記憶の森

辺りはすっかり闇に包まれていた。新月の夜、広大な森の中を歩いていたのは、20代後半の女性、佐久間藍だった。彼女は都会で働くOLで、ストレスに押し潰されそうになる日々から逃れるため、ふと衝動的にこの森を訪れたのだ。

「静かで、いいところね……」

そう呟きながら、彼女は携帯のライトを頼りに歩き続けた。目的地もなければ、誰かに連絡をする予定もない。ただ、森の中を彷徨いながら、心の中の重荷が少しでも軽くなればいいと考えていた。

しばらくすると、不思議な光景が目に入った。森の奥深くに、小さな光がちらちらと揺れている。まるでランタンのようなその光に引き寄せられるように、藍は足を進めた。

やがて光の正体が見えてきた。それは一本の大きな樹だった。幹には無数の光が灯り、まるで星空が地上に降り立ったかのような美しさだった。藍は思わず息を呑み、近づいた。

すると、不意に声が聞こえた。

「ようこそ、『記憶の樹』へ。」

驚いて振り返ると、そこには小さな老人が立っていた。白髪と長いひげが特徴的なその老人は、どこか妖精のような雰囲気を漂わせていた。

「記憶の樹……?」

「そうだよ。この樹は、人間が心に抱えた記憶を映し出す特別なものだ。君がここに来たのも、きっと何かを知りたかったからだろう?」

藍は戸惑いながらも頷いた。確かに、心の中には解消できない疑問や苦しみが渦巻いていた。

「じゃあ、触れてごらん。」

老人の指示に従い、藍はそっと樹の幹に手を当てた。その瞬間、光が強く輝き、目の前に一つの映像が浮かび上がった。

それは、幼いころの藍と母親の記憶だった。母は忙しい仕事を抱えながらも、毎晩絵本を読んでくれていた。だがその後、藍が思春期を迎えるころにはすれ違いが増え、彼女は母と距離を置くようになった。今では連絡すらほとんど取っていない。

「お母さん……」

呟く藍に、老人は優しく言った。「この樹が見せるのは、君が大切にしている記憶だ。だが、それだけじゃない。君が忘れたいと思った記憶も映し出される。」

再び光が揺らめき、次の映像が現れた。それは、藍が会社で上司に叱責されている場面だった。自分のミスで大きなプロジェクトが頓挫し、責任を感じながらも逃げ出した日の記憶だ。

藍は思わず顔を背けたが、老人は首を振った。「逃げるのは簡単だ。でも、それじゃ何も変わらない。自分を受け入れなければ、前には進めないよ。」

その言葉に、藍の心が少しずつほぐれていくのを感じた。

「どうすればいいんですか……?」

「まずは、大切な人に正直な気持ちを伝えることだ。そして、自分自身にもね。」

藍は静かに頷いた。気がつくと、樹の光が次第に弱まり、森の中は再び闇に包まれていた。老人も姿を消していたが、不思議と怖さは感じなかった。

森を出た後、藍はすぐにスマートフォンを取り出し、母にメッセージを送った。

「お母さん、元気ですか?久しぶりに会いたいです。」

送信ボタンを押すと、どこか胸の中が軽くなるのを感じた。そして、彼女の新しい一歩が始まった。森で見た「記憶の樹」と老人のことは、もう誰にも話さないかもしれない。けれど、それは確かに藍の中で大切な宝物となったのだった。

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