これは多分、書き留めておくべきこと。

社会・他人に迎合し続けることが大人になるということならば、僕は一生子供のままだ。今のところ。でもそれを良しとしているわけではない。空気を読んで話を合わせることも目上を持ち上げることも、自分が今後得をするために必要な行為なのだ。それを理解しているからこそ、できない自分に落ち込む。僕だってどこかの物語のような恋愛がしたいし、仲良くない人との飲み会も楽しく過ごしたいのだ。努力もできるだけしてきた。でもその努力(=迎合)をすればするほど、途方もない絶望が襲ってくる。迎合することで得られる表面的で即席の快楽(批判的に表現してしまうほど僕の見解は偏っている)と、どうしようもない絶望とを天秤にかけ続けた結果、僕は完全に化け物になってしまった。捻くれや天邪鬼なんてものじゃない。自分でも本心がわからないんだ。常に自分を守り、他人を貶めるための言い分を考え続けているようだ。

僕は他人の行動から自分を遠ざけ、嘲笑した。中学から今(20歳)に至るまでこの行為はどんどんエスカレートしている。そんなことできるわけがないのに、まるで彼らを天から俯瞰しているかのような気でいるのだ。我ながらこのデカすぎる自尊心と有り余る自己顕示には感心してしまう。神にでもなったつもりか、恥ずかしい。

実際のところ、僕の現在の生活はまあまあ充実している。恋人はいないが、環境が変わっても連絡を取り続けてくれる友人はいるし、部活動にバイト、遊びで日々の予定は大半埋まっている。こんな化け物みたいな僕がなぜ他人と関わることができ、そして一定の好意を持たれているのか、本当に疑問だった。もしかしたら僕は創作の主人公を演じ続けているのかもしれない。ふとそう思った。

漫画や小説、アニメや音楽などの創作物には子供の時から慣れ親しんできた。だから主人公がこの後とりそうな行動や思考がなんとなく予想できるし、理解もできる。そういった主人公たちの言動を反芻し、自分の趣味嗜好に応じて種々の主人公を演じ分けているのではないか。自分自身の人生を用いて。その“仮面”を被ってさえいれば、自分は決して迎合することなく他人とうまく付き合っていくことができる。

人格とまではいかないが、僕自身「キャラがよく変わるな」とたびたび感じていた(高校、大学入学などある程度の節目になると特に)。これは僕の中で演じたい主人公が変わったからなのか。おそらく無意識に「憧れ、自分もそうありたいと思うような主人公像」を想起し、演じていたのだ。

これはなんてことはないただの思いつきだけど、もしそうなのであれば、僕の本心は一体どこにあるのだろう。迎合を拒み社会を嘲笑し続けている、捻くれに捻くれたドス黒い何かなんだろうか。もしかしたらこの思考も、自身の架空の理想像をただ演じているだけに過ぎないのかもしれない。

自分自身でさえ本心を掴みかねているのだから、他人なんてもってのほかだ。本当の気持ちなんてわかるわけがない。こうなると、やはり他人の気持ちを察し、気遣うことなど無意味に等しいと感じる。僕たちは所詮表情や会話、行動によって表出された感情でしか、他人の気持ちを推測することはできないのだ。

では、もし僕以外のみんなも、僕と同じ理想の自分を演じているのだとしたら。この考えはかなり腑に落ちる。すべての人間が、彼らなりの理想の役を演じ、この世界は“芝居”であろうとする。これこそ自分の本心だ、と思っていたものは「自分の役が考えそうなこと」であり、それ以上深い自我を自覚することはほぼ不可能である。その「最深部にある自我」は他人が観測することはなく、「それぞれが演じている役柄を想像し、推測すること」が限界である。そしてそれこそが、気を遣うということになるのだ。そう考えるとなんだ、僕は至って正常じゃないか。みんな自分の理想像を演じようとしているんだ。自分の本心も他人のそれも考える必要なんてない。それはこの芝居がかった生活では目にすることができないんだから。

話がだいぶ逸れてしまった。なぜ自分は社会に迎合できないのか。それはきっと「今の自分が思う理想像」が迎合を拒んでいるからだ。しかし、自分の演じる理想像は変わり続ける。5年前の自分と現在の自分では、覚えている限り全くと言っていいほど変化している。この変化こそが僕らの人生であり、生きていくためには常に変わり続けていかなければならないのである。

そう考えると(この場合精神的な)子供 / 大人の境なんて曖昧で、とても定義できるようなものじゃない。誰かが決めた“大人”というレッテルに惑わされてはいけない。現在を生きている僕らはただしたいことをして、今の自分の意思にのみ従い続ければ良いんだ。過去 / 未来の自分を想起する必要なんてないんだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?