2024年12月上旬 社会学者は学者と言えるか
twitter壁打ち第四回
twitter壁打ちとは、twitterで議論が紛糾した出来事について、レスバの世界を離れて自分なりの考えを整理する場である。
本日の議題は「社会学者は学者と言えるか」について。あるいはもう少し広く「人文社会系学者」でもよい。
普段は結論ファーストということですぐに「今北産業」を載せるのだが、その前に。
当たり前だが、全国津々浦々の大学が社会学部や文学部内の社会学科、あるいは学際的な学部学科を設置している以上、当たり前だが社会学は学問であるから、社会学者は学者である。
結論ファースト
箇条書き三行で
・社会学者は理系的観点で言えば学問として評価しがたい
・しかし学問は理系だけのものではなく文理ともども「考える人たち」のものである
・「考える人たち」がいる限り社会学は学問であり、社会学者は学者である
ごめん、ふわっとしちゃった。内容を確認してくれ。
本題
議論の背景
近年の日本Twitter界に於いて学者、特に社会学者に対する風当たりは強い。これはアンチリベラルの浸透と、社会学者はそのリベラルの温床となっていることにあるだろう。ただし、非難に火が付く発端を見てみれば、どうにも個々の社会学者らの言動に問題がある気がせんでもないが、今回はそうした事例は取り扱わない。そこで口々に言われるのが「まあ社会学者は学者じゃないから」「社会学は学問じゃないから」という言説である。
「社会学者は学者じゃない」「社会学は学問ではない」という言葉の意図
ではこうした主張は何を目的になされているのか。
これは簡単に言えば「権威の無効化」である。
「とある学者の発言を無効化したい」と思った際、本来であればその発言の問題点を論証すべきである。事実、そうした手段をとる人間も多い。しかし、Twitterに於いて最も簡単なのは発言者の権威を蔑することで発言そのものの正当性を失わせてしまう(ように錯覚させる)手法である。
端的に言えば「人身攻撃」である。
人身攻撃はWikipediaの有名記事「誤謬」でも紹介されていた(現在は独立して立項されている)有名な誤謬(不誠実な論法)の一つである。
しかし、ここではひとまず誤謬を用いることの是非自体は措くこととし、その発言の内容について考えてみたい。
社会学者が学者じゃない論拠
大前提がTwitter壁打ちなのでTwitterに基づくべく、今ちょうどホットなツイートを捜してみれば、次のようなものがちょうど良いだろう。
私は古市憲寿が
— AnoSci (@ano_sci) December 5, 2024
学位(博士号)も無い
研究業績も無い
当然、査読付き論文も無い
にも関わらず社会学者と詐称していることに驚いています https://t.co/4EjculH28o pic.twitter.com/KeeIvhR0GV
このツイート自体も「J-STAGEで著書名検索する際は姓名の間にスペースを要する」という基本的な学術知識もない人間のツイートなので好例であるが、ここから見るに、一般的に社会学者が学者ではない論拠として以下の2要素がしばしば重視される。
・博士号の有無
・査読論文の有無(元ツイートは実績の有無も取り上げているが、ここに統合してしまってよいだろう)
これは社会学に限らず、もう少し広く人文社会学全般に言える特徴である。
学者の定義とは?
