第1章 それはイギリスから始まった

本題を始める前に、一つ断っておかなくてはならないことがある。これから触れる話の中には、親についての記述が、幾たびも登場するだろうと思う。それは、決して良い話として出てこないだろうと思う。だから、あらかじめ断っておく。

親には、感謝してもしきれないという思いがある。算数・数学の歴史は、私のこれまでの生活において、非常に重たいウェイトを占めるものであり、親とのかかわりについても、無視できないものであった。しかし、とはいっても、それがすべてではないというのも、また事実である。親との関係は、非常に良好で、よい家族であると思う。そして、いろいろ良いものも受け取った。感謝している。これから、親のことを非常に悪く言うだろうが、誤解のないように、あらかじめ、くぎを刺しておこうと思う。

算数ができないらしいということがはっきりしたのは、小学校2年生の時であった。そのとき私は、父親の仕事の都合でイギリスに住んでいて、日本の教育とは違うカリキュラムの環境で育った。

母親はそれが心配だったようだ。彼女は日本からドリルを取り寄せ、毎日私に教えた。漢字の書き取りもやったし、国語の検定教科書もわざわざ音読した覚えがある。しかし、算数のドリルをやった記憶だけが、やたら鮮明で、しかも苦痛に満ちている。

文章問題は、本当にわからなかった。「わからない」という感覚が苦痛でならなかった。母親は、隣でよく教えてくれたが、その甲斐はほぼなかった。母親の問題の解説を聞いて、腑に落ちて、すっきりしたという記憶がない。だいたいの場合、一回聞いてもわからず、何がわからないのかもわからないために、もう一度解説を求めなくてはならなかった。もう一度きりの説明で腑に落ちればよかった。しかしそんな都合の良い話があるわけもなく、だいたいの場合はわからなかった。

なんどもほぼ同じ内容を、しかもわからないを連呼する息子に教える母親の声は次第に大きくなっていった。すると自宅で母親が息子に勉強を教えるという、家庭的なあたたかい風景は、ただ子供を叱責するだけの光景へと変貌した。この経験から「わからない」という状態は私にとって一層、苦痛なものになり、加えて罪悪感まで覚えるようになった。この構図は、中学を卒業するまで終わることはなかった。こうして私にとって「勉強=苦痛」「わからない=絶対悪」として記憶され、今に至るまで癒えない傷を残している。

母親のこの時の苦労は、終わりの見えないもので、それは苦しいものであったと思う。母親は理系の出身で、文系の私の算数のわからなさを理解することができなかったようだ。そのお互いの理解のできなさも、私に傷をつけていく原因となった。理解されないわからなさから、ただただ、延々と「わからない」状態を目の前に提示し続けられるだけの生き地獄を生み出してしまった。

加えて、やはりイギリスでの生活だったということを抜きにしては、片づけることはできないだろう。知らない土地での生活、知らない人々、日本とは違う教育。日本に帰ってから、遅れをとらないようにと母親は必死だったのである。

そんなある日、母親は癇癪を起した。あまりのわからなさに、駄々をこねる息子のことが手に余ったのだろう。机の上にあったドリルを床に薙ぎ払って、「もうやらなくていい」とヒステリックに叫んだ。こんな母親を見たのは後にも先にもこの時だけである。

小学校の3年生の時に日本に帰ってきたが、私の算数成績事情は、まったく悪いままであった。特別悪化した覚えもないが、小学校の5年生から進学塾に通い始めることになった。これは、私にトラウマを植え付ける悲劇の始まりであった。

わからないことが続いた。解けない問題は、噛み切ることのできない、肉の筋のように後味が悪く残った。大抵の場合は基本問題ですら、解くことができなかった。例題は解けても、基本問題とどうつながっているのか、何がつながっているのか、全く理解ができなかった。応用問題は、当然まったく手が出ず、歯が立たず、やる前から諦めた。
塾の先生の解説も基本問題は何とか飲み込めても、応用問題はわからなかった。

宿題は終わらぬ、果てしない地獄であった。宿題が終わらないと、夕飯を食べさせてもらえないことも、しばしばあった。本当にいやだった。自分の努力ではどうしようもない壁が、ほぼ毎日眼前に立ちはだかった。途方もない無力感に、頭をかかえ、泣き崩れた。このとき私は努力することの無意味さ、虚しさの味を覚えた。

それでもなんとか、私立の中学校に合格した。この当時のW受験という試験の仕組みに救われた、奇跡の合格であったと言っていいだろう。この合格は、神の導きがあったとしか言いようがない。W受験は翌年から廃止になったのである。

晴れて、私立の中学に入学したわけだが、私にとってこの中学、高校という青春時時代は、明るい記憶を語ることが多い、大変よい時代であった。両親には本当に感謝している。

しかし、明るい記憶では覆い隠せない、数学との死闘の始まりを告げる出来事でもあった。本当の苦しみが、これから始まろうとは、明るい未来に思いを馳せる12歳の少年の自分は、知る由もないのだ。

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