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カーテンコール ~砂の女王 ホクトベガ
アラブ首長国連邦ドバイ。
砂漠の中にそこだけ輝く緑…、ナド・アルシバ競馬場。
1997年春、ダートの世界一決定戦ドバイワールドカップ。
ホクトベガは、このレースを最後に引退するはずであった…。
ハイセイコー、オグリキャップ…、地方競馬出身で中央競馬に名乗りをあげ活躍するというサクセスストーリーを演じた馬は多い。
しかし、ホクトベガはエリザベス女王杯を勝ったGⅠ馬であるにも関わらず、逆に中央から地方へと流れていった…。
中央のメインに比べれば、日の当たらぬ地方のレース。
だが、そこで、彼女は、競馬界の常識をことごとくくつがえした。
牝馬は、6歳(現在の馬齢で5歳)ごろになると引退し繁殖入りするのが普通であるが、彼女がとてつもない活躍をし出したのは、その6歳の夏からであった。
ダートでとてつもない力を発揮しつづけ「砂の女王」と呼ばれるまでにのぼりつめたホクトベガ。
牝馬の引退年令をはるかに超えても、彼女は走りつづけた。
7歳になっても衰えぬその強さはまさに驚異であった。
そして、日本から遠く離れた砂漠の地で、彼女は星になった…。
1 失望
1990年3月26日、北海道、酒井牧場で1頭の牝馬が産気づいた。
この牝馬が前年に産んだ牡馬ホクトサンバーストは、品評会でも最優秀に選ばれ破格の値がついた。
「産まれくるこの子も…」
酒井は期待に胸を膨らませ仔馬の誕生を待っていた。
しかし、産まれた仔馬の姿を見た瞬間、期待は失望に変わる…。
体は大きい、だが顔が大きく骨が太い。
サラブレッドの理想とはかけ離れた体型に、
「これは、だめだ・・・」
思わずそうつぶやいた。
売買価格は、この牧場で育てた馬の中で最も安い値段だったが、それでも酒井は買い手がついただけでホッとしたという。
2ヵ月後、馬主の森と調教師の中野が訪れるが、中野の反応もまた酒井と同じであった。
しかし、森は、この馬になぜか惹かれた。
ひとり期待を寄せる森は、この馬にホクトベガと名付けた。
牧場にいる間、気弱な彼女は他の馬にいじめられ逃げてばかりいた。
2歳になり育成施設に移ってからは、さらに悲惨だった。
完全に落ちこぼれ・・・。
他の馬は坂路調教を平気で2本こなしているのに、1本でバテバテ。
その姿には、さすがの森も失望した。
3歳になり、いよいよ美浦トレーニングセンターの中野厩舎に入厩した。
担当厩務員には、17年目の藤井が選ばれた。
彼は、名門 中野厩舎にあっても、有名なレースに出るような馬を育てたことはまだ一度もなかった。
同期の馬が次々とデビューする中、ホクトベガは体質が弱くデビューすらできないでいた。
しかし、調教助手(騎乗してトレーニングをつける人)の田端だけは唯一人、彼女に他馬とは違う手応えを感じていた。
トモ(後脚)の蹴りが大きく他馬の倍ぐらいに上がる馬で、気を抜けば振り落とされそうになることもあるほどだった。
「何か違う・・・」
その予感は当たっていた。
2 底力
1993年1月5日、4歳(現3歳)になり、やっとデビューを迎えたホクトベガは、9馬身差の圧勝で初戦を飾り、関係者を驚かせた。
その後も3戦2勝、2着1回と安定した成績を残し、落ちこぼれだった彼女は、一躍クラシック候補に踊り出た。
しかし、体質が弱くデリケートな彼女は、長距離輸送をすると飼い葉食いが落ち、馬体が著しく減ってしまう。
阪神競馬場で行われた桜花賞も、それが致命傷となり5着。
さらに2000m以内が適距離の彼女は、オークスでも6着に終わった。
秋を迎え、クイーンS(2着)、ローズS(3着)を好走し迎えた
牝馬三冠最後の一戦エリザベス女王杯、
ホクトベガは9番人気だった。
奇しくも1番人気は2冠馬ベガであった。
今回はローズS後も京都に滞在し体調の維持に努め、距離の壁を克服するためコースロスのないインコースを走る作戦をとった。
その作戦がズバリ当たり、直線鋭く抜け出した彼女は、見事に優勝を飾った。
ゴール前の実況
「ベガはベガでも、ホクトベガ!」
という名セリフは今も記憶に新しい。
長年、日陰を歩き続けてきた藤井も、ついに華やかな表舞台に立つこととなった。
甘えん坊で気が弱い、そのくせわがまま・・・、
手のかかる馬であったが、藤井はどんな時も彼女がその気になるまで待った。
勝負の世界では不向きにも思える藤井の優しすぎる性格が、彼女の秘めたる力を引き出したのかもしれない。
しかし、2人の本当の苦悩はここから始まった。
3 砂の女王
エリザベス女王杯を勝ったことで、出走するレースの選択が非常に難しくなってきた。
基本的に2000m以内がホクトベガの適距離であったが、安田記念や秋の天皇賞では一流牡馬が相手で、そこまでの力はない。
かといって、GⅡやGⅢに出走すれば、GⅠ馬の彼女には他馬よりも2㎏重いハンデが課せられてしまう。