毎度おなじみであるが、AはBではないと言いたいとき、その両方の定義を定めなければならない。この中で社会学者はおよそ定義が難しいものであるが、では学者はどうか、と言えば、学者の定義も簡単ではない。すくなくとも明確に下せるものではない。しかし今回たたき台にするために暫定的な定義を下すとすれば、次のような要素を持つ人として表すことができるのではないだろうか。
①大学院博士課程で専門教育を受けている
②専門性を発揮することで金銭を得ている or 専門性を発揮する機会を持つ
これが「学者」だろう。また、学者に似た概念として「研究者」がいる。「研究者」は
断続的でも良いので、研究成果を発表している人間
と言えるだろう。ただし、①は在野の研究者(体感としては郷土史や考古学に多く、他の分野では極めて少ないイメージ)を排除してしまう。研究成果さえ優れていれば、その研究をした人は学者と呼んでもよいだろう。(この論点はのちのち重要である)
研究者はほぼ必ず学者であるが、一方、論文を長らく出さない状態が続いてしまえば、学者はかならずしも研究者ではなくなるのである。
博士号の有無について
もはや論じなくても良いくらいに最近では知れ渡ってきた、いわゆる人文系の因習である。
日本の文系学問は博士号を「大学者・碩学の称号」として取り扱ってきた歴史が長いため、通例では博士課程を修めただけの人間に博士号が授与されることは基本的にはなかった(最近は改善されており、博士課程に5年くらいいてしっかり研究すれば博士号は出るし、もっと早めることもできる)。
博士号は博士課程を退学(いわゆる満期退学)した学者がそれまでの研究成果を集大成して中堅~ベテランになった段階で取得するものであった。
この因習は今では改善されたとは言え、なお尾を引いており、因習末期に若手であった現在の中堅~ベテラン層は教授でも博士号なしといった状態がしばしば存在する。
また、「助手」というルートも存在し、本当に優秀な学生は修士修了時点や博士課程在籍中に「助手」に採用される慣習があった(残念なことに今はほぼ無い)ため、博士課程を満期(通例3年)退学すらしておらず、3年未満で退学している場合や、そもそも博士課程に進学していない学者も存在し、彼らは“逆に”大物だったりもする。
最近ではこの因習は割と知られ始めており、(上で引用したツイートは懲りずにここを指摘しているが)最近のTwitterでは博士号の有無を取り沙汰して学者の資質を問うことは減ってきた。
査読論文の有無について
査読論文の有無について述べる前に、前提となる議論をしておく必要がある。
・そもそも学問とは何か?
しばしば取り沙汰される社会学への揶揄として「お気持ちの学問」「主観」「定量的でない」「人によって解釈が変わる」という非難がある。しかしこれはあまりに理系(自然科学)主義的な価値観の表明であり、このような「学問とは理系学問のことである」という前提に立たれてしまえば「そりゃ文系は自然科学ではないですよ……」と言わざるを得ない。
では、この前提の違いの正体はなにか?
文理両者に共通する「学問」として重要なこととして、「反証可能性」がよく指摘される。
論文や著書は「証拠」とその「解釈」を同時に提示するものであり、解釈の正当性を他の学者が判断して同意か反論(あるいは部分ごとにそれぞれ同意、反論)のどちらかをすることができる、ということである。逆に言えば、何言ってるんだ…?というようなことは当然学問ではない。
人文系も理系もどちらもこの原則に准じている。なので、文系学問はもちろん「お気持ち」ではない。基本的に主観が入ることのない「証拠」とあくまで“客観的な”「解釈」によって成り立っているのであり、理系と同様である。
自分の描いていた予測(あえて表現を揶揄に合わせれば「お気持ち」)の解釈に対して手元の証拠が合致しなければその「お気持ち」は捨てざるを得ない。理系でも己のストーリー(仮説)に合致するまで実験を繰り返すという笑い話をよくTwitterで見るが、そういう研究方針は馬鹿にされるだろう。それと同じであり、文系学問でも結論ありきの無理筋な“解釈”は受け取られない。
ただし、「人によって解釈が変わる」という点は是である。これは詳しく見るべき論点である。
上で見たように解釈は客観性・妥当性がつきものである。
同じ証拠に基づいて提出されたA氏による解釈AとB氏による解釈Bはそれぞれ異なった妥当性を持つ。
第三者の学者らによっておおよそA氏がB氏より妥当であると判断されればA氏の解釈が主流となり、B氏はA氏の解釈に同意するか、あるいは自説を守って戦う選択肢(あるいは無言で今後その解釈を持ち出さない事実上の敗北宣言)が生まれる。
