのが、宮城・石巻という地域と、そこで活動するフィッシャーマン・ジャパンの存在だった。
インターンから始まった不思議な縁
2011年3月11日、寺田は小学5年生で、まだ下関市の彦島で暮らしていた。震災の報道はテレビのニュースで見た。
「大変なことが起きたというのは漠然と認識していました。でも、まだ小さかったですし、自分に何ができるかとか、そういうところまでは考えていなかったと思います。当時の私にとって東北は遠いところで、福島よりも北には足を運んだことがありませんでした。どんなところなんだろうって思っていただけです。振り返れば、そうやって思いを巡らせていたことが、今につながっているのかもしれません」
大学1年の春休みの頃、寺田は東日本大震災の被災地で活動する「復興・創生インターンシップ」に参加した。TABLE FOR TWOの仲間からの誘いだった。
インターンの経験が素晴らしかったので、ここに就職しようと決めました――。寺田の場合、そんな「よくある話」を期待していると大きく裏切られることになる。寺田はこう話す。
「インターン自体はしんどい経験ばかりでした。そもそも水産業に興味はなくて、石巻で働いてみたいと思っていた訳でもないんです」
もともと希望を出していたのは、福島県で高齢者向けにコミュニティを作るプログラムだった。ところが法人の担当者から3回にわたる圧迫面接を受けた末、最終的に「不採用」を言い渡された。途方に暮れていた頃、事務局の担当者が見るに見かねて声をかけてくれた。「石巻のフィッシャーマン・ジャパンの受け入れ枠がたまたま一つ空いた。ぜひ行ってみてください。君が水産業に興味ないのは知っているけど、大丈夫だから」。半ば強引に説得され、寺田は石巻へ向かった。フィッシャーマン・ジャパン事務局長代理の松本裕也の面接を受け、派遣されたのは宮城県漁業協同組合だった。
漁協では「カキにまとわりつくネガティブイメージの払拭」というテーマのプロジェクトに参加した。生のカキは食中毒が起きるたびに悪者扱いされるが、宮城の海は細菌が少ない清浄海域で、加えて漁協が定期的に検査を行って衛生状態をキープしている。こうしたことを世の中にPRし、石巻のカキをたくさんの人に食べてもらうようにするのが目標だった。有意義なプロジェクトではあるものの、寺田にとっては充実感が乏しかった。漁協の職員には慎重派の人が多く、社会人になった今はその慎重さも大事だと分かるが、当時は自分たちの提案がなかなか採用されなくて歯がゆかった。インターンとして一緒に参加した男子学生との人間関係も芳しくなく、漁協内で孤立感を抱いた。引っ込み思案な寺田の性格が、その状況に拍車をかけた側面もあっただろう。
石巻の日々を忘れたくない
そんな風にインターンの1カ月間は過ぎていった。普通ならここで石巻やフィッシャーマン・ジャパンとの縁は切れるところだが、寺田の場合はそうならなかった。
「東京に帰ってきて普段の学生生活に戻ったら、不思議な気持ちになったんです。石巻での1カ月がなんだか幻になったような……。このまま東京で過ごしていたら、自分は石巻で経験したことをすぐに忘れてしまうのではないか。それはまずいと思いました」
インターンでの仕事に楽しい思い出はなかったものの、石巻での日々は得がたい経験でもあった。市内にあるフィッシャーマン・ジャパンのシェアハウスで暮らしているあいだ、たくさんの人に出会った。「かっこいい」人たちばかりだった。漁師や加工業者たちは、震災で水産業が壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、未来を見据えて立ち上がっていた。そんな地元の人びとの熱い思いをかなえようと、フィッシャーマン・ジャパンの事務局メンバーたちは走り回っていた。こうした人たちと出会えたことは、インターンで得た最大の成果だった。
