第2章 数学の災禍、果てしなく-1
中学に上がった。
13歳を目前にした春、私は私立の中学校に入学した。不安はあまりなかった。新しい顔ぶれに心を躍らせた。
数学への不安もそこまでなかった。「算数はできなくても、数学はできるということがある」と言われていた。そうした大人の励ましを真に受け、ひそかに震えたった。
「算数を克服するチャンスだ」
現実は、残酷だった。なにも変わらなかった。出だしはできても、あとが続かなかった。
朝には確認テストと呼ばれる、授業の単元ごとのテストがあった。曜日ごとに科目が設定され、確か、火曜日が数学の日だった。私が、数学の確認テストで合格点の80点を超えたのは、中学の3年間でたった1回しかなかった。
最初こそ、苦悩したが、人の慣れとは怖いもので、「どうせできない」と思うようになった。そのうち、体まで慣れて、それも思わずに、匙を投げた。確認テストの追試で21時ごろまで、居残った。いつも最後の1人だった。
数学の課題は、いつまでも手元に残った。わからず、手が出ず、何分も手が動かぬままであった。
「なんでもいいから、手を動かせ」と大人は言った。「なんでもいい」の意味がわからなかった。書ける回答など、存在しないのだから、出だしの問題文だけ書いたら、あとが続かなかった。白紙のノートを目の前にして、虚しく時間が過ぎていった。
わからないからと言って、親に聞きに行くこともあったが、収穫はなかった。むしろ、叱られるようにして、罪悪感と無力感を抱えて部屋に戻ってきた。「わからなかったら、叱られる」とさえ、このころの自分は語っている。
遊びたかった。絵をかきたくて仕方なかった。
仕方がないから、宿題をやっているふりをして、こそこそ絵を描いた。遊ぶということの罪悪感が日に日に積もっていった。遊ぶことは、「悪いこと」になった。
高校での進学はエスカレーターであったので、受験のことは、気にしなかった。しかし、文系か理系かと問われた私は、文系に進むしかなかった。
機械の設計をしたかった。インダストリアルデザイナーになりたかった。大学は工学部の機械科を出るのが全うな道であるはずだったが、ここで夢は潰えてしまった。
加えてこのころから、私の認知は歪みだした。
「数学ができなきゃ、人でなしだ」
こういう思いがあっての文系進学であったから、薄暗い思いがふつふつとつのるばかりであった。
「数学は役に立つ科目だ。それができないなんて、なんの意味もない人間だ」という信念から、自分は何か役に立つことをやらねばならぬという、夢に取りつかれた。本心であったとは思えぬが、「役に名立たなければ価値がない」という信条は、大学の進路選択に大きな影響を及ぼした。
「役に立たなければ、価値がない」。そのため、高校では、体を痛めつけるように、数学を勉強した。身にならぬ勉強であったから、ただ「自分を痛めつけた」。そうした信条と、無理な学習計画は、ただ精神と体を蝕んだだけだった。
なんども自分に、「ホラ、できないだろ?ひとでなし」といって、ノートに「×」をつけていった。ほとんどすべての課題は赤ペンで、回答を写した。自分の人格を赤ペンで修正されているような気持になった。数学は心の傷で血濡れたノートだった。
残酷なことに、その作業は自らの手で、積極的に行われた。つぎつぎと、つく赤印。「自分のやることは間違っているんだ」という、歪んだ認知を植え付けた。この印象は、四半世紀生きた今でも残っている。今でも、人に意見を言うのが怖く、自分の持っている資質や才能について、卑屈になってしまう。赤印が付いたのは、ノートの上だけではなかった。
課題は、こんな調子だったから、テストで点数がとれるはずもなかった。だいたい30点を切った。一桁はざらだった。何も思わなかった。自分は、できなくて当然なのだ。
「がんばったって、できるわけがないのだ」
しかし、数学を諦めることは、人間をやめることに意味を等しく思っていた私は、死闘を続けるしかなかった。
そのうち私は、数学の対策のために、塾に行き始めた。一対一の個人塾だった。この個人塾での経験は、高校3年間で、最も貶めた経験の一つだ。この塾での授業の経験は、のちのちまで数学のコンプレックスを植え付ける決定的な経験となった。