ここでB説もなかなかに説得力があれば「論争」になるだろうし、B説が明らかに分が悪ければ今後その説を用いて論ずる人間は学会内で等閑視され、まともに取り扱われなくなるだろう。
同意が取れればそれで良いし、論争が起きればそれはそれでお互いを高め合う健全な知的状態と言えるのではないだろうか。
たまに「それでは文系はすべて仮説であり真実ではない」「解釈は理系では仮説と呼ぶ」という揶揄も見られるが、理系の学問だって現状を基本的に疑わないことに同意しているだけで、歴史を見れば「現状を疑った」人によるパラダイムシフトが何度も起こって過去の説が覆っているわけであり、その真実性が100%担保されているわけでもなかろうに。
理系学問に論争はなかったか?もしないのなら、ここは潔く私の負け(なんの勝負?)を認めよう。しかし過去に一件でも論争があったのならば、理系もやはり真実を求める学問なのではなく、文系と同様「とりあえず真実ってことにすることに同意した部分」を求める学問なのである。
「研究者間で同意の取れたラインで証拠の解釈(仮説)に基づき会話していく」ことを学問と呼ぶのであり、文系はこのパラダイムシフトが理系に比べて起こりやすいだけなのではないだろうか。
つまり、文系と理系で相違している前提はこの「パラダイムシフトのライン」なのである。
文系は理系よりも真実の同意ラインが手前にある(というか、皆「真実なんて求められない」と思っている)から理系から見れば学問と呼べないかもしれないが、それは単に「同意ラインという前提が違う」だけであり、“客観的な論証に研究者が同意する”という「本質は同じ」なのである。
だから、この議論はその気になれば「文系から見れば理系も前提を共有していない(奥にありすぎる)」といえるのである。
これは本来、事実の指摘であって毀誉褒貶の評価ではない。しかし、一般にこれは非難と受け取られる傾向にある。そしてTwitterでは理系礼賛・文系蔑視の風潮があるため、理系が文系を非難することは構わないが、文系が理系を非難することは奇異に感じられる。
現にこのミラーリングをしようとして失敗した例もある。
私が理系の研究に興味が持てないのは、「誰がやっても答えは同じ」だからである。じゃあ私がやらなくたっていいじゃんと思えてしまう。
— desean takahashi (@desean97) August 13, 2024
これは、つまり「文系と理系の同意ラインは位置が異なり、理系は奥にありすぎてほぼ動かし難い(ほとんど誰がやっても答えはおなじ、稀に動く時がある)が文系は才能次第でチャンスがある(私がやってもいい)」という主張である。
Twitterでは理系寄りの立場がデファクトスタンダードであるため、単に「文系理系で学者間の同意ラインって違うよね」という話であるのに、文系が理系の同意ラインの厳しさに言及することはご法度になる。であるから、ミラーリングは理解されることなく批判される一方なのである。
学問は真実を求めるものではなく、学者間でひとまず真実と同意されるラインを求めるものである。理系の学者間の同意は動かしにくいが、文系の学者間の同意は動かしやすい。しかしどちらも同じ原理に依っている。
この説明に於いて「文系の方が緩い」のは事実だろうが、どちらも真実ではないという点で五十歩百歩であるし、理系の学者らも聡明な方であればそのことを把握しているだろう。その前提を理解せずにあたかも理系は真実に達しているかのような口ぶりは「真実」を考えたことのない人間のすることであり、やはり「考えが足りない」「他人のふんどしで相撲を取っているだけ」の愚か者である、ということでここは手打ちにしてもらいたい。
・査読論文について
めちゃくちゃ迂回しちゃった。査読論文もこの前提を踏まえると考えやすい。そもそも前提として、文系でも理系の影響を受けて査読論文の方が査読なしよりも良いとはされている。そこはね。流石にね。
気を取り直して、おそらくTwitterの批判者らは査読付きどころか査読無し論文の一本すらも書いたことがない人が大半のようにも思えるが、それはそれとして、査読付き論文を出していないから学者ではない、そのような人間がのさばっているようでは学問ではない、という主張はよく見かける。
だが、査読はあくまで内容の真実性を事前に一定程度担保し、「査読を通った」「学界でも多分受け入れられる」という権威を付けるだけである。
では論文の本質は権威か?否、内容である。
先程も見た通り学問が「同意」である以上、そこには他人との対話が生まれる。査読なしの論文(長くて面倒なので紀要に代表させて、以下単に「紀要論文」と呼ぶ)は掲載された以上は他の学者らの目による疑似的な「査読」を経験しているのであり、内容がしょうもなければ見向きもされないし、あるいは活発な分野ならば論難されることもあるだろう(実際はほとんどが無視されるだろう)。これは学問として健全な状態と言えるのではないだろうか。