石巻で経験したプラスもマイナスも、すべて忘れたくない。そう思った寺田は東京・中野にある居酒屋を訪ねた。「宮城漁師酒場 魚谷屋」。三陸の海の幸を愛してやまない料理人魚谷浩が、フィッシャーマン・ジャパンと連携して都心に出した店だ。ここでアルバイトをすれば、石巻の思い出を忘れないで暮らせるのではないか。店主の魚谷はそんな寺田の思いをよろこんで受け入れ、アルバイトとして採用してくれた。
こうして寺田は石巻やフィッシャーマン・ジャパンとの関係を残した。TABLE FOR TWOでのサークル活動と魚谷屋でのアルバイト。それらの活動が軌道に乗り、そろそろ就職活動を始めようというタイミングになった頃、新型コロナ問題が発生した。
一度は大手コンサルへの就職を決意
「私は一体、どうすればいいんだろう……」。
2020年の春以降、大阪の実家で就職活動のためのウェブサイトをチェックしながら、寺田は悩みの渦中にあった。新型コロナの影響は大きかった。キャンパスに通えなくなり、「TABLE FOR TWO」のサークル活動も休止になった。「魚谷屋」も当面は惣菜の販売のみになり、アルバイトが出勤する必要はなくなった。東京でやることがなくなったため、大阪の実家に帰り、相談できる仲間もいない中で就職活動をはじめていた。
興味があるのは終始一貫、「エシカル消費にかかわること」だ。そうした活動をPRしている企業をチェックして応募した。でも、企業説明会や採用面接で寺田がエシカル消費への熱い思いを語ると、人事担当者の反応は冷たかった。口をそろえて言うのは、「当社が取り組んでいるのは事実ですが、それほど注力しているわけではないんですよ」。
一般の企業に就職するよりも、起業してエシカル消費を進めたほうが結果的には早道ではないか。そう判断した寺田は、起業に必要な資金やスキル、人的ネットワークを手に入れるため、コンサルティングファームの求人に応募し、内定をもらった。成長最優先でエシカル消費やSDGsとは縁遠い企業だったが、「起業へのステップ」と割り切ることにした。卒業後の進路はここで決まったかに見えた。しかし――。
「なあ、杏寿。ほんとにそれでいいの?」。およそ2年半ぶりに再会したフィッシャーマン・ジャパンの松本裕也は、寺田に対してそう語りかけた。内定先があまりにも寺田の性格と合いそうもなかったので、心配になったのだ。
2021年の秋のことだった。就職活動を終えた寺田は卒論の準備を進めていた。テーマはやはりエシカル消費。宮城・女川で銀鮭の養殖を行い、フィッシャーマン・ジャパンの理事も務める鈴木真悟にインタビューし、持続可能な養殖事業であることを示す「ASC」認証を取得した経緯などを聞き取っていた。久しぶりに戻ってきた石巻で、寺田と松本は再会した。「本当にいいの?」。信頼する松本にそう言われ、寺田の気持ちはゆらいだ。
「インターンの時から、松本さんは私以上に私のことをよく見てくれている人だと思っていました。その松本さんから『大丈夫か?』と言われたのが、考え直すきっかけになりました。久しぶりに滞在したフィッシャーマン・ジャパンのシェアハウスでは、その時いたインターンの人たちがじっくり相談にのってくれました。それまでの就活では友だちと情報交換することも少なくて、考えてみれば、自分を大切にしない選択をしていたんじゃないか。そう思いました」
魚谷屋でアルバイトを始めたのも、石巻での出会いや経験を忘れないためだった。コンサルに入ったら元の木阿弥ではないのか。でも、せっかくもらった内定だった。仕事はきついだろうし、自分には合わないとも思うが、得るものも大きいのではないかという期待もあった。
寺田はギリギリまで迷った。卒論を提出し、大学4年の2月を迎えた。予定通りコンサルに就職するなら、4月から新人研修を受ける。でも、それが嫌だったら……。
迷った末、寺田は荷物をまとめて石巻に向かった。
理想と現実のはざまで
