育つぶ~『「親の都合」で子どもを叱っていませんか?』
大きくなるにつれて…
最近は息子くんを見て、大きくなったなぁと心でつぶやく時が多くなったことに気づきます。
昨日お風呂に一緒に入ったとき、二人で湯船に入ると余裕がなくなってきたことに気づきました。
もちろん日々成長しているんだから当たり前なんでしょうけど。
子どもが大きくなるのを目の当たりにするのは、親としての醍醐味。
嬉しいものです。
でもその一方で、息子くんが叱られている時を目にするのも多くなりました。
誤解なきように言っておくと、妻もパパも息子くんを叱る回数は確実に増えています。
葛藤…
妻の場合は朝、晩の両方です。
朝は家事をしながら息子くんを保育園に送っていって、その後仕事に向かいます。
世間一般よりは遅い時間に始まる仕事ですが、時間に余裕なんかありません。
いかに効率良く回すことができるかが勝負の朝です。
息子くんは寝起きは悪くない方なのでそこに苦労はないのですが、
日課のEテレ鑑賞にハマるとなかなか朝の支度が進みません。
朝ごはん、歯磨き、着替えに何度声をかけることか。
生返事だけが返ってきて、テレビに釘付けなんかになっていると雷が落ちます。
今日パパは仕事がなかったので、そんな様子を間近で見ていたのですが、
保育園に行く時間が刻々と近づいているときにそういうことじゃそりゃ叱っちゃうよな、と思いました。
時間が自由に使えるならいざ知らず、登園という尻カッチンの状況に妻は間に合わせようと必死なわけなので。
息子くんももうすく小学生なので、自分のことは自分でやってもらわないと時間に間に合わせるという共同作業は成立しません。
夕方は園から帰ってきて晩ごはんの支度で忙しい妻。
息子くんは忙しい妻に
「あーそーぼー」
と声をかけます。
妻も少しは遊ぶのですが、これ以上遊ぶとごはんも遅くなって、片付けもお風呂も寝るのも遅くなってしまうという時間になると遊ぶのをやめます。
もっと遊んでほしい息子くんは駄々をこねます。
最初はきちんと説明して、分かってもらおうとする妻ですが、
息子くんの駄々こねがダラダラ続くと沸点に達します。
こんな感じ。
息子くんは、物事が自分の思い通りにならないとき、
足で床を思いきり踏みつけます。
一人で居間にいるとき、よく壁をドンドン叩きます。
食卓で足をブラブラさせて、テーブルをドンドン足で蹴ります。
ごはんを食べるとき肘をつきます。
ごはんのとき左手をテーブルに出さないで食べます。
そういうとき、パパは息子くんを叱ります。
たまに、とかではありません。
ほぼ毎日。
こんな感じで毎日を送っていると、ふと気づきます。
「家族みんなで一緒にいるのに、楽しいことよりも叱ってるときばかり目にしてるな…」
親の都合
そういうとき、頭に思い浮かぶのは
「親の都合」で子どもを叱っていないか?
という一節。
叱るのは、親が思っている「正しい」ことを子どもがしないから、叱る。
でも、それは親の視点だけで語られている「正しい」になっていませんか?
ということ。
これを思い浮かべるたびに、ズーンと心が沈んでしまいます。
振り返ったとき
「親の都合だったよなぁ」
と反省することが多いからです。
息子くんがどうしてああいう行動をとったのか?
妻もパパも、そこに思考を費やしていないと分かってしまうからです。
無条件に強い立場を利用して、息子くんを親の枠に収めようとしているということにもなってしまい兼ねません。
これは、私が親として一番やってはいけないと考えていたことを、
我が子にしているということにもなりかねないということです。
そう思うと、気持ちも落ち込んでしまいます。
毎日の積み重ね
こういう毎日の積み重ねが、息子くんを形成していきます。
どんな小さいことでも、こどもに影響は与えているはずです。
気がついたら、親の顔色を見て物事を判断する人間になってしまっていることでしょう。
毎日生活するのに精一杯で、自分たちの一つひとつの行動に気が払えないと
望んでいるような育児は絶対に無理です。
こどもは親の姿を見て学びます。
もしパパのように、息子くんには自分のようにはなってほしくないと
願っているのであれば、些細な一つひとつの行動も感情的ではなく、
一歩立ち止まってから起こすのが良いのではないかと考えます。
そうすることで自分自身がなりたい姿になり、
意識せずこどもの手本になれるのではないでしょうか。
ガミガミ言われて強制されるのは、こどもじゃなくても誰でもおもしろくないことですしね。
親の都合。
これを心に刻んで、自分の育児を振り返っていこうと思ってます。
ある父親とひとり息子の毎日を描いています。 息子の行動や発言に気づきを覚えたことをテーマに、 父親として子育てに取り組む姿を見ていただければ嬉しいです。