紀要論文でも内容が良ければ活発に引用される(学者間で肯定的な対話が行われる)のであり、また紀要論文で出したものも最終的にはまとめた著書(いわゆる論文集)として出版することが多い。著書は人文系では大きなステータスとされている。それは著書(学術的な単著)はある程度評価された学者が出すものであるし、また査読が有る場合も多い。また仮にダメダメな内容で出版にこぎつけたとしても、人文系であれば著書は十中八九(時には一般向けでも)書評が出るのであって、そこでの論難は免れないからである。
査読論文の有無については本質的な問題ではないのである。(とはいえ、近年は文系も社会情勢を踏まえて査読を付ける雑誌が徐々に増えてきており、次の元号になる頃には査読付き論文の既報数も有力な指標になってくるのではないだろうか)
補足ー読み飛ばしていいよ♡
また、この「査読論文の有無」は「社会学を学問と認めない」姿勢と矛盾を来たす。というのも、査読は権威付けを行う仕組みである。その権威付けを行う査読者は社会学者である。では学者でない人物が査読したところでなんの権威が生まれるだろうか?結局、この論点をやり玉に挙げる人間はこの問題について真剣に考えられていないのである。
結局、文系だろうと理系だろうと、一定の知能が保証されている研究者らの集団が存在し、彼らが互いに同意できる(時に反論される)解釈を提示し続けていれば、もっと簡単な言葉で言えば、会話を続けていればそれは学問であるし、その会話に参加していれば学者と言えるだろう。
これを踏まえて、社会学は学者らの団体(学会)が複数存在し、そこで論文が提出され続ける状態がある限り、(無論査読付き雑誌は多いのだが)仮に査読がなくともそれは学問であり、そこに出入りする社会学者は学者と言えるのである。
また、「文系は真実ではない」という揶揄は対話の中にいないからこそできるのであり、対話を拒み相手を論破したがる、決めつけがかった、すぐ目の前の正解・正義を求めるような、即物的でインスタントな、ちょうどSNSで義憤に駆られているような短文コミュニケーションを求め、別の話題に発憤すればもう忘れる、こういった人間の態度であり(悪口いいすぎた)、また査読の有無を気にするのは「自分は論文の内容を評価できないです」という宣言に他ならない。学問はSNSではない。
ここまでを踏まえて~別にそういうことじゃないねん
ここまで踏まえて、「いや別にそういうこと議論したいんじゃなくて……」と思った方は多かっただろう。それも当然である。
なぜかと言えば、「社会学は学問じゃない」と言っている人の大半は「社会学は学問じゃない」と言いたいのではなく、本当は「この社会学者はクソだ」と言いたいからである。
ただ、だしぬけに「この社会学者はクソだ」と言ったり、あるいはリプライを送ってみても無意味で、下品で、あるいは逆に名誉棄損の可能性もあるから、なにか非難する理由を見つける必要がある。でも自分でその理論を組み立てることはできない。その時に着目される「既に用意された非難の常套句」の一つとして「社会学は学問じゃないからこいつも学者じゃない」という人身攻撃がストックされているだけなのである。
ここで、ひとまず「社会学は学問である」という同意が取れたとして、次のような意見が予想される。
「とは言え、気に食わない学者に社会学者が多いので、やっぱり社会学は悪い学問である」
え~~~~~~~~っと、それはもう、しょうがないっす!!!!!!
まず、Twitterの批判者らが知っている学者は基本的に社会学者でしょう。
なぜかと言えば、社会学者が基本的にはTwitterで有名(インプレッションが多い)だからでしょう。
なぜかと言えば、Twitterは社会学的な話題が注目を集めやすく議論が加速するからでしょう。(例えばキクマコ先生こと阪大のあ~る菊池誠氏は物理学者ですが、物理学の議論というよりも、物理学に関係する社会的な問題(学際的?)、時には単に社会学的な話題に言及しがちなので有名なわけですよね)
そして社会学者はリベラルが多いので、アンチリベラルなTwitterユーザーは反感を買いやすく、こんなけしからん奴らがやってる学問はけしからんに違いない!よう知らんけど!ってことなんですよね。
思想上の対立なのでもうどうしようもないのですが、自分サイドだけが正しい、そうじゃない奴はやばい、とか、あるいはあいつらはヤバい、だからすべてダメだ、みたいな極端な二項対立思考は「考える能がない」人間の特徴なので止めた方がいいっすよ!
