ウマ娘全然好きじゃないのに映画を観に行ったんだけど
劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』を観た。
これは僕という人間を知っている人からすると全員から「なんで観に行ったん?」とツッコまれる話だと思う。
なぜなら僕はウマ娘のゲームもほとんどやってないし、アニメもなんか途中で止まってるし、勿論競馬も見たことなければ馬の歴史にも明るくない。だって、馬より人間の方が好きだから。
僕がどれだけウマ娘について詳しくないかというと、今回の劇場版公式サイトを見渡しても見たことあるウマ娘がアグネスタキオンしかいない。
アグネスタキオンは知ってる。Twitterでトレーナー君がショタ化する薬を飲ませようとしてくる二次創作を前に見たから。
ショタ化っていいよな。ショタ化は馬にはできない、最も人間らしい行いだから。
でも、劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』を観た。
そして僕はこの映画に出会うべくして出会ったのだと確信した。
だから、これはその時の気持ちを残しておくための、乱雑で配慮のない、心にカビとキノコの生えた陰キャオタクの恥文だ。
アグネスタキオンの顔が凄い映画があるらしい
「そもそもなぜ行くことにしたのか」という話だが、これは極めて単純である。予告のアグネスタキオンの顔が凄かったからだ。
見てほしい、この顔を。
すごい。狂っている。
映画『トラペジウム』を観に行った時の予告で、僕はそう思わされてしまった。
こういう狂った顔を描けるアニメ作品はなるべく観ておくべきだ。
その“狂い”が本物であったならきっと素敵な思い出になるし、偽物であったならそれを見抜けなかった自分を笑えばいい。こんな楽しい賭け事はない。
そういうわけで、僕の内なるショタがアグネスタキオンを観に行きたいと騒ぎ出す。
そして僕は同時に大人の人間でもあるので、行きたいと思ったら平日の映画館に友人を誘ってオタクのアニメを観に行ける。
観てみようじゃないか、アグネスタキオンの顔が狂っている映画を。
音響が凄い
「音響が凄い」は最早オタクが映画を褒める際のとりあえず言っとけ常套句第1位の言葉だ。
実際素人目に見て音響が凄くない映画などほとんどない。僕に言わせればなんだか壮大でカッコいい音楽でバーン!と劇場が震えていればだいたい凄いのだから。
だが、それを承知で言わせてほしい。
『新時代の扉』の音響は本当に凄い。
カッコいい劇伴は勿論、ウマ娘が大地を蹴り飛ばし泥が跳ねる音も、ジャングルポケットの喪失を現すラムネの切ないサウンドも、アグネスタキオンのこの世のものとは思えない怪演も、全ての音が気持ちいい。
僕は映画を観ている最中に「おっ、これはちゃんと集中しないといけないぞ」とよく背筋を伸ばす癖があるのだけれど、この映画は劇伴が切り替わる度に背筋を伸ばしていた気がする。
認めてやるよ、ジャングルポケット
ハッキリ言うと、僕はこの映画の主役はジャングルポケットとアグネスタキオンの2名だと思っている。
メインどころのウマ娘は他にもいるし実際カッコよかった(し、もしかしたら僕の知らない設定もあるのかもしれない)のだが、中心となるジャングルポケットの物語に絞るとやはりこの2名のドラマが全てを総括している。
この主役たるジャングルポケットさんという方のことは劇場で見るまで詳しく存じ上げなかったのだが、溢れる豪快さと表情豊かさは劇場のスクリーンでとても楽しい気分にさせてくれた。
僕がショタ化しても一緒にトレセン学園で迷子になってくれそうなところが特にポイント高い。
そして勿論、彼女の憧れであるフジキセキ先輩とのやり取りも文句なしに素晴らしかった。
いきなり胸元をこれでもかと開けた勝負服のフジキセキ先輩が現れたら僕なんかは他人のフリをしてしまいそうなものだが、そこで素直に感動していたところもジャングルポケットの良さが出ていると思った。
僕だったら他人のフリをしていたと思うが。
それはそうと、このジャングルポケットの友達三人衆がもう信じられないぐらいに滅茶苦茶可愛い。
こいつらとジャングルポケットが仲良くしてるところだけ5分のショートアニメで見たい。ウマ娘界最強のラーメン店主を目指す回とかやっててほしい。
そして最も大事なことだが、僕がショタ化してトレセン学園に迷い込んだ際には、是非ともこの3人に面倒を見られたいと思う。鞄の中に入ってるハッピーターンとかきのこの山とか恵んでくれそうだから。
それがどれだけ幸せなことかわかってるぅ!?