それから1年。フィッシャーマン・ジャパンに加わった寺田の貢献はめざましいものがある。2022年度は新卒1年目ながら、ワーキングホリデー事業(「石巻ふるさとワーホリ」)の事務をそつなくこなした。都市部の若者が地域づくりに参加する機会を提供するワーホリ事業は、行政からの委託事業でもあるため、堅実な仕事さばきが求められる。寺田はそうした周囲からの要求にきちんと応えた。翌23年春からはワーホリ事業のメーン担当を任されつつ、週2日ほどフィッシャーマン・ジャパン・マーケティングの海外輸出事業も手伝うことになった。入社2年目ながら即戦力扱いである。
しかし、今書いたようなことはあくまで「外からの評価」にすぎない。寺田自身は自分の仕事ぶりを「理想と現実のはざまでもがいている感じ」と表現する。
「自分のやりたいことがダイレクトにできている訳ではないので、情熱を注ぐというよりも、仕事をこなしている感じになってるかなあと。かと言って自分で切り開いていくという訳でもなく……。そんな状況かなあと思っています」
寺田はエシカル消費を通じて人や環境に適したサステナブルな社会の実現を目指している。目標が確固としているぶん、自分が日々やっていることとの「ずれ」が人一倍気になるのだろう。
「理想と現実のあいだのギャップを感じます。でも、サステナブルな水産業を目指すのなら、まずは業界の人たちが適正な利益を得られる環境づくりが必要なのは分かっています。そのためには輸出事業の拡大は大切です。また、自分はいま関わることができていませんが、フィッシャーマン・ジャパンには海洋環境の保護など、地球全体にかかわるような大きな取り組みも始まっています。同じ電車に乗って頑張っている、という気持ちで働いています」
悩みながらも信じる道をゆく
寺田がフィッシャーマン・ジャパンで働くようになった経緯を聞くと、なんだか不思議な気持ちになる。たまたま行ったインターンでしんどい経験をし、アルバイトをはじめた魚谷屋は新型コロナ問題に見舞われた。大手コンサルへの内定も得ていたが、最後の最後に考え直して再び石巻へ――。関係性が切れそうで切れないのは、寺田が自分の人生に必要な何かを、石巻の地とフィッシャーマン・ジャパンという団体の中に見出したからに違いない。
寺田は自分のことを「失敗を恐れ、前に出ることができないタイプ」と言う。しかし、それは「消極的」ということを意味しない。頭の中にはフィッシャーマン・ジャパンの一員として取り組みたいことが渦巻いている。
フードロスを減らしたい。魚食文化の衰退にも歯止めをかける必要がある。水産業の発展は欠かせないけれど、その際には労働者の雇用不安や環境への影響などを考慮する「ジャスト・トランジション」の考え方が欠かせない。さらに言えば、水産業で女性が活躍できるような環境づくりも、自分に求められていることではないか――。
課題はたくさんある。それをどのように実現していくかだ。焦らず、一歩一歩進んでいく「長い目」が求められている。確かに今、フィッシャーマン・ジャパンでの仕事内容を聞いても、寺田の顔は100%の笑顔にはならない。「まだ何もできてない」と、顔に書いてある。だが、寺田の社会人生活はまだ始まったばかりなのだ。現状への不満は、伸びしろが大きい証拠だと解釈すべきだろう。
「そう言えば、大学生の時に実は魚谷屋のほかにもう一つ、アルバイトをしていました」インタビューの終盤で寺田はそう語りだした。「体にフィットする魔法のソファ」として人気を博したヨギボー。都内の店舗で販売員のアルバイトをしていて、なんと全国の店舗で一、二を争う販売実績を誇ったという。
「お客様をよく観察して、その人の性格や意図を理解するのが大切だと思っています。プライベートを大切にしたい人には、距離をとりながら遠慮がちに。逆に、友だちのように親しい店員から買いたい人もいて、そういう人には思い切りフレンドリーに話しかけます。そのあたりの見極めが、意外と得意なほうかもしれません」
今春から関わっている海外輸出事業でも、そのセールス力が生きる場があるかもしれない。いずれにしろ、活躍の場はいくらでもある。寺田は悩みながらも、自らが信じる道を踏みしめてゆく。
(取材は2023年4月に行いました)