うみねことうみステの人物の認識について
■初めに
うみステのお茶会を現地で見ていて、
生身の人間が背景の前で演じる、ということ自体が、
うみねこ原作にも似ているところがあるのではないか、
と感じたので、それを言語化してみました。
「うみねこのなく頃に」の重大なネタバレを含みます。
予めご了承ください。
■うみねこでの人物の認識
まず、原作での構造を振り返ります。
(自分は漫画版のみ全て読みましたので、
それを基に書いています)
漫画版では明確に語られていますが、
EP1-2は紗音による「犯行計画書」です。
それ以後のEP3-8は六軒島での事件の後、
生き延びた戦人の話をもとに八城十八が書いたものです。
特に紗音が書いたものは、
漫画版で明記されている通り、
六軒島の一人一人を駒として見立てて書かれたものです。
また、紗音が作者であり、
その一部が世に知れ渡ったボトルメールや、
戦人と十八が作者である偽書の読者は、
一人一人を「ミステリー上の駒」として
見ていると言及されています。
(縁寿が同級生に
「留弗夫と霧江が六軒島の事件の犯人じゃないか」
と言われる描写など)
しかし紗音や生き延びた戦人にとって、
計画書および偽書の中に登場する一人一人は生身の人間です。
(紗音が計画書を書いた後に
「自分は何をしているんだ……」と一瞬我に返るシーンや、
生き延びた戦人が六軒島での記憶を取り戻し、
紗音や当日会った全ての人に対して
申し訳ない気持ちを抱えるシーンなどで言及されています)
つまり、
ボトルメールと偽書の中の一人一人に
対してのそれぞれの認識は、以下の通りと考えられます。
駒 (作者である紗音/戦人/十八と読者)
生身の人間 (実際に六軒島にいたことのある紗音/戦人)
■うみステでの人物の認識
今度はうみステについて考えていきます。
「うみねこのなく頃に」の舞台は
現在2023/8/20時点で、EP1とお茶会が上演されています。
お茶会では舞台後方のスクリーンに
お茶会会場の背景が映し出され、
その前で生身の人間が演技をする、という形になっています。
脚本上では一人一人が駒であり、
同時に、
我々観客にとっては生身の人間です。
(脚本家と観客とのズレが
どの程度かはわかりませんが、
舞台を見ている時の感覚をそのまま言語化してみました)
■似ている点
「うみねこ」作中で語り手である紗音と十八、
ボトルメールや偽書の読者にとって、
六軒島の一人一人の認識は以下の通りです。
駒 (語り手/読者視点)
生身の人間 (語り手)
「うみねこ」の作品外の我々にとって、
上演中のうみステでの六軒島の一人一人の認識は
駒 (脚本上)
生身の人間 (観客)
このようになると考えます。
ゲームか舞台か、
語り手にどんな背景があるか、
という違いはあります。
が、
「うみねこ」「うみステ」という作品において
六軒島の一人一人が駒であることと同時に、
生身の人間であるとも認識されることが、
大まかな構造として似ていると感じました。
特にお茶会は原作の背景をうみステでも
使っているように見えるため、
より一層ゲームに近づいていると感じました。
■終わりに
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
また、
ネタバレ前提にはなってしまいますが、
うみねこについての他のnoteもありますので、
よければご覧ください。
感想等あれば、
コメントしていただけると嬉しいです!
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