番組表を眺め、悩みながら出走レースを選んでいったものの、その後の1年半での成績は、15戦2勝。
年齢的にも引退を考える時期であったが、調教師の中野は、
「ホクトベガは繁殖には向かない。走れる限りは走って賞金を稼ぐのがベスト」
と考えた。
1995年、競馬人気の高騰に沸くJRAは、この年、人気が停滞する地方競馬にも活力をと中央と地方との交流レースを設ける。
だが、中央の競馬関係者は、このレースへの出走をためらった。
地方の馬が相手なら勝って当たり前、負ければキズがつく。
しかし、中野はこのレースに飛びついた。
53㎏と軽ハンデで出走できるからだった。
「この条件なら勝てる。」そう確信した。
だが、レースが近付くにつれ、プレッシャーが中野を襲う。
ホクトベガはGⅠ馬、それがもし負けたらどれほどの非難を浴びるかは容易に想像できた。
それでも、「勝てるレースがあるなら挑戦させるのが調教師の使命」という自分の信念に従い出走させた。
1995年6月13日、川崎競馬場(地方競馬)、ダート2000m。
ここでホクトベガは、18馬身差という記録的な圧勝を飾り、復活ののろしを上げた。
それを手土産に中央に戻ったが、芝では結果を残せなかった。
引退もささやかれ始めた中、6歳最後のレースに選んだ2度目の中央・地方交流戦で、彼女は再び圧勝する。
この時から、戦いの場を地方競馬のダートにしぼった。
7歳を迎え、同期の馬が次々と引退し母となっていく中、彼女は走り続けた。
中央・地方交流戦を求め、旅から旅…、
遠征ごとに馬体重を落としながら、それでも彼女は勝ち続けた。
1996年秋のことだった。盛岡での交流競走、南部杯を前に彼女は左前脚に屈腱炎を発症してしまう。
多くのサラブレッドが引退を余儀なくされるこの不治の病を、わずか1ヶ月で奇跡的に克服した彼女は、何事もなかったかのように南部杯を圧勝する。
消長の激しい牝馬は好調を維持するのが難しい。
しかも7歳という年齢を迎えても勝ち続けるホクトベガ。
彼女は競走馬の常識を超えていた。
中野はホクトベガを
「彼女はモナリザ。その微笑と同じように彼女の強さも永遠の謎・・・」
そう評した。
華やかな中央の香りとともに、
凄まじいまでの強さを見せつけてくれる「砂の女王」
その強さは女王というより鬼であった。
船橋、高崎、大井、盛岡・・・、彼女が出走する地方の競馬場は、かつてないほどの盛り上がりを見せ、観客動員記録が次々と塗り替えられた。
そして、中央・地方交流レース9連勝を達成する。
ダートでは、もはや国内に敵はいなかった。
中野は、砂の女王の引退にふさわしい花道として、
アラブ首長国連邦で行われる、世界最高賞金額レース(1着賞金2億8,800万円)、ドバイワールドカップを選んだ。
4 砂漠
1997年3月、春まだ浅い日本から灼熱の砂漠ドバイ(UAE)への20時間に及ぶ長距離輸送。気温は30度を超えた。
突然の環境の変化にホクトベガはやつれ馬体は30㎏も減っていた。
さらに裂蹄(蹄のひび割れ)にも悩まされる…。
体調が戻らぬままレース当日を迎え、残念ながら出走を断念せざるを得なかった。
ところが、レースの5時間前、奇跡が起きる。
30年ぶりという集中豪雨(年平均降雨量の2倍)がドバイを襲った。
そのため、レースは9日間延期されたのだ。
その間、藤井の必死の努力もあり、ホクトベガの体調は万全となった。
しかも雨で締まって軽くなった馬場も、彼女に味方しているようだった。
そして1997年4月3日、運命の日を迎える。
レース前、彼女はいつもより甘えていた。
藤井に顔をすり寄せ人を恋しがるような仕草をしきりに見せた。
「どうしたんだろう」
と思いながらも、藤井はいつものように優しくなでた。
そして彼女をスタート地点まで連れて行った。
またがった横山騎手も、ホクトベガには気負いもなく、
いつものように力を出し切れると信じた。
藤井はゴール地点で彼女を待った。
しかし、彼女が藤井のもとに再び戻ってくることはなかった…。
スタートしてから78秒後・・・、
第4コーナーにさしかかったとき、
ホクトベガは崩れ落ちるように倒れ、力尽きた…。
スタンドから見守る中野は、砂煙でよく見えなかったが、
その馬がホクトベガであることを直感した。
最終コーナーで馬場のわずかなくぼみに左前脚をとられ転倒、
左前腕節部複雑骨折による予後不良…。
安楽死の処分がとられたのは、その数分後だった。
花の盛りは春とは限らない。コスモス、リンドウ・・・、秋に咲く花は、つつましいが味わいがある。
ホクトベガは、他の牝馬が引退する年齢を迎えた頃からとてつもない活躍をし出した。
そして、牝馬の引退年令をはるかに超えても、彼女は走りつづけた。
華やかなスター街道を歩んだ馬ではない。
だが、なぜか彼女の姿は、多くの人々の心をとらえた。
人生にはたくさんの奇跡が転がっている。
忘れた頃にやってきた奇跡は、待たされた時間の長さの分だけ、味わいの深い物になっているのかもしれない。