……とまぁ、ここまで書いた内容だけでもわかる通り、映画を滅茶苦茶に楽しんでしまった。
最初は「まぁ適度に楽しい映画であればいいかな」ぐらいに思っていた。何を偉そうにと思うかもしれないが、知らないアニメ映画を観る時の心持ちというのはえてしてそういうものだ。
が、しかし。
僕はアグネスタキオンというウマ娘の輪郭が見えてくるにつれて姿勢を考えなければいけなくなる。
具体的に作品への態度そのものを改めたのは、中盤でアグネスタキオンが事実上の引退宣言を放った瞬間だった。
このシーンは確かに凄い。
画面がいきなり真っ赤になったかと思えば、アグネスタキオンが表舞台から消えていた。
主役のジャングルポケットにとっては大きな目標の喪失。よくある映画の脚本術で言えばターニングポイントというやつだ。
だが、このシーンが真に凄いのはそんなテンプレートに沿った部分ではない。シド・フィールドには書き切れない、“狂気”がこの映画にはある。
僕にとってはこの上なく、ウマ娘が恐ろしいと思わされた箇所。
それが、記者会見を終えたアグネスタキオンに詰め寄る他のウマ娘たちの描写だった。
ジャングルポケットがアグネスタキオンに詰め寄るのはまぁ、わかる。
彼女にとっては因縁浅からぬ相手であり、目標だったから。
だが、その後に続くウマ娘たちの言葉や態度はジャングルポケットのそれとは少し違う。
「なぜ、そんな簡単に走ることをやめられるのか」
「なぜ、それだけの才能を持ちながら走らないのか」
その誰も彼もが、言葉の裏に僕の知らないある前提を隠しているように思えた。
まるで、「走らないウマ娘に、価値などないのだから」とでも言うように。
僕はそれが何よりも冷たく、そして恐ろしく感じられた。
それを前提として当然のように受け入れているウマ娘たちがいることも、今までそんな世界でアグネスタキオンが生きていたことも。
僕のような人間からすればただ一つの区切りでしかないアグネスタキオンの宣言は、ウマ娘たちにとっての根本的な価値観を揺るがすものだったのだという。
僕はこの映画を見るまで、てっきりアグネスタキオンが狂っているのだとばかり思いこんでいた。そうではなかった。
狂っていたのは、アグネスタキオン以外のウマ娘たちだったのだ。
僕はウマ娘のこと全然好きじゃないけど
僕は馬が好きなわけではない。馬を見ても可愛いと思ったことはないし、馬の歴史に興味があるわけでもなければ競馬を観戦したこともない。
でもその代わり、人間が好きだ。
人間一個人が、その人の望む幸福に向かって歩いていくことを僕は強く望む。
僕がそういう風に感じるのは、幼い頃から肌の色や生まれた環境で理不尽に未来を選べなくなった人たちを間近に見ていたからだろうか。
それとも、親から虐待を受けていた従兄弟を誰も救えずに少年院へ送るしかなかった光景を見て育ったからだろうか。
ともあれ、僕はヒトとして生まれた者には自らの幸福を掴み取ってほしいと思ってしまう。例え、それがフィクションのキャラクターであっても。
「ウマ娘、彼女たちは走るために生まれてきた」
ウマ娘のメディアに触れる度に流れる、これ。
ハッキリ言って、僕はこの文言が大嫌いだ。
人間は元来、生まれ持った枷や逆境というものから自由になるために世界をより良く作り変えてきた。
海を泳げない人間が船で水を渡れるように、空を飛べない人間が飛行機で遠くの国へ行けるように、視力の悪い人間が眼鏡を手にしたように、女性がピンク以外の色を好きでいてもいいように、男性が家事や育児に専念してもいいように、同性愛者がその愛を公表してもいいように。
僕はそれらの進歩と拡張を、心の底から素晴らしいことだと信じている。
人には個々人の幸福を追求する権利があり、その人にとって何が真の幸福であるかを探求することが(現代社会において比較的多くの場合は)可能だ。
だから、それらと真っ向から相反する「走るために生まれてきた」というウマ娘の語られ方は、僕には正直どう受け取っていいのかよくわからない。
確かに、年端もいかない少女たちを集団として従わせるためには社会のルールが必要だ。そう言い聞かせることもあるのかもしれない。
そして、どんな人間でも社会の規範を守るのは気分がいい。それが正しいことだからだ。
だが、正しいことは彼女たちの掴んだ幸福なのだろうか。
彼女たちが走っているのは「それが命の形として正しいから」だと“ウマ娘”は語っている。
その在り方は、果たしてどこまで“正しい”ものなのだろう。
ウマ娘が“ヒト”と同じ視点や姿を持つほどに、それはある種のおぞましさを増す表現だと僕は思う。
なぜなら、この世に生まれ落ちた命の価値が、その個人が求める幸福の形が、自身以外の第三者の手によって勝手に決められていいはずがないのだから。
だから、僕はアグネスタキオンが走るための目的を自身の中に”研究”という形で持っていると分かった時、ひどく安堵した。
彼女がその尺度を自分の中である程度確立している姿はとても高潔なことだと思うし、それができているからこそ彼女は勝ち負けに頓着しない。
そして、きっと(これは僕の願望も含むが)そうであるが故にあれだけの他を寄せ付けない強さを持ち得たのだろうと思う。
それは最も人間らしいアイデンティティの獲得であり、その目的に向かって走るアグネスタキオンの勇姿を僕は心から尊いものだと考える。
扉
では、この映画の主役たるジャングルポケットはどうだったのだろう?
