不世出の英雄
※初めにこれは完全に主観であり、語句は感覚的に使っているだけなので、文中の抽象表現ははっきり定義されているものではないです。ご理解ください。
私は他者を判断する時、彼(仮)の“表出された言動”でしか彼のパーソナリティを判断することができない。その“表出された言動”が彼の思考と異なっていた場合は、なおさら彼の思考を読み取ることは出来なくなる。その前提を理解していながら、今まで私はこの事象を自分自身に当てはめて考えていなかった。「なんで俺のすごさに誰も気づかないんだ」といじけ、己の自己顕示不足を“私の思考を汲み取れない他者”のせいにしていた。考えていただけでは他者は何も理解してはくれないし、何にも気づかないのだ。
私は思考のアウトプットが苦手だと自覚している。正確には、年を重ねるにつれ段々と意識的にしなくなっていったのかもしれない。ここからは文字にすると本当に恥ずかしいので憚りたいのだが、私は高校くらいから自分が少数派の思考であると感じるようになった。知り合いとの会話で共感できることが段々と減っていき、実際高校時代気の合う友人はかなり少なかった。こうして“少数派の自覚”(酩酊)(死にたい)に目覚めていった私だが、高校や大学の学校生活では知り合いとなるべく話を合わせた。これは別に苦ではない。多数派を貶めようとする意図も全くない。私が知り合いに対して「少数派である」という自己顕示をすることで、知り合いと不和になってしまうことを避けるために私自身が望んでしていることだ。私は「感覚が合わない人とは友達になれない」とは思っていないし、そもそも人と会話することが好きなので、なるべく多くの人と交友関係を持ちたいのだ。そういうわけで私は、だんだんと「少数派でありながら比較的誰とでも仲良くできる人」になってしまった。
”少数派の自分“を自覚するようになってから、自身の考え方や価値観、趣向などがどんどん変化していった。具体的には「ギャップ萌え」や「逆張り」を好み、性格はどんどん天邪鬼になった。そして、「普通っぽい奴が実はヤベー奴だったらオモロい」ということに気がついてしまった。それ以降、私は初対面の人に“少数派である自分“をアウトプットしなくなった。
そんなこんなで今まで生きてきたわけだが、やはり他者と同じ感覚を共有できないことは苦しい。通じ合う知り合いはいるにはいるが、友人関係の中ではわずかだ。私に共感してくれる人と繋がりたい、最近はよくそう思うようになった。今まで話を合わせてきたことで抑圧され続けてきた私自身の“マイノリティ”は、私を理解してくれている数少ない知り合いの前でしか表出できない。でもそれでは新しい顧客は獲得できないのだ。
他者との繋がりを求めるなら、ただ思考しているだけでは意味がない。たとえ「キモオタ」「イキリ」「痛々しい」「ビチグソ」と思われようと、できるだけありのままの自分を言動という形で表出させ、「他者が私を理解するための助け舟」を用意しないといけない。今までの話はあくまで私の考えだが、お互いがこの意識を持ち続け実践し続けなければ、本当の意味で他者を理解し通じ合うことはできないように思える。
P.S. うんち
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