Twitterユーザー大好きユーリィ・イズムィコ先生の学問、あれ社会学っすよ!イズムィコ先生もリベラルっすよ!(この前アンチリベラルに苦言呈してましたよね!)大丈夫っすか!
立場が違えば、ということで、例えばロシアの立場に立ってみればイズムィコ先生って「けしからん」学者なんじゃないっすか!?
国外の議論してる社会学(政治学)者のことあんま批判しないっすよね!?それって結局国内のことを論じてる社会学者が“日本を破壊する”って思ってるからっすよね!?
以下、個別事例(Whataboutismになります)
・論文を書かないでテレビに出てご意見番面してる学者が多くないか?
→まあそれはそう。でもテレビ局は都合のいい学者を持ってくるわけで……条件が良ければ恥も外聞も捨てて誰かはやりますよそりゃ……というか社会学に限らずテレビに出まくる医者、弁護士、経済学者、いますよね…………それを社会学全体に押し付けられても……
・じゃあ自浄作用を働かせなよ
→いやぁ……テレビやTwitterでばっか発言して学界の対話に参加してない人はいないも同じだし……トンデモ医療とかエセ科学やってる人だっているじゃないすか……文系には「ハゲタカジャーナル」はあまりないですけど、ああいうのって「論文でも効果は実証されており~」みたいなときに使われるって聞きましたよ……学会追放しても特に効果とかないっすよ……
こんな感じっす。
おわりに~なぜ私がキレているのか
私がこの問題にキレている理由は重層的であるが、簡単にまとめれば次のようになる。
・「考えない人」に「考える人」が馬鹿にされるのはムカつく
・「個別の事例」を「全体に適用」する人間の考えなさにムカつく
一点目について。
ひとかどの学者、最悪大学院生でもいいが、少なくとも論文の一本でも雑誌に載せたことのある人間が自分の学問と比べて「社会学は学問ではない」「あんな低レベルな人間は学者ではない」というならまだわかる。しかしTwitterで社会学者を批判している人間はどうにもそのように理知的な人間には見えず、ネットで知り得た「他人のふんどし」で「疑似的な勝利」を手にし精神的に満足しようとしているだけにしか見えない。そのような「考えること」をしない人間に「考えることが仕事」の人間が馬鹿にされるのは見ていて気分のいいものではない。だからここで私は「自分の考え」によってそうした「考えなし」の意見を粉砕したいのである。
自分で考えたわけでもない論点を他人に押し付け(大抵無視され)て勝った気でいて何が楽しい?
私は逆張りの議論が大好きだ。自分は本当はAだと思っていても、社会がAを無遠慮に批判しているとAを擁護してみたくなってしまう。これは議論が奇しくも学問と同様、根拠と解釈による妥当性を競う性質がある(無論対人コミュニケーションはそれがすべてではない)ある種のゲームに似ているからである。
この楽しいゲームに他人のふんどし一丁で挑み勝った勝った!と勝利に酔いしれている人間を見るとなんというか、イライラするのだ。ガキが自分でコードを書けもしないチートで無双して「俺マジでこのゲーム強いからな~」って言ってるのを見たら、ボコボコにしたくならないか?