そう、その部分こそがこの映画の肝心要。最も重要な部分だ。
ジャングルポケットは”最強”の喪失により、走る意味を見出せなくなった。
だが、彼女の憧れであり一度折れたフジキセキは自分を超えるために再び立ち上がった。
そして絶対王者のテイエムオペラオーは既に自分が行く覇道をその目に宿している。
なら、ジャングルポケットはどうやって”最強”になる?
決まっている。”最強”の自分を超えるために、彼女もまた何度でも立ち上がるのだ。
そんなジャングルポケットの姿を見て、客席にいたアグネスタキオン自身もまた自分の望みを叶えるために、”最強”の自分を超えるために立ち上がり、走り出す。
そこに、この映画の美しさの全てがあると思った。
僕は他の媒体のウマ娘をほとんど知らないので、あくまでこの映画の話だが。
『新時代の扉』はジャングルポケットとアグネスタキオンを通して、「ウマ娘は走るために生まれてきた」というあの世界の社会規範のようなものを打ち破ってみせた快作だと感じた。
ウマ娘は走るために生まれてきたのか?
ウマ娘はそう在ることが正しいから、走るのか?
走れないウマ娘は、”正しくない”存在になるのか?
そんなはずがない。そんな道理があってはならない。
走れなくなっても、ウマ娘は再び立ち上がれる。
走る理由は社会に与えられたものではなく、自分自身で探して自分だけのものを手に入れることができる。
それはまるで……人間のようではないか?
僕の中では、ジャングルポケットとアグネスタキオンがそれぞれの道を見つけた時、初めてウマ娘を好きかもしれないと思えた。
僕にとっては、この映画こそがウマ娘への扉だったのだ。
ありがとう、『新時代の扉』。あともう一回ぐらいは観に行きたいな。
アグネスタキオンって、可愛いとこあるじゃん
そういうわけで、アプリを始めてアグネスタキオンの育成を始めた。
お前……そんな顔もできんのかよ…………
映画を一緒に観た友人に聞いたところ、ジャングルポケットはこの映画公開時点ではゲームで使用できないらしい。こんな凄い主役映画作っておいてそんなことある?
ジャングルポケットのいないゲームではアグネスタキオンも寂しかろう。
ということで、僕がしばらくアグネスタキオンのトレーナー君になるのでアグネスタキオンも早くアポトキシン4869とかで僕をショタにしてほしい。
この導入なら、トレーナー君をショタ化する薬が登場するのもそう遠くはなさそうな気がする。
ところで心理学者ゴードン・オールポートの生涯に、「偏見を防ぐにはどうすればいいのか」という研究がある。
その答えは実にシンプルで、「交流すること」らしい。
オールポートは偏見・憎しみ・人種差別は交流の欠如から生まれていると考えた。
そしてここまで黙っていたが、僕はそもそもスポ根ものが割と苦手だ。
実のところスポーツに打ち込む楽しさをあまりよく知らないし、勝負ごとの勝敗にもさして興味はない。
でも例えばスポ根や勝負の先にある個人の人生の話なんかは大好きだし、今回の映画で言えばジャングルポケットの苦悩とアグネスタキオンのアイデンティティについては本当に興奮しながら鑑賞していた。
つまるところ、ウマ娘が好きじゃないからと言って『新時代の扉』に触れていなかったら、僕はこの興奮に出会うこともなければアグネスタキオンと交流することもなかったのだ。
自分の知らない文化との交流は、決して円満には行かないことも多い。
だがそれでも、行かなければわからなかったこと、見えなかったものに出会うことの方が遥かに多い。
僕は『新時代の扉』に賭けて、そして勝利した。
そういうわけだから、僕はウマ娘が好きじゃないなりに、もうしばらくアグネスタキオンの話を聞いてみようと思う。
僕は『新時代の扉』と出会うべくして出会ったのだから。
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