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半生を振り返ってみる

現在、自宅に10年ひきこもってる42の男です。
最近頭が少しクリアになってきたので、真剣に今の状態を振り返ってみました。
拙い文章ですが、少しでも同じような状態の人の助けになれば、と思って書いてみます。
家族構成は父母と1つ上の兄が一人います。
父は定年で引退していて母は亡くなって10年ぐらい経ちます。今は父と二人暮らし。


小中高と友達もいっぱいでき、楽しかった。なまじっか勉強ができたので、自分で言うのもなんだがレベルの高い高校に入ってしまい、高校では成績はいつも悪かった。赤点で進学の危機レベルまでいっていた。
高校で全く授業についていけなかったので大学受験時の高校知識はほぼゼロ。大学に入るのに二浪もしてしまった。しかしここではよく勉強した、特に二年目は。1日8~10時間ぐらい机にかじりついていたかな。

よく怒鳴る父だった。父は働き、母は専業で子育て、いわゆる典型的な昭和の家庭で、手は出していなかった?(記憶があやふや)みたいだが夫婦喧嘩もよくしていた。
母は優しかった。過保護すぎるきらいもあったが、とにかく子供の味方をしてくれた。子供の小さい頃は内職をしていて、手が離れるようになってからはパートにも出ていた。
夫婦喧嘩をしていて、父が「そんな安い給料で!」と怒鳴っていたことを良く覚えている。子供心ながら酷いことを言うなあと思ったものだ。

幼少の頃の最古の記憶は、就寝時、真っ暗な部屋で兄と二人寝かされていて、なかなか寝付けないのでふすまを少し開けたら「早く寝ろ!」と怒鳴られたことだ。それが何度もあったと思う。次第にふすまは開けられなくなった。

そのせいで今だに父が怖い。トラウマになってしまっている。しかし大学まで行かせてくれて(母が説得してくれたのだが)、今も何も言わず置いていてくれて感謝もしている。複雑な気持ち。自分ももうこの年で、親がも何もあったもんじゃないが。アダルトチルドレンなので。

ひきこもりの片鱗は学生の時分から出てきていた。
友達といれば平気なのだが、知らない店に一人で入ると汗が滝のように出た。電車も一人だと苦手だった。女子も苦手だった。緊張して話せなかった。(小学校の時ぐらいは話せていたかも)それぞれ好きな女子はいたけど告白なんてとてもとても。
あととにかく本音が話せない。成長するにつれてこの傾向は強くなっていった。最近読み返した、太宰治の人間失格に幼少期は道化を演じていたなんて書いてあり妙に共感してしてまった。

なんとか大学を卒業し、院まで行ったのだが、ここで1回目のつまずきがあった。院試が補欠で4年時に在籍していた研究室が変わってしまった。数か月通っていたが早々に退学してしまった。うまくなじめなかったのかもしれない。助教の先生も親身に話を聞いてくれたのだが、本音が話せないでいた。
初ニート。

家で何をやっていたかあまり記憶がないが、ゲームとかそういうのばっかりしていた気がする。それでもこの時は母が存命中でいろいろ世話を焼いてくれ、いかんなと思い、面接に行き、ニート半年ぐらいで就職した。

会社は同県にあったが家からは通えなかったので家を出た。すごい開放感だった。
田舎だったので、最初はめちゃくちゃ緊張したが、車の運転はうまくなった。
仕事はたいして面白くなかったが良い上司に巡り合い、色々教えてもらった。仲の良い同僚もできた。
あとここで世話焼き女史が彼女を紹介してくれて、付き合いだした。

順風満帆だったが、5年ほど勤めて東日本大震災が来た。
家や会社の被害はたいして大きくなかったが、原発の爆発が不安でしょうがなくなり、会社を休職。
原発の悪情報をネットで調べては悲観するという、今思うとアホなことをしていた。
3ヵ月ほど休んだだろうか、彼女と母の助けもあって復職。
しかし今度は会社の業績が悪化し、リストラに会う。
このときはまだ29歳の若手で残れるはずだったが、休職がひびいた。ついてない。