しかも、運悪くこのテーマはまさしく「学問」がテーマであるから、なおさらなのである。
二点目。
以前このブログでは「支那人」と呼ぶことの是非について論じ、ボツにして下書きに眠らせてあるが(じゃあ知るわけないだろ)あれも結局は
「憎むべき中国人」を侮蔑する際に「中国人全員」を侮蔑すると「善良・無関係な中国人」をも巻き込むからもう少し自分の気持ちを観察して本当に侮蔑したい相手だけに届く言葉を考えなさい(もっと簡単に言えば、義憤に身を任せて分断を煽る安易な言説に乗っかるのをやめなさい)
という論調だった。今回も根っことしては同じ論点に属するだろう。ここでは自分の頭でそう考えたわけでもないのに「社会学者は学者じゃないから」「社会学は学問じゃないから」とクリシェのように用いるTwitterの人々に対して、本当に社会学という括り方で合ってるかな?ちょっと自分の頭で考える練習をしてみようね。と伝えたかったのである。キレすぎてその目論見はおじゃんになってしまったかもしれないが。
昨今の強い言葉による分断には辟易している。個別具体的に、個々の学者を非難すればいいのであって、社会学者全員を非難することは無用な分断を生むだけだ。もしも一理あるな、と思ったら、大きな主語や大きな目的語を使うのを止めて、批判対象を的確に表現できる言葉使いを心がけてほしい。
「こいつは2010年以来もう14年間も新しい論文を書いていないですよね、もう『元』学者の方がいいんじゃないですか?」あ、いや、これも内容そのものに反論してないという点ではそこそこな人身攻撃だな……「この発言はなんだ?基本の「キ」である〇〇の理論を全然考慮していないじゃないか!馬鹿が!学者の風上にも置けないぞ!」「××はそういうことじゃないでしょ、△△ってことでしょ!?論文書かないでテレビで格下ばっか相手にしてるから脳が退化したのか!?」「この発言どう考えてもポジショントークだろ、テレビの御用学者にピッタリだな!(これは人身攻撃だけど割とありかも)」みたいな、こう、内容のある個人的な非難をして、社会学全体に広げるのはやめようぜ…!
この国の分断を、止めたい……!
社会学者批判実践編
ここで最近Twitterで非難されている様子を見かけた学者について、私も批判を実践してみる。
具体例に入る前に、汎用性が高い人身攻撃は「彼/彼女はこの分野が専門ど真ん中というわけでもないのだから、発言は鵜呑みにできないはずだ」である。ただしこれはパンチが弱いし、社会学者である以上そこらへんのTwitterユーザーよりかはよっぽど詳しいはずであるので、使ってもあまり効果はないかもしれない。
・古市憲寿氏
先程引用したツイートは古市氏を批判していた。
私は古市憲寿が
— AnoSci (@ano_sci) December 5, 2024
学位(博士号)も無い
研究業績も無い
当然、査読付き論文も無い
にも関わらず社会学者と詐称していることに驚いています https://t.co/4EjculH28o pic.twitter.com/KeeIvhR0GV
実はこのツイートは「社会学者を詐称している」という古市氏への個人攻撃であり、社会学そのものは批判していないので今回の論旨にはそぐわないのだが、とりあえずたたき台として取り上げる。
本来的な論点は古市氏の元ツイートにあるはずだから、コロナ期日本の自粛と韓国の戒厳令を比較して古市氏を論難すべきである。
一方で、ここには「古市氏は学者という権威的な肩書を利用して発言に正統性を得ているが、古市氏の学者という権威は虚飾である」という論証手段を取っており、最善ではないが、割りと論理立っており悪くない。
ただし、例が悪かった。
引用ツイートは
・博士論文→前述のとおり
・実績→定義不明
・査読付き論文→査読にこだわるのは理系仕草であり社会学者の資質を論難できない(その上実際には氏は査読付き論文を出しているのに「無い」と誤ったことを言ってしまっている)
の“3無い”で戦おうとしている。これは矢印で書いた通り分が悪い。
論文で論難するには論文の内容を批判して「氏はこんな低レベルな論文を書いている」→「だから氏の権威は裏付けが甘い」という運びにする必要があるが、これはハードルが高い。
更に氏の既報論文は『社会学評論』というトップジャーナルに掲載されており、おそらく素人には、プロでも論難はしがたい。しかも氏は学振の奨励賞(簡単に言えばめっちゃすごい若手応援キャンペーン)に採択されており、出始めの頃は鳴り物入りだったと思われる。
