消えた音楽

町外れの小さなカフェ「エコー」。ここでは、毎晩閉店間際になると必ず一曲だけ、古びたピアノが演奏される。それは誰が弾くのか、誰も知らない。店のオーナーであるリサさえ、その正体を知らないという。

その夜も、最後の客が店を出てリサが片付けをしていると、ピアノの鍵盤がひとりでに動き出した。「エリーゼのために」の旋律が、静かな店内に響き渡る。誰もいないはずの店内で、毎晩のように続くこの現象。リサは慣れているようで、特に驚いた様子もなく耳を傾けていた。

しかし、常連客の中には、この不可解な演奏を不気味がる人も少なくなかった。ある日、興味を抑えきれなくなった若い男性客、カズがリサに問いかけた。

「リサさん、このピアノの謎、解き明かそうと思ったことはないんですか?」

リサは少し考えてから、静かに首を振った。

「謎があるから、この店には人が集まるのよ。そして、謎のままの方が美しいこともある。」

カズはその答えに納得できない様子だったが、それ以上は深く聞かなかった。しかし、好奇心の駆られたカズは、その夜こっそりカフェに戻ることを決意した。


真夜中の「エコー」。リサが帰宅し、店内は暗闇に包まれていた。カズは裏口から忍び込み、ピアノのそばに隠れた。時計の針が深夜0時を指すと、空気が急に冷たくなり、周囲が異様な静寂に包まれる。そして、鍵盤が再び動き出し、「エリーゼのために」が響き始めた。

息を呑みながら、カズは目を凝らした。ピアノの近くには誰もいない。それどころか、鍵盤を押す指のような影もない。それでも音楽は確かに存在している。

不意に、音楽が止まった。

「見つけちゃったの?」

背後から、誰かの声が聞こえた。振り返ると、そこには見知らぬ女性が立っていた。淡い光に包まれたその姿は、どこか現実味を欠いている。彼女は微笑みながら、そっと指を唇に当てた。

「この音楽は、ここに残り続けるべきもの。誰にも壊させない。」

カズが言葉を発する前に、女性の姿はかき消すように消え、同時にカズの意識も途絶えた。


翌朝、リサが店を開けると、カズがピアノの前で眠り込んでいた。彼を揺り起こすと、カズは夢か現実か分からない様子で、昨夜の出来事を語った。しかし、リサは微笑んでこう答えるだけだった。

「だから言ったでしょ。謎はそのままにしておくほうがいいって。」

その日から、カズは二度と「エコー」に現れなかった。ピアノの演奏は、相変わらず毎晩閉店間際に響き渡り続けている。

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