同じくリストラされた同僚と一緒にハロワに書類を出しに行き、帰りに昼間から酒を飲んだ。昼間の酒は格別だった。月一で昼間から宴会。話は就職話。

しかしまだこの時は若かったこともあり、失業保険が切れるタイミングに合わせて飛び回った(怠惰)。
緊張しいなので面接では滝汗が流れるが、10社ぐらい回ってなんとか次が決まった。昼酒同僚も結構いいとこに決まっていた。

次の会社は他県で実家からは車で2時間ほどの場所にあった。
ここは外資で大学時に専攻していた内容と仕事がぴったりだったので仕事も面白かった。同僚もいい人達ばかりでレベルも高く、給料も良かった。
なに?フレックス?何時に出社してもいい?外資スゲェー
英語は喋れなかったが国内要員ってことで置いてもらっていた。一応勉強はしてたけども。

で、少しして結婚。彼女に会社を辞めてもらって同居。入ってすぐに新婚旅行に行く新人。
彼女も小さい頃いじめを受けた人で少し精神障害があった。でもその分とても優しい人だった。8年間付き合って傷つくようなことを言われた覚えは一度もない。2時間電話してくるとかはうっとおしかったけど。
彼女のご両親もとても柔和で優しい人達で、前の会社の時分には近かったので、彼女の家に入り浸っていた。

2年ほどして。
前から悪かったのだが、ここで母の体調が特に悪化した。酒による肝硬変。兄は実家にいたが、仕事?が忙しく、ほとんど家にいなかった。父と二人きりの時間がよっぽどストレスになったのだろう。焼酎ばかり飲んでいた。
次第に自分の精神状態も悪化していき、また休職。

休職している間に奥さんに実家に戻って貰い、母と兄にこっちに来てもらって色々遊びまわった。温泉地だったので温泉ばかりだったかなあ。兄はなんでいたんだっけ、あれも会社休んでたんだっけ。

その後、母はあっけなく死んでしまった。
葬式ではこらえていたけれど、どれだけ泣いたことか。帰りの高速のパーキングで泣き、家で泣き。とにかくワンワン泣いた。

復職していたタイミングだったがしばらくしてまた休職。
たまの面談で、話につまった総務の人が技術の話題を振ってくれた。「〇〇の世界って面白いですよねー」みたいな感じだったかな。
そこで全く興味の失せている自分に驚いた。あれほど一生懸命楽しく研究していたのに。

しばらく家に一人でいて、たまに奥さんもきてくれた。
そしてせっかく来てくれたのに酷いことを言ってしまった。「ニートは二人もいらん」とかなんとか。
奥さんも日に日に痩せていった。
ああ、結局は自分も父と同じかと思い、別れることにした。そしてそのまま退職。
あとはアパートに2年ぐらい一人でいて何もする気が起きず、見かねた父と兄がアパートを引き払う準備をしてくれ、実家へ戻った。

実家にきてからも精神は改善せず、父に怒鳴られる度に悪化した。(年を取って父もだいぶ丸くはなったが)
そしてはや8年。兄もようやく結婚し、子供も生まれ、よく遊びに来てくれたり、一緒に遊びに連れ出してくれる。(兄も母の死で苦しんだようだ。会社を休んだり、転職もしていた。)
しかしこの10年の記憶はほとんどない。

つい最近練炭と七輪をアマゾンで見ていた時に、急にわかってきた。
自分の臆病の根本は父の怒鳴りであり、悲観的に考えることに全くいいことなんかないのだと。あれこれ考えて悲観すればするだけ脳が傷つく。ただの自傷行為だ。
大切なのは人生を楽しむことだ。人との会話を楽しみ、自然を楽しむ。こんな簡単なことに気付くのに10年もかかるとは。多少は頭がいいと自負していたが全くの大バカだ。

「人間失格」の主人公は父が死に、腑抜けたようになったと書いていたが、自分はどうだろうか。とりあえず楽観的に生きてみようと思う。

・自分と関わってくれた多くの人達へ
不義理をしてしまってごめんなさい、そして本当にありがとうございました。










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