ここで取るべき批判の論理は「氏は昔はすごかったかもしれないが、近年査読の有無にかかわらず論文の投稿ペースが低く、本当に前線の研究者なのか、キャッチアップできているのか疑問である」くらいが限界だろう。
しかもこれは「研究者」としての資質の批判であり、「学者」としての資質の批判ではない。
よく「アウトリーチ」と言われるが、アカデミアに閉じこもっているばかりでなく市井の人々にその成果を還元せよと言われる。氏は活発に一般向けの文章を寄稿しており、こういった活動に努めており、彼の「学者」としての資質を問うこともまた難しいだろう。まあ、研究もしつつ一般向けもやりつつ、というのが理想なのだろうが……
結局、論理の内容ではなく、理由ある人身攻撃をしようと思うのなら、少なくとも、研究者としての資質を批判することは可能かもしれない。
・弥助問題のトーマス・ロックリー氏
無論、彼は大学教員であり自身の専門性によって金銭を得たり、専門性を発揮する教育の機会を得ている(学者の条件②)が、専門教育を受けていない(学者の条件①)以上はアマチュアの発言である、というのが最も単純明快な批判だろう。
ただし、アマチュアであろうとプロの研究者らと「同意」が取れて「対話」を行えればそれは学者と言える。そのため、厳密にこの点を論じたければ氏の論文の難点を見出すか、あるいは学界で等閑視されている状況を示すのが本来的であるが、まあ、そこまでせんでもいいかもしれない。
弥助問題の本質は大学教員の権威の下で守られた「一般書」が過激な内容を説いているところにあるのであり、巧妙な「ハック」である。「〇〇は食べてはいけない」のようなトンデモ医学本は論文誌には載らないが、一般書としてお母さま方などに普及してしまうのと類似した現象と言えよう。
「日大はこいつにゼミ開講させたけど、それは大丈夫なん?」は、仰るとおりかもしれません。
・弥助問題の岡美穂子氏
当初ロックリー氏を擁護したと鬼のように批判されていた学者の方。
もちろん人身攻撃をしようにも批判ポイントは、ないです。経歴(博士号も持ってらっしゃいます)、論文数(もちろん査読もたくさん)、受賞歴からするにその論文の内容も問題ないのでしょう(権威主義)。
「配偶者の方がロックリー氏の著作に好意的なコメントを寄せていた」の一本槍で戦うのはちょっと無理筋ですよね。コメント読みましたけど、学術的ではなく「おはなし」としての評価ですし、応援コメントに批判を載せるわけにもいきませんし……
となると、純粋に弥助問題をめぐる発言内容を批判するしかないでしょうね。私は特に発言内容も問題ないとは思いますけど……大名が黒人奴隷を求めた、も、まあ全体としてはそうなのでしょう(「こぞって」の一語だけが手落ちかもしれないがそこまで批判すべきでもない)し、むしろ炯眼だなぁと思います(何様?私よりも数倍偉大な方だと思います)
今改めてTwitterを検索してみたらColabo問題と絡めて語っているツイートがわんさか引っかかって少しクラっと来ました。まあまだあの頃は都知事選よりも前だったし連続敗訴も始まる前の熱狂にあったので若干割り引きますけど……
なんかここだけ敬語になっちゃった。基本的にメディアに出る方ではないので、そもそもやり玉に上がったこと自体がおかしいです。
・上野千鶴子氏
経歴、実績、文句なし。マジですごい学者です。
基本的に人身攻撃はしづらい学者でしょう。最近よく見た人身攻撃の例としては「おひとりさまを説いたお前が結婚しちゃあダメだろ!」というものがあったが、「おひとりさまの老後」は別に未婚を奨励したものではないし、むしろ結婚は仲の良い男性の死後の処理の便宜のためであって、彼の逝去によって本の通りに上野氏は「おひとりさま」になったわけであり、この論点を持ち出すのは「読まずに批判とな?」と思われる(ただし周りもみんな読んでないので、エコーチェンバーに居ればバレない)。
「活動家じゃないか!」はどうなんですかね。両立しますよね。むしろ学問に裏打ちされてない活動家の方がいやじゃない…?活動を支える理論を批判しない限りはこれも厳しいですね。
いや~やっぱり発言内容と真正面からがっぷり4つになるしかないんじゃないですかね……頑張ろう!フェミニズムあんま関係ない論点なら勝ち目はあるかも!?
・成田悠輔氏
社会学者じゃなくて経済学者ですね。
経歴、論文、文句なしだと思います。
専門以外の分野の発言内容やメディアに於ける態度などを批判するしかないのではないでしょうか。やっぱり頭の使いどころですね。
他にパッと思いつかないのですが、まあ、だいたいこんな感じで