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僕の役割

先日久しぶりに実家に帰った。

僕は男三兄弟の末っ子。子ども時代は要領がよくて甘え上手という末っ子特有のキャラクターで、家族のことよりも自分のこと中心で好き勝手やらせてもらっていた感じだったのだが、現在のポジションは家で起きる困りごとや家族間の譲らない主張の交通整理をする大事な役目を仰せつかっている。

いつからそんな役回りになったのかはわからないが、父も母も兄も僕の話はちゃんと聴いてくれるのだ。というのも僕がそれぞれの話をちゃんと聴いているからだと思うのだが、1週間に一度の実家への電話は父と30分話すと、「じゃあお母さんに替わるね」と次は母と30分という具合になって、あっという間に1時間コースとなってしまう。

そもそも我が家はおしゃべり家族なのだと思うのだが、僕がいない時の会話は、それぞれが自分の言いたいことを言い、そして相手が話し出すと相手の長い話は聴きたくないとさえぎって自分の話をするといった感じが続くらしいのだ。

おそらく歳をとってくると自分が思っていることを言葉にするのがうまくできなくて、そうなると真意が相手に伝わらず誤解され、相手の反応が自分がイメージしたものと違ってくる。
そうなるとなおさら分かってもらおうと言葉を繰り出すが、どんどん話が長くなる。
長くなればなるほど聴いている相手は飽きてしまい話をさえぎってしまう。
話している方は消化不良を起こし、ストレスは最高潮に達する。

そんな感じなのではないかと僕は分析している。
なので父の話を聴いた上で、「こういうことを伝えたいのね」と本人に確認し、「そういうことみたいよ」と母に伝えて、それに対して母はどう感じるかを聴いて、それを要約して父に伝える。
それを繰り返すと1時間なんてあっという間に過ぎてしまう。

そんないつもの電話ではなく今回帰省したのは両親の「車の免許返上」という重たいテーマがあったからだ。
高齢者による車の事故は後をたたず、我が家にとっても他人事ではない身近な問題だったのだが、長い長い家族会議の結果、父は乗らないという決断をし、母は条件付きの運転継続ですすむことになった。

老いがすすんでくると自分ひとりでできることがだんだんと減っていき、自分の行動が制限されていく。それはとても悔しいし悲しいことだと思う。だからこそ心から納得して決断するというプロセスが大事なのだと思うのだ。

帰り際、両親は何度も「帰ってきてくれてありがとう」と言う。
僕ができることは何でもしてあげたいし、気持ちに寄り添ってあげたい。

そう思える息子に育ててくれたのは父と母なのだと胸を熱くしながら帰